婚約破棄、清算しましょう。真実の愛は非効率!?

恋の箱庭

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「兄上! 話がある!」

その日、公爵邸の静寂は、またしても騒々しい訪問者によって破られた。

執務室の扉がバン! と開かれる。

現れたのは、肩で息をするカイル王子だった。

彼は護衛の騎士たちを振り切り、ズカズカと部屋の中央まで進み出ると、書類仕事中のイロハと、優雅に紅茶を飲んでいたシルヴィスを交互に睨みつけた。

「……またか。学習能力がないな」

シルヴィスが呆れ顔でカップを置く。

「カイル。ここは私の私邸だ。アポイントメントのない訪問は不法侵入だと教えたはずだが?」

「うるさい! そんな悠長なことを言っている場合じゃないんだ!」

カイルは叫ぶと、イロハに向かって手を伸ばした。

「イロハ! 帰ろう! 今すぐにだ!」

「お断りします」

イロハは顔も上げずに即答した。

「現在、公爵領の年度末決算処理の真っ最中です。私の集中力を乱すと、計算ミス(1円のズレ)が発生します。その場合の捜索コストは殿下が負担してくださいますか?」

「金の話なんてどうでもいい! 愛の話をしているんだ!」

「愛で決算書は埋まりません」

「イロハ!」

カイルは地団駄を踏んだ。

「分かったんだ! 君がいなくなって、僕は何もできない無能な男だと! マリアも最近おかしいんだ。『よし!』とか『前方確認!』とか叫びながらロボットみたいに歩いていて、癒やしが全然ない!」

「それは安全管理(リスクマネジメント)の成果ですね。喜ばしいことです」

「喜ばしくない! 僕は君の冷たい視線と、完璧な事務処理能力と、あとたまに見せるドヤ顔が恋しいんだ!」

カイルは必死の形相で訴える。

「君こそが僕の運命の相手だったんだ! 復縁しよう! 婚約破棄は撤回だ!」

その言葉に、部屋の気温が急降下した。

シルヴィスがゆっくりと立ち上がる。

その全身から、どす黒い殺気が立ち昇っていた。

「……おい、カイル」

低い、地の底から響くような声。

「私の目の前で、私の女に求愛するとは……いい度胸だ。その首から上の飾り物、今すぐ不要にしてやろうか?」

「ひっ……!」

カイルが怯むが、今日ばかりは彼も引かなかった。

「脅しには屈しないぞ兄上! 国の未来がかかっているんだ! イロハは国の頭脳だ! それを一介の貴族が独占するなんて許されない!」

「独占? 違うな。彼女が私を選んだのだ」

「洗脳だ! 金で釣ったんだろう!」

「否定はせんが、それも甲斐性だ」

二人の男が睨み合う。

冷徹な魔王公爵と、必死なバカ王子。

一触即発の空気。

普通の恋愛小説なら、ヒロインが「私のために争わないで!」と泣く場面だ。

しかし、イロハはペンを置き、パチパチと電卓を叩き始めた。

「……ふむ」

彼女は冷静な声で割って入った。

「お二人とも、少し静かにしていただけますか? 議論が平行線で時間の無駄(コスト)です」

「イロハ! 君も言ってくれ! 兄上に脅されているんだろう!?」

「イロハ。お前からも言ってやれ。あんな貧乏くじ(王家)に戻る気はないと」

二人の視線がイロハに集中する。

イロハは眼鏡の位置をクイッと直すと、淡々と言い放った。

「感情論はどうでもいいです。条件(スペック)で比較検討しましょう」

「条件?」

「はい。これは『イロハ・フォン・ローゼン』という人材の争奪戦(オークション)です。より良い条件を提示した方と契約します」

イロハは指示棒を取り出し、ホワイトボードに向かった。

キュッ、キュッと二人の名前を書く。

「まず、カイル殿下。貴方の提示条件は?」

「えっ? あ、愛……と、側室の地位……かな?」

「年収は?」

「え、年収? 王族だから特に決まってないけど……小遣い制で……」

イロハは容赦なくホワイトボードに『年収:不明(低水準)』『地位:非正規雇用(側室)』『備考:業務過多、上司が無能』と書き込んだ。

「判定:Eランク案件です。論外ですね」

「ぐああっ!?」

カイルがダメージを受ける。

「次に、シルヴィス閣下。現在の条件は?」

「基本給は王立魔導士の三倍。残業代全額支給。ボーナス年四回。福利厚生完備。さらに――」

シルヴィスはニヤリと笑った。

「私の全財産と権力を、お前の好きに使っていい」

イロハは『年収:天井知らず』『地位:CFO兼愛人(正妻昇格可)』『備考:顔が良い、決済権限あり』と書き込んだ。

「判定:SSSランク案件です」

「勝負ありだな」

シルヴィスが勝ち誇る。

「ま、待て! ずるいぞ! 兄上は金を持っているから!」

カイルが叫ぶ。

「イロハ! 金じゃ買えないものがあるだろう! 思い出とか! 幼馴染の絆とか!」

「思い出は換金できません。減価償却済みです」

イロハはバッサリ切り捨てた。

「ですが……そうですね。カイル殿下にも一つだけ、逆転のチャンス(勝機)があります」

「ほ、本当か!?」

「はい。現在、シルヴィス閣下との契約において、一点だけ不満があります」

イロハはシルヴィスをジロリと見た。

「閣下は最近、業務時間外の拘束……つまり『イチャイチャする時間』を要求しすぎです。昨夜も『膝枕をしてくれ』と二時間拘束されました。あれは労働基準法違反ギリギリです」

「コミュニケーションだと言っただろう。それに手当は出したぞ」

「足が痺れました。あれは労災です」

イロハはカイルに向き直った。

「カイル殿下。もし貴方が『定時退社完全保証』かつ『プライベートへの干渉ゼロ』、そして『現在の閣下の提示額の倍の給与』を約束できるなら、移籍を検討します」

「ば、倍……!?」

カイルは絶句した。

現在のイロハの給与は、すでに国家予算レベルだ。その倍となれば、国が破産する。

「む、無理だ……そんな金、どこにも……」

「では、交渉決裂です」

イロハはホワイトボードの文字を消した。

「勝者、シルヴィス・グランディエ公爵閣下」

「当然の結果だ」

シルヴィスは優雅に歩み寄り、イロハの腰を引き寄せた。

「聞いたな、カイル。彼女は高いぞ? お前のような貧乏人に維持できる女ではない」

「くっ……くそぉぉぉッ!」

カイルは涙目で後ずさる。

「覚えてろ! 諦めないぞ! いつか必ず、埋蔵金でも掘り当てて迎えに来るからな!」

捨て台詞を残し、カイルは嵐のように去っていった。

再び静寂が戻る。

「……やれやれ。騒がしい客だった」

シルヴィスはため息をつき、イロハを見下ろした。

「しかし、イロハ。お前も悪い女だ。私を試すような真似をして」

「試していません。市場競争(マーケット・メカニズム)を導入しただけです。独占企業になるとサービスが低下しますから、常に競合他社の存在を意識していただかないと」

イロハは澄ました顔で電卓を叩く。

「というわけで閣下。今回の『防衛成功報酬』として、私の時給を10%アップしてください」

「……は?」

「カイル殿下を撃退したのは私です。競合他社からの引き抜きを阻止したわけですから、その分のコストは負担していただきます」

「……お前、本当にどこまでも……」

シルヴィスは苦笑し、やがて楽しそうに吹き出した。

「いいだろう。上げてやる。その代わり――」

彼はイロハの耳元に唇を寄せた。

「今夜も『残業』してもらうぞ? 昨日の膝枕の続きだ。今度は朝まで逃がさん」

「……」

イロハは電卓の手を止めた。

「……承知しました。では、残業代の係数を1.5倍で計上しておきます」

「金の話ばかりするな。可愛くない口だ」

シルヴィスはイロハの口をキスで塞いだ。

泥沼の三角関係は、圧倒的な資金力と契約書の厚みによって、公爵の完全勝利で幕を閉じた。

だが、イロハの懐事情だけは、確実に潤い続けているのであった。
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