婚約破棄、清算しましょう。真実の愛は非効率!?

恋の箱庭

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「……逃げましょう、閣下」

公爵邸の大広間。

明日の結婚式を前に開催された「前夜祭」は、最高潮の盛り上がりを見せていた。

楽団の演奏、貴族たちの笑い声、シャンパングラスが触れ合う音。

主役であるイロハとシルヴィスは、ひっきりなしに続く祝辞の挨拶攻めに遭い、すでに三時間も拘束されていた。

「同感だ。顔の筋肉が笑顔の形で固定されそうだ」

シルヴィスも限界だったらしい。

二人は目配せを交わすと、給仕が巨大なローストビーフを運び込んでゲストの注目が集まった隙に、そっと会場を抜け出した。

***

人気のいない、静かなバルコニー。

夜風が火照った頬を撫でる。

眼下には、祭りの灯りに照らされた庭園と、その向こうに広がる王都の夜景が見える。

「ふぅ……。前夜祭だけでこの消耗度(コスト)。明日の本番が思いやられます」

イロハは手すりにもたれかかり、大きく息を吐いた。

「全くだ。だが、これも必要な儀式だと思え。……それに、悪くない夜景だ」

シルヴィスが隣に立ち、夜空を見上げる。

二人の間には、これまでのような慌ただしさも、計算高い駆け引きもない、穏やかな沈黙が流れていた。

「……イロハ」

「はい」

「お前と出会ってから、まだ数ヶ月か。……もっと長い時間を共に過ごした気がするな」

「そうですね。密度が濃すぎましたから」

イロハは指折り数え始めた。

「婚約破棄に始まり、二十億の請求、屋敷の再建、誘拐、王家との交渉、バザーの開催……。通常の令嬢が一生かかっても経験しないトラブル(案件)を、四半期で消化しました」

「ははは、違いない」

シルヴィスは楽しそうに笑い、グラスを傾けた。

「退屈しないと言っただろう?」

「ええ。おかげさまで、私のスキルセットは大幅に強化されました。今なら国の一つや二つ、買収できそうです」

「頼もしい限りだ」

シルヴィスはグラスを置き、イロハの方へ向き直った。

彼の真紅の瞳が、月明かりを吸い込んで静かに輝いている。

「イロハ。……私は、お前のその『計算高いところ』が好きだ」

「……」

「感情に流されず、常に最適解を導き出し、どんな逆境でも利益に変えてしまう強さ。……その冷徹な知性こそが、私にとっては何よりも美しい」

ストレートな言葉。

いつものような冗談めかした口調ではない。

「お前が隣にいてくれるなら、私はどんな敵でも倒せるし、どんな国でも作れる気がする。……ありがとう、私を選んでくれて」

「……」

イロハは少しの間、言葉を失った。

計算機を取り出そうとした手が止まる。

今のこの言葉には、どんな数字も、どんな対価も釣り合わないと感じたからだ。

「……閣下。訂正させてください」

イロハはゆっくりと口を開いた。

「私は冷徹ではありません。ただ、損をしたくないだけです」

「知っている」

「それに、貴方を選んだのは条件(スペック)が良かったからですが……今は、それだけではありません」

イロハはシルヴィスを見つめ返した。

「私も……貴方のことが好きですよ」

「本当か?」

「はい。貴方のその圧倒的な決断力、私を信じて任せてくれる度量、そして何より――」

イロハは少し悪戯っぽく微笑んだ。

「貴方の『計算できない浪費癖』以外は、全部好きです」

「……っ、はははは!」

シルヴィスが噴き出した。

「そこは除外か! 愛されていないな、私の浪費癖は」

「当然です。あれがなければ、もっと資産が増えるのに」

「善処しよう。……だが、約束はできん」

シルヴィスは笑いを収めると、恭しく右手を差し出した。

「イロハ。一曲、どうだ? 会場では踊れなかったからな」

「ここでですか? 音楽もありませんが」

「耳を澄ませろ。会場からのワルツが聞こえる」

確かに、微かに漏れ聞こえる旋律が、夜風に乗って届いていた。

イロハは小さくため息をつき、その手を取った。

「……残業代は請求しません。サービス(特別奉仕)です」

「感謝する」

二人はバルコニーの狭い空間で、静かに踊り始めた。

派手な演出も、観客もいない。

ただ、月明かりと、互いの体温だけがある。

シルヴィスのリードは完璧だった。

イロハのステップも、計算され尽くしたように無駄がない。

「……イロハ」

「はい」

「明日の式で、誓いのキスの時間は無制限だと言ったな」

「言いましたね。阻止する対策を練っていますが」

「無駄だ。……今ここで、予行演習(リハーサル)をしておくか?」

シルヴィスの顔が近づく。

イロハの心拍数が、アラートを鳴らすほど跳ね上がった。

(……逃亡不可。回避ルートなし。……受諾(アクセプト)推奨)

「……リハーサルなら、短めでお願いします」

「それは約束できん」

シルヴィスの唇が重なる。

短めどころか、息ができなくなるほど深く、甘い口づけ。

遠くでワルツの旋律が高まり、夜空に一筋の流れ星が落ちた。

計算高い悪役令嬢と、浪費家の魔王公爵。

二人の夜は、まだ始まったばかりだった。
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