婚約破棄、清算しましょう。真実の愛は非効率!?

恋の箱庭

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「イロハ様ぁ……! 助けてくださいぃぃ!」

公爵邸のサロン。

優雅なティータイムを楽しんでいたイロハとシルヴィスの元へ、またしてもこの声が響き渡った。

「……デジャヴですね。学習機能が実装されていませんか?」

イロハがティーカップを置いて振り返ると、そこには小麦粉まみれのカイル(元王子)とマリアが立っていた。

二人は先日、本当に王家を出て下町のボロアパートに引っ越し、「パン屋・王冠(クラウン)」を開業しようと奮闘していたはずだ。

「どうしました? 小麦粉の先物取引で失敗でも?」

「違います! 物理的な問題です!」

カイルが悲鳴を上げた。

「マリアが……マリアのドジが、業務用レベルに進化しているんです!」

「業務用レベル?」

「はい! 昨日だけで皿を五十枚割り、焼きたてのパンを載せたトレイを三回ひっくり返し、さらにオーブンに頭を突っ込んで前髪を焦がしました!」

カイルはマリアの焦げた前髪を指差した。

「このままではパン屋を開業する前に、店が廃墟になります! 損益分岐点に到達する前に、備品購入費で破産してしまう!」

「……なるほど」

イロハはマリアを見た。

マリアは小麦粉で真っ白になった顔で、しゅんとうつむいている。

「ごめんなさい……。気をつけているんですけど、足が勝手に……重力が私を嫌っているんです……」

「重力は万人に平等です。貴女が重力に喧嘩を売っているだけです」

イロハは立ち上がり、マリアの周りをぐるりと回って観察した。

「……原因が分かりました」

「本当ですか!?」

「ええ。マリア様、貴女は『体幹』が絶望的に弱い。そのくせ、無駄に動きが大きい。結果、重心が常に支持基底面から逸脱しています。要するに『常に転ぶ準備ができている』状態です」

「そんな……私、どうすれば……」

「解決策は二つ。一生、床を這って生活するか。あるいは――」

イロハは懐から設計図(青写真)を取り出した。

以前、公爵邸の裏庭で暇つぶしに描いていたものだ。

「これを作りなさい。『対マリア用・姿勢制御(ジャイロ)搭載型シューズ』です」

「しゅ、シューズ……?」

「靴底に重り(バランサー)を埋め込み、重心を強制的に安定させる靴です。さらに、つま先とかかとに滑り止め加工を施し、転倒リスクを物理的に遮断します」

イロハは設計図をマリアに渡した。

「貴女、刺繍が得意でしたね? 手先が器用なら、この程度の加工はできるはずです。街の靴屋で安物のブーツを買ってきて、この図面通りに改造しなさい」

「わ、私が作るんですか?」

「私はアイデア(知的財産)を提供するだけです。製造(マニュファクチャリング)は現場の責任です」

マリアは設計図を食い入るように見つめた。

そこには、複雑な構造図が描かれているが、なぜかマリアの目には輝きが宿っていた。

「……これ、分かります」

「はい?」

「ここの縫い目、こうすれば強度が上がりますよね? あと、この重りの位置、もう少し内側にすれば……可愛くなります!」

「可愛さは求めていませんが、機能美なら許可します」

マリアはガバッと顔を上げた。

「やってみます! 私、パンを焼くのは下手ですけど、チクチク縫ったり、何かを組み立てるのは好きなんです!」

「ほう。意外な適性(スキル)ですね」

***

三日後。

再び公爵邸に現れたマリアは、見違えるような姿をしていた。

「見てくださいイロハ様! 完成しました!」

彼女が履いていたのは、一見するとゴツい作業用ブーツ。

だが、そこには可愛らしいレースの装飾と、小鳥の刺繍が施されていた。

「名付けて『転ばないわよ1号』です!」

「ネーミングセンスは0点ですが、出来栄えは……」

イロハはしゃがみ込み、靴を検品した。

「……驚きました。縫製が完璧です。重心バランスもミリ単位で調整されている。マリア様、貴女これ、職人(マイスター)レベルですよ?」

「えへへ……夢中で作っちゃいました!」

「試運転(テスト)を行います。そこの花瓶を持って、廊下を全速力で走りなさい」

「はいっ!」

マリアは花瓶を抱え、ダダダッ! と走り出した。

いつもなら三歩でコケて、花瓶が粉砕される未来しか見えない。

カイルが「ああっ! マリア、気をつけて!」と目を覆う。

しかし。

ギュンッ!

マリアはコーナーで見事なドリフト走行を決め、ピタリと静止した。

花瓶の水は一滴もこぼれていない。

「……止まれました! 私、転んでません!」

マリアが歓喜の声を上げる。

「すごい……! 地面が私に吸い付いてくるみたいです!」

「成功ですね」

イロハは満足げに頷いた。

「それが『エンジニアリング』の力です。根性論で解決できない問題も、適切な道具(ツール)があれば解決できます」

「ありがとうございますイロハ様! これでパン屋ができます!」

カイルも涙を流して喜んだ。

「よかったなマリア! これで店が壊れる心配はない! 君は世界一の『走れる看板娘』だ!」

「はい、カイル様!」

二人は手を取り合って喜んでいる。

そこへ、シルヴィスが感心したように口を挟んだ。

「しかしイロハよ。お前、あんな靴の設計図をいつの間に?」

「以前、閣下が『酔っ払って廊下で寝るな』と仰った時に、自動で寝室まで歩行する靴を作ろうとして……没にした案の再利用です」

「……私はそんなこと言っていないぞ。いつの話だ」

「まあ、それはさておき」

イロハは電卓を取り出し、カイルたちの前に立った。

「問題は解決しました。では、報酬の話をしましょう」

「えっ? お金?」

カイルが固まる。

「当然です。技術提供料(ライセンスフィー)です。今後、その靴を履いて業務を行う場合、売上の5%を当家に納めていただきます」

「ご、5%……!? パンの売上の!?」

「安いくらいです。店を破壊される損失(ロス)に比べれば、必要経費でしょう?」

「うぐぐ……確かに……」

「それに、マリア様」

イロハはマリアに向き直った。

「貴女、パン屋もいいですが、その『靴作り』の才能……副業にしませんか?」

「えっ?」

「その靴、需要があります。お年寄り、リハビリ中の患者、そして貴女のようなドジっ子属性の令嬢。……量産して販売すれば、パン屋の十倍は稼げます」

イロハの目が「¥」マークに変わった。

「私がプロデュースします。ブランド名は『マリア・ウォーカー』。キャッチコピーは『もう、転ばない明日へ』。……どうですか? 私と組みませんか?」

「や、やります!」

マリアが即答した。

「私、自分の作ったもので誰かが喜んでくれるなら、何でもやります!」

「商談成立です」

イロハはガッチリとマリアと握手した。

「カイル殿下。貴方はパンを焼いてください。マリア様は店の奥で靴を作ります。これぞ『多角経営(コングロマリット)』の第一歩です」

「ぼ、僕のパン屋が、いつの間にか靴屋のついでみたいに……!?」

カイルは愕然としたが、マリアが嬉しそうなので何も言えなかった。

「ふっ、悪くない」

シルヴィスが笑った。

「元王子がパンを焼き、元聖女候補が靴を作る。そしてそれを管理するのが悪役令嬢。……この国は、随分と面白いことになりそうだ」

こうして、マリアは「破壊の聖女」から「奇跡の靴職人」へと覚醒した。

後に王都で大流行することになる『転ばない靴』の伝説は、ここから始まったのである。

イロハの懐には、また新たな収益源(キャッシュカウ)が追加されたことは言うまでもない。
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