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夜会から帰宅した私は、自室に入るなり、深いため息をつきました。
公爵家の令嬢として、淑女の仮面は最後まで崩さなかったつもりですわ。
ですが、鏡に映る自分の顔は、どこか魂が抜けたような、それでいて妙に晴れやかな、複雑な表情をしていました。
「……さて。感傷に浸っている暇はありませんわね。まずは『これ』をどうにかしなくては」
私はクローゼットの奥に隠された、巨大な隠し扉を開けました。
そこには、私の十七年間の「愛の結晶」が所狭しと並んでいます。
ラベルが貼られた小瓶の山。……これは殿下の部屋の「空気」を季節ごとに採取したものですわ。
奥にある等身大のぬいぐるみは、私が夜な夜な殿下のサイズを測り、一針一針愛を込めて縫い上げた「セドリック殿下1号」。
そして、床から天井まで積み上げられた、殿下の行動記録ノート、全五百巻。
「今見ると、我ながら……いえ、これは純愛ですわ。ええ、純愛のはず。……でも、今の私はただの『婚約破棄された女』。これが見つかったら、公爵家の名に傷がつくだけでは済みませんわね」
下手をすれば、「変質者の巣窟」として国家憲兵隊が突入してくるレベルです。
私は震える手で、ノートの第一巻を手に取りました。
『〇年〇月〇日。殿下、初めての離乳食。カボチャのペーストを口の端につけられた。尊い。即座にそのカボチャを回収し、永久保存を試みるも母上に没収された』
「……我ながら、三歳の頃から一歩も引かない執着心ですわね」
私は決意を固め、部屋に控えていた侍女のアンに声をかけました。
「アン、庭に大きな穴を掘ってちょうだい。それと、強力な焼却炉の準備を」
「お嬢様……ついに、証拠隠滅の時が来たのですか?」
「失礼な言い方をしないで。これは過去の自分との決別よ」
「そうですか。では、殿下の抜け毛で作ったあの『魔除けのタペストリー』も燃やしますか?」
「……それだけは、もう少しだけ考えさせて」
アンは無表情に、「それがいけないんですよ」と呟いて部屋を出ていきました。
彼女は私の唯一の理解者であり、私の「裏の活動」を支えてくれた優秀な協力者です。
彼女がいなければ、殿下の入浴中にお湯の温度を遠隔で調整することなど不可能でしたわ。
一方その頃、王宮のセドリック殿下の寝室では。
「……おかしい。私の靴下がない。右足用の、あの少し厚手のやつだ!」
セドリックは、半狂乱になってタンスをひっくり返していました。
本来なら、彼が指を鳴らせば完璧なコーディネートが差し出されるはずでした。
「殿下、落ち着いてください。靴下くらい、予備がいくらでもあるでしょう」
傍らでルルネが困ったように声をかけますが、セドリックのパニックは収まりません。
「違うんだルルネ! 私はあの靴下でないと、一歩目がうまく踏み出せないんだ! いつもなら、朝起きた瞬間に枕元に置かれているはずなのに……!」
「それは、ノワール様が用意されていたのでは……?」
「……! な、なな、まさか! 彼女は公爵令嬢だぞ!? 私の靴下の管理など、そんな卑俗な真似を……」
セドリックは、ふと思い出しました。
かつてノワールが「殿下の足裏の角質ケアは、国家の安定に繋がります」と真顔で言っていたことを。
「ま、まさか、本当にあいつが……? いや、そんなはずはない。私は自由になったんだ。靴下くらい、自分で選べる!」
彼は震える手で適当な靴下を履こうとしましたが、なぜか左右で長さが違います。
実はノワールが、彼の歩き癖に合わせて、ミリ単位で靴下の伸縮率を調整していたことなど、彼は知る由もありません。
再び、ブラッディ公爵邸。
庭では、激しい炎が上がっていました。
私の愛(物理的な証拠)が、黒い煙となって夜空に消えていきます。
「……ああ、私の青春が」
「お嬢様、泣かないでください。代わりに、この最新式の『全自動・気配遮断訓練機』を使いましょう。これなら、殿下を追わなくても自分を高められます」
「アン、私、普通の女の子になるって決めたのよ? そんな暗殺者の修行みたいな道具はいらないわ」
「……では、この『普通の令嬢のための、爽やかな微笑み練習帳』を」
差し出された本を開くと、そこには「相手を威圧しない目の開き方」や「殺気を消した挨拶の仕方」が詳しく載っていました。
……どうやら私、普通の令嬢になるには、前提条件からしてハードルが高すぎるようですわ。
「アン、とりあえず、明日の朝食は自分で作ってみるわ。殿下の毒味のために覚えた料理の腕、自分のために使うのも悪くないもの」
「お嬢様が包丁を握ると、どうしても食材を『解体』しているように見えますが……頑張ってください」
私は燃え盛る焼却炉を見つめながら、拳を握りしめました。
セドリック殿下。
見ていてください。私は、貴方に「捨てて惜しかった」と思わせるような、最高の「普通」を手に入れてみせますわ。
……あ、待って。あの焼却炉の中に、殿下が十歳の時に投げ捨てた「カジったリンゴの芯」の標本が入っていませんでしたか!?
「アン! 火を止めて! それだけは、それだけは私のソウル(魂)なの!」
「遅いです。もう炭になりました」
「……うっ、ううう……ひどいわ……。私の、私の十年間が……!」
庭に響き渡る私の悲鳴。
これまでのストーカー……いえ、献身的な愛の歴史が、文字通り灰になった瞬間でした。
しかし、この時の私はまだ気づいていませんでした。
私が「普通の生活」を送ろうと努力すればするほど、なぜか周囲には「高潔でストイックな聖女」だと勘違いされ、新たな騒動を引き起こすことになるということに――。
公爵家の令嬢として、淑女の仮面は最後まで崩さなかったつもりですわ。
ですが、鏡に映る自分の顔は、どこか魂が抜けたような、それでいて妙に晴れやかな、複雑な表情をしていました。
「……さて。感傷に浸っている暇はありませんわね。まずは『これ』をどうにかしなくては」
私はクローゼットの奥に隠された、巨大な隠し扉を開けました。
そこには、私の十七年間の「愛の結晶」が所狭しと並んでいます。
ラベルが貼られた小瓶の山。……これは殿下の部屋の「空気」を季節ごとに採取したものですわ。
奥にある等身大のぬいぐるみは、私が夜な夜な殿下のサイズを測り、一針一針愛を込めて縫い上げた「セドリック殿下1号」。
そして、床から天井まで積み上げられた、殿下の行動記録ノート、全五百巻。
「今見ると、我ながら……いえ、これは純愛ですわ。ええ、純愛のはず。……でも、今の私はただの『婚約破棄された女』。これが見つかったら、公爵家の名に傷がつくだけでは済みませんわね」
下手をすれば、「変質者の巣窟」として国家憲兵隊が突入してくるレベルです。
私は震える手で、ノートの第一巻を手に取りました。
『〇年〇月〇日。殿下、初めての離乳食。カボチャのペーストを口の端につけられた。尊い。即座にそのカボチャを回収し、永久保存を試みるも母上に没収された』
「……我ながら、三歳の頃から一歩も引かない執着心ですわね」
私は決意を固め、部屋に控えていた侍女のアンに声をかけました。
「アン、庭に大きな穴を掘ってちょうだい。それと、強力な焼却炉の準備を」
「お嬢様……ついに、証拠隠滅の時が来たのですか?」
「失礼な言い方をしないで。これは過去の自分との決別よ」
「そうですか。では、殿下の抜け毛で作ったあの『魔除けのタペストリー』も燃やしますか?」
「……それだけは、もう少しだけ考えさせて」
アンは無表情に、「それがいけないんですよ」と呟いて部屋を出ていきました。
彼女は私の唯一の理解者であり、私の「裏の活動」を支えてくれた優秀な協力者です。
彼女がいなければ、殿下の入浴中にお湯の温度を遠隔で調整することなど不可能でしたわ。
一方その頃、王宮のセドリック殿下の寝室では。
「……おかしい。私の靴下がない。右足用の、あの少し厚手のやつだ!」
セドリックは、半狂乱になってタンスをひっくり返していました。
本来なら、彼が指を鳴らせば完璧なコーディネートが差し出されるはずでした。
「殿下、落ち着いてください。靴下くらい、予備がいくらでもあるでしょう」
傍らでルルネが困ったように声をかけますが、セドリックのパニックは収まりません。
「違うんだルルネ! 私はあの靴下でないと、一歩目がうまく踏み出せないんだ! いつもなら、朝起きた瞬間に枕元に置かれているはずなのに……!」
「それは、ノワール様が用意されていたのでは……?」
「……! な、なな、まさか! 彼女は公爵令嬢だぞ!? 私の靴下の管理など、そんな卑俗な真似を……」
セドリックは、ふと思い出しました。
かつてノワールが「殿下の足裏の角質ケアは、国家の安定に繋がります」と真顔で言っていたことを。
「ま、まさか、本当にあいつが……? いや、そんなはずはない。私は自由になったんだ。靴下くらい、自分で選べる!」
彼は震える手で適当な靴下を履こうとしましたが、なぜか左右で長さが違います。
実はノワールが、彼の歩き癖に合わせて、ミリ単位で靴下の伸縮率を調整していたことなど、彼は知る由もありません。
再び、ブラッディ公爵邸。
庭では、激しい炎が上がっていました。
私の愛(物理的な証拠)が、黒い煙となって夜空に消えていきます。
「……ああ、私の青春が」
「お嬢様、泣かないでください。代わりに、この最新式の『全自動・気配遮断訓練機』を使いましょう。これなら、殿下を追わなくても自分を高められます」
「アン、私、普通の女の子になるって決めたのよ? そんな暗殺者の修行みたいな道具はいらないわ」
「……では、この『普通の令嬢のための、爽やかな微笑み練習帳』を」
差し出された本を開くと、そこには「相手を威圧しない目の開き方」や「殺気を消した挨拶の仕方」が詳しく載っていました。
……どうやら私、普通の令嬢になるには、前提条件からしてハードルが高すぎるようですわ。
「アン、とりあえず、明日の朝食は自分で作ってみるわ。殿下の毒味のために覚えた料理の腕、自分のために使うのも悪くないもの」
「お嬢様が包丁を握ると、どうしても食材を『解体』しているように見えますが……頑張ってください」
私は燃え盛る焼却炉を見つめながら、拳を握りしめました。
セドリック殿下。
見ていてください。私は、貴方に「捨てて惜しかった」と思わせるような、最高の「普通」を手に入れてみせますわ。
……あ、待って。あの焼却炉の中に、殿下が十歳の時に投げ捨てた「カジったリンゴの芯」の標本が入っていませんでしたか!?
「アン! 火を止めて! それだけは、それだけは私のソウル(魂)なの!」
「遅いです。もう炭になりました」
「……うっ、ううう……ひどいわ……。私の、私の十年間が……!」
庭に響き渡る私の悲鳴。
これまでのストーカー……いえ、献身的な愛の歴史が、文字通り灰になった瞬間でした。
しかし、この時の私はまだ気づいていませんでした。
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