婚約破棄、清算しましょう。真実の愛は非効率!?

恋の箱庭

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「……見すぎです、閣下」

公爵家の馬車の中。

最高級の革張りシートに並んで座りながら、イロハは抗議の声を上げた。

アジトから救出されて以来、シルヴィスは片時もイロハの手を離さず、まるで珍しい宝石でも鑑定するかのように、至近距離で彼女の顔を見つめ続けているのだ。

「視線による摩耗(減価償却)が発生しそうです。別途、鑑賞料を請求しますよ」

「構わん。いくらでも払う」

シルヴィスはイロハの手をギュッと握り直した。

その手は熱く、まだかすかに震えているようにも見えた。

「……本当にお前がここにいるのか、確認しているだけだ」

「いますよ。質量を持った物体として、ここに存在しています」

「ああ。……二度と離さんと言ったはずだ」

シルヴィスはイロハの肩に頭を預けた。

いつもの傲岸不遜な「魔王」の姿はない。

今の彼は、ただの大切なものを失いかけた一人の男だった。

「イロハ。……怖かったぞ」

「私がですか? スパイたちは完全に掌握していましたから、リスクはありませんでしたが」

「違う。私が、だ」

シルヴィスが顔を上げる。

その真紅の瞳が、揺らめくようにイロハを射抜いた。

「お前がいなくなったと知った時……世界中の色が消えた気がした。金も、権力も、国さえもどうでもよくなった。お前がいない世界になど、一秒たりとも価値を感じなかった」

「……」

イロハは口をつぐんだ。

計算機を叩く指が止まる。

彼の言葉には、どんな数字よりも重い「熱量」が込められていたからだ。

「閣下。それは……情緒不安定(センチメンタル)による一時的な判断力の低下です」

「いいや、正常な判断だ」

シルヴィスはイロハの手を取り、その指先に恭しく口づけを落とした。

「イロハ。取引(ディール)の時間だ」

「取引?」

「ああ。カイルから買い取った二十億の借金。あれは全額帳消しにする」

イロハが目を見開いた。

「帳消し? 正気ですか? 二十億ですよ? ドブに捨てるつもりですか?」

「条件がある」

シルヴィスは真剣な眼差しで告げた。

「俺と結婚しろ」

「……」

「これは命令ではない。懇願だ。……俺の妻になり、俺の全財産、俺の権力、そして俺の心臓(いのち)を、お前の好きに管理してくれ」

馬車の中に静寂が落ちる。

車輪が石畳を転がる音だけが、ゴトゴトと響いている。

イロハは深呼吸をした。

そして、いつもの冷静な声で問い返した。

「……メリット(利点)を提示してください」

「メリット?」

「はい。借金の帳消しは魅力的ですが、それだけでは私の『人生』という資産を投資する理由としては弱いです。結婚は長期契約(ロング・ターム・コントラクト)。リスクに見合うリターンが必要です」

可愛げのない返しだ。

だが、シルヴィスは嬉しそうに微笑んだ。

「いいだろう。提示してやる」

彼は指を一本立てた。

「第一に、圧倒的な資本力だ。公爵家の資産は王家を凌ぐ。お前が望む事業、発明、投資……すべてにおいて、無制限の予算(バジェット)を約束する」

「……ふむ。悪くないですね」

「第二に、絶対的な自由だ。俺はお前の行動を制限しない。悪役令嬢だろうが、守銭奴だろうが、ありのままのお前を愛する。お前が誰かに後ろ指を指されたら、その指を俺がへし折ってやる」

「暴力的ですが、警備保障(セキュリティ)としては最高レベルですね」

「そして第三に……」

シルヴィスは、イロハの頬に手を添えた。

「俺は、お前を決して退屈させない」

「退屈?」

「そうだ。俺の周りには、常にトラブルと陰謀と金儲けのチャンスが転がっている。お前のその優秀な脳味噌をフル回転させても、処理しきれないほどの『刺激的な毎日』を提供しよう」

シルヴィスはニヤリと笑った。

「どうだ? カイルのような温室育ちの王子には真似できんぞ? 俺とお前で、この国を――いや、世界を盤上の駒にして遊ぼうじゃないか」

イロハの脳内で、パチパチパチと音が鳴った。

電卓ではない。

彼女の魂が、歓喜の拍手喝采を送っている音だ。

(……無制限の予算。絶対的な自由。そして、難解で刺激的なトラブルの数々……)

彼女はシルヴィスを見つめ返した。

この男は分かっている。

彼女が求めているのは、安穏とした幸せではなく、ヒリヒリするような『攻略の快感』であることを。

「……試算が出ました」

イロハは呟いた。

「結果は?」

「利益率(プロフィット)、測定不能(インフィニティ)。……この投資案件、乗らない手はありません」

イロハは自らシルヴィスの首に手を回した。

「契約成立です、シルヴィス様」

初めて、彼の名を「様」付けで呼んだ。

「貴方の提示した条件、すべて呑みましょう。その代わり、覚悟してくださいね?」

「何をだ?」

「私は強欲です。貴方の財産も、心も、これからの未来も……一ミリ残らず搾り取って、黒字化して差し上げますから」

「望むところだ」

シルヴィスは満足げに頷くと、イロハを引き寄せ、深く、長い口づけを交わした。

電卓も、契約書もない。

ただ、二人の唇が重なる音だけが、契約成立の証印(ハンコ)となった。

「んっ……」

長い口づけの後、イロハは少し息を切らせて、顔を赤らめながら呟いた。

「……今のキス、時間単価で計算すると高額になりますよ」

「請求書を回せ。一生かけて払ってやる」

シルヴィスは愛おしそうに彼女の髪を撫でた。

「さて、屋敷に戻ったら忙しくなるぞ。まずは結婚式の準備だ。それと……」

「それと?」

「あのスパイたち――お前の新しい『部下』どもの入社手続きだな」

馬車の窓の外では、縄で繋がれたまま必死に走ってついてくる元スパイたちの姿があった。

「「「CFOぉぉぉ! 置いていかないでくださいぃぃ! 福利厚生はどうなるんですかぁぁ!」」」

イロハは窓を開け、叫び返した。

「安心しなさい! 有給休暇はありませんが、残業代は出ます! 死ぬ気で走ってきなさい!」

「「「イエッサー!!」」」

イロハは窓を閉め、シルヴィスに向き直ってニッコリと微笑んだ。

「さあ、閣下。帰りましょう。私たちの『城』へ」

その笑顔は、もはや悪役令嬢のものではない。

公爵家の女主人としての、頼もしくも美しい『最強の経営者』の顔だった。

こうして、二人の「契約」は、正式な「婚約」へとアップグレードされたのである。
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