愛が重すぎると言われまして。婚約破棄された悪役令嬢。

恋の箱庭

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 婚約破棄から二日目。私は今、王都の賑やかな市場に立っております。

 今日の装いは、いつものトゲトゲしいドレスではなく、淡い桃色のワンピース。

 アンに「これなら、どこからどう見ても可憐な令嬢です」と太鼓判を押された自信作ですわ。


「……ふふ。見てくださいアン。街の人たちが、私の可憐さに道を譲ってくださるわ」


「お嬢様、それは可憐だからではなく、お嬢様の歩き方が『一切の隙がない暗殺者のそれ』で、周囲が本能的に危機を察知して避けているだけです」


「失礼ね。私はただ、石畳の凹凸を瞬時に把握して、最も音の出ない接地ポイントを選んでいるだけよ」


「それを普通の令嬢はやりません」


 アンの厳しい指摘。ですが、今の私は「普通の令嬢」。

 今日こそは、殿下の残り香を追うのではなく、純粋にショッピングを楽しむのです。

 ですが……市場を歩いていると、どうしても「癖」が出てしまいます。


「……あそこの八百屋。昨日に比べてジャガイモの鮮度が三パーセント落ちていますわね。あと、店主が隠している右手の傷……あれは今朝、猫に引っ掻かれたものではなく、包丁を研ぎ損ねた跡ですわ」


「お嬢様、観察を止めてください。怖いから」


「あら、あちらの騎士様は……。装備の整備が甘いですわね。あの左足の防具の緩みだと、有事の際に一コンマ二秒の反応遅延が生じますわ。私が締めてあげたい……!」


「お嬢様、不審者として捕まりたいんですか? 前を見て歩いてください」


 いけませんわ、つい。

 殿下の周囲の安全を確保するために、半径五百メートルの異変をすべて把握するのが日課でしたから。

 その時です。私の鋭敏な鼓膜が、人混みの向こうで微かな「衣擦れの音」を捉えました。


「……っ! 今の音……通常の歩行リズムの中に、一瞬だけ混じった『逃走への予備動作』の音ですわ!」


「お嬢様? 何を言って――」


 アンが止める間もありませんでした。

 私は反射的に、ワンピースの裾を少しだけたくし上げると、人混みを縫うように加速しました。

 目指すは、先ほどすれ違った品の良さそうな老婆。

 その背後に、一人の男が「カミソリ」を持って忍び寄っていました。


「そこの不届き者! その手、止めていただけますかしら?」


「な、なんだぁ!? うわあああ!?」


 男が老婆の財布の紐を切ろうとした瞬間、私は男の腕を背後にねじり上げ、膝裏を軽く蹴って地面に叩き伏せました。

 ……あ、いけない。「普通の令嬢」は、こんな鮮やかな制圧術は使いませんわよね。


「お、お嬢ちゃん……何者だ、てめぇ……! その氷のような目は……!」


「あら失礼。私はただの通りすがりの、お花が大好きなか弱い令嬢ですわ」


 私は男の首筋に、そっと扇子の先端を突き立てました。

 急所からわずか数ミリ。いつでも意識を飛ばせる位置です。


「……警察に突き出されるか、今ここで私の『愛の講義』を三時間受けるか、どちらがよろしいかしら?」


「け、警察でお願いしますぅぅぅ!」


 男の悲鳴とともに、周囲に人だかりができました。

 老婆は涙を流して私に感謝し、周囲の人々は「なんて凛々しいお方だ」「もしや聖騎士様では?」と口々に囁き合っています。


「お嬢様……。普通の令嬢は、引ったくりを三秒で無力化しません」


 追いかけてきたアンが、額を押さえてため息をつきました。


「仕方ないじゃない、身体が勝手に動いてしまったのだもの。……でも、見て。あの老婆の笑顔。殿下以外の人を助けるのも、案外悪くない気分ですわね」


 私が少しだけ満足感に浸っていた、その時でした。


「……見事な手際だった」


 低い、落ち着いた声が響きました。

 振り返ると、そこには黒いマントを羽織った一人の騎士が立っていました。

 整った顔立ちに、意志の強そうな冷徹な瞳。

 近衛騎士団長の制服……。あの方は確か、カイン・ナイトレイ卿。


「貴女の動き、ただの令嬢のものではない。……暗殺、あるいは特殊工作の訓練を受けているな?」


「……! そ、そのような物騒なこと。私はただの、淑やかな公爵令嬢ですわ」


 私は慌てて扇子を閉じ、精一杯の「普通の微笑み」を浮かべました。

 カイン卿は私の顔をじっと見つめた後、ふっと口角を上げました。


「……ブラッディ公爵家のノワール嬢か。セドリック殿下の『影』として有名だったが、まさかこれほどとは。……面白い」


「お、面白い……?」


「殿下は惜しいことをしたな。これほど有能な守護者を、自分の手で手放すとは」


 カイン卿はそれだけ言うと、颯爽と去っていきました。

 ……何かしら、あの人。

 私の正体(ストーカー・スキル)を、まるで見抜いているような……。


 一方その頃。王宮の私室では。


「うわあああ! お茶が、お茶が苦いぞルルネ!」


 セドリックが机を叩いて抗議していました。


「殿下、そんなこと言われましても……。ちゃんと茶葉は計りましたわ」


「違う! いつもなら、私の一口目の喉の乾き具合に合わせて、温度が〇・五度刻みで調整されていたんだ! ルルネ、君の淹れるお茶は……ただの『お湯』だ!」


「失礼ですわ殿下! もう、そんなに文句を仰るなら、ノワール様に頭を下げて戻ってきてもらえばよろしいじゃないですか!」


「そ、それは……! それはできない! 私は自由を愛する男なんだ! お茶の温度くらいで、あのアリ一匹通さない監視生活に戻れるか!」


 セドリックはそう叫びながらも、自分の手が震えていることに気づいていました。

 いつもなら、彼が「お茶を飲みたい」と思う一秒前に、完璧なタイミングでカップが差し出されていた。

 ノワールがいない世界は――あまりにも「不便」に満ちていたのです。


「……くそ、ノワールのやつ、今頃どこで泣いているんだ。……きっと、私に会いたくて、部屋の隅で膝を抱えているに違いない……!」


 実際には、ノワールは街のヒーローとしてカイン卿に興味を持たれ、さらには老婆から貰ったリンゴを美味しそうに頬張っていたのですが。


 殿下の勘違いと、ノワールの「普通の令嬢(物理特化)」への道のりは、まだ交わる気配がありませんでした。
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