婚約破棄、清算しましょう。真実の愛は非効率!?

恋の箱庭

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「いいですか、あなたたちの最大の問題は『在庫回転率』の低さです」

地下アジトの中央。

黒板代わりの煤けた壁に向かい、イロハは石ころでグラフを描きながら熱弁を振るっていた。

「盗んだ物品をいつまでも倉庫に眠らせているから、キャッシュフローが悪化するのです。盗品は鮮度が命。市場価格の七掛けですぐに売り抜ける! これを徹底しなさい!」

「「「イエッサー! CFO(最高財務責任者)!」」」

三人のスパイたちは、涙を流しながらメモを取っていた。

「すげぇ……今まで『高く売れるまで待て』と言われてたけど、保管コストなんて考えたこともなかった!」

「在庫は罪(シン)……! 心に刻みます!」

「先生、次の講義は『リスクヘッジとしての分散投資』をお願いします!」

完全に宗教団体のセミナー会場と化していた。

イロハは満足げに頷く。

「よろしい。学習意欲(モチベーション)は高いですね。では次は、あなたたちの給与体系の見直しについて……」

その時だった。

ズズズズズ……。

地下室全体が、激しく振動した。

「な、なんだ!? 地震か!?」

スパイたちが色めき立つ。

「いいえ、地震にしてはP波(初期微動)がありません。これは直下型衝撃――」

イロハが分析を終えるより早く。

ドゴォォォォォンッ!!!!!

アジトの天井――分厚い岩盤と石畳で覆われていたはずの天井が、粉々に吹き飛んだ。

瓦礫と共に、太陽の光が差し込み、そして――

「……見つけたぞ」

地獄の底から響くような、凍てつく声が降ってきた。

土煙の中から現れたのは、一人の男。

漆黒のマントを翼のように広げ、片手には紫電を帯びた魔剣。

その瞳は血のように赤く輝き、背後には視覚化できるほどの禍々しい魔力が「龍」の形をして渦巻いていた。

「ひぃぃぃッ!? ま、魔王だぁぁぁッ!?」

スパイたちが腰を抜かして絶叫する。

そう、そこに立っていたのは、怒りで理性を蒸発させ、完全な『魔王モード』と化したシルヴィス・グランディエ公爵だった。

彼は瓦礫の山を一段ずつ降りてくる。

その一歩ごとに、床がミシミシと悲鳴を上げ、周囲の空気が圧縮されていく。

「よくも……私の大事な『心臓』を盗んでくれたな」

シルヴィスがスパイたちに視線を向ける。

ただそれだけで、スパイAが泡を吹いて気絶した。

「覚悟はできているのだろうな? 死などという生温いものでは済まさぬ。魂ごと永遠の虚無に――」

「閣下。天井の修繕費、誰が払うのですか?」

殺伐とした空気を、平坦な声が切り裂いた。

「……あ?」

シルヴィスの殺気がピタリと止まる。

彼はゆっくりと視線を巡らせ――そして、部屋の中央で指示棒(木の枝)を持って立っているイロハを凝視した。

彼女は無傷だった。

いや、無傷どころか、ふかふかの椅子に座り、お茶(スパイが入れた)まで飲んでいる。

「イロハ……?」

「お久しぶりです、閣下。……と言っても、半日ぶりですが」

イロハは呆れたように天井の穴を見上げた。

「正面玄関から来てください。不法侵入にも程があります」

「お、お前……無事、なのか?」

シルヴィスが剣を取り落とす。

カラン、という音が響く。

彼は魔王のオーラを霧散させ、ふらふらとイロハに歩み寄った。

「怪我は? 乱暴はされなかったか? 酷い拷問を受けて泣いているのでは……」

「拷問? ああ、彼らの経営状態が酷すぎて、私の目が『数字酔い』したことならありましたが」

「……」

シルヴィスはイロハの目の前まで来ると、躊躇なく彼女を抱きしめた。

ギュウゥゥッ!

「んぐっ……! く、苦しいです閣下! 肋骨が圧迫されて……!」

「よかった……! 本当によかった……!」

シルヴィスの声が震えている。

「お前がいなくなって、世界が終わったかと思った……。もう二度と離さん。絶対にだ」

その腕の強さと、耳元で聞こえる彼の激しい心臓の音に、イロハは抵抗をやめた。

(……心拍数180超え。異常興奮状態ですね。これでは冷静な対話は不可能です)

イロハは諦めて、彼の背中をポンポンと軽く叩いた。

「私は無事です。資産価値(からだ)に傷一つ付いていませんから、安心してください」

「ああ……そうだな……」

ようやく落ち着きを取り戻したシルヴィスが、体を離す。

そして、部屋の隅で震えているスパイたち(残り二名)と、黒板の「経営再建計画」の文字を交互に見た。

「……状況を説明しろ。これはなんだ?」

「見ての通りです。暇だったので、彼らのコンサルティングをしていました」

イロハはさらりと言った。

「彼らは誘拐犯としては三流ですが、労働力としては素直で有望です。私の指示通りに動くので、屋敷の使用人よりも使い勝手がいいかもしれません」

「……誘拐犯を手懐けて、部下にしたのか?」

「はい。今では私を『CFO』と呼んで慕ってくれています」

「「一生ついていきますぅぅ!」」

スパイたちが土下座しながら叫ぶ。

「……」

シルヴィスは額に手を当て、天を仰いだ。

そして、肩を震わせて――

「くっ……ふふっ、あーっはっはっは!!」

本日二度目の爆笑。

今度は怒りではなく、歓喜と呆れの混じった笑いだ。

「最高だ! やはりお前は最高だイロハ! 魔王である私が乗り込んだら、すでに人質が敵を支配していたとは!」

「笑い事ではありません。彼らの再就職先も斡旋しなければならないのですから」

「いいだろう! 全員まとめて私が雇ってやる! お前の直属の部下としてな!」

シルヴィスは上機嫌でスパイたちを見下ろした。

「おい、虫ケラども。感謝しろ。イロハが口添えしなければ、今頃お前たちは消し炭になっていた」

「あ、ありがとうございますぅぅ! 魔王様ぁぁ!」

「魔王ではない。公爵だ」

シルヴィスはイロハに向き直ると、お姫様抱っこで軽々と持ち上げた。

「きゃっ!? 何をするんですか!」

「帰るぞ。ここは埃っぽい」

「歩けます! 降ろしてください! 運搬コストの無駄です!」

「黙れ。これは私の『精神安定剤』だ。お前の重みを感じていないと、また暴走しそうだ」

シルヴィスはイロハを抱えたまま、瓦礫の山を跳躍して地上へと飛び出した。

「あ、待ってください! 私の講義料の回収がまだ――」

「後で私が払う!」

青空の下、シルヴィスは愛しい荷物を抱えて高らかに笑った。

その背中からは、先ほどまでの殺気は消え失せ、代わりに呆れるほどの「溺愛オーラ」が放たれていた。

イロハはため息をつきつつも、彼の胸板に顔を埋めた。

(……まあ、タクシー代が浮いたと思えば、黒字ですかね)

少しだけ顔が熱いのは、きっと急激な高度変化のせいだと自分に言い聞かせながら。
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