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第二章 崇徳天皇譲位のこと②
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前関白藤原忠実の語る(二)
美福門院得子、か。魔性の女よ、あれは。
確かに顔の造作(ぞうさ)や姿は美しい。だが、その美しさを十二分に意識して振る舞うのだ。媚(こ)びを売るというのではない。それとなく気のあるように男を見詰め、微笑む。すると男は、心をくすぐられるのだな。男の心の揺れを嗅ぎ取る本能は大したものよ。どう振る舞えば関心を奪えるか、よお心得ておるわ。舌を巻くほどだ。若い男なら、一も二も無かろう。
ああいう女はな、男が自分以外の女を愛することが許せぬのよ。だから仲の良い男女を見ると、その男を取り込もうとする。いや、自分が好きかどうかは問題ではない。男を虜(とりこ)にして、女としての自分を満足させたいだけなのだ。いかにも下品で野卑(やひ)な心根だ。そんな女のどこに美しさ、魅力がある。
ところが、男とは馬鹿なものでな。そういう女についつい惹かれてしまう。自尊心がくすぐられ、舞い上がって溶けてしまう。女の魂胆など見えなくなってしまうのだ。気付いた時は、すでに手遅れよ。
鳥羽院様は璋子様を愛しておられた。
美しさは、ひけらかすものでも隠そうとするものでもない。また、造ろうして造れるものでもない。意識せぬところに天然自然と現れるものだ。璋子様には、そういう美しさが生まれつき備わっておった。私は「乱行の人」と切り捨てたが、あの頃は若気の至りというものであったのだろう。鳥羽院様とご一緒になられてからは落ち着かれ、歳を重ねるごとに生来の品格が滲み出て損なうことがなかった。天真爛漫というか、開け広げで邪鬼が無いというか。そういう璋子様を、鳥羽院様は仰ぎ見るように愛しておられたな。
本来ならば、幸せになれるお二人であったろう。ただ璋子様の向こうに、常に法皇様の姿が見え隠れする。見るにつけ触れるにつけ、法皇様のしゃがれた笑い声が聞こえて来る………。お辛かったであろう。鳥羽院様はそれが堪らなかったのだと思う。もちろん、誰にも胸の内をお洩らしになることは無かったが。
そんな時なのだ、美福門院得子がお側に上がったのは。
得子の父は藤原長実(ながざね)といって、諸太夫(しょだいふ・公卿に次ぐ官位で摂関家や大臣家などに仕える家司)だった。公卿になれる家柄ではない。ところが諸国の受領(ずりょう)を歴任する間に財を貯め、その莫大な財力で白河法皇様に取り入ったのだ。法皇様亡き後は、鳥羽天皇様にも仕えた。それが得子の天上に駆け上がるきっかけだ。渦が巻き始めたのよ。
身分の低い得子のために、鳥羽院様は出来る限り力を注がれた。二人の間に生まれたわずか三歳の叡子(としこ)内親王に准三宮(じゅさんぐう・太皇太后宮、皇太后宮、皇后宮に准ずる位。天皇の祖母、母、妻に当たり、いずれも時の天皇の皇后であった方)の待遇を与え、皇后勲子の養女となされた。そうしてもう一人、皇子が生まれた。體仁(なりひと)親王だ。渦は一気に加速する。
得子は體仁親王を天皇にしようと謀(はか)った。自分の血を引く者に後を継がせたいというのは、親として当たり前の情だろう。だが、第一皇子の崇徳天皇様を蔑(ないがし)ろにするわけにはいかぬ。そこで崇徳天皇様の義弟に当たる體仁親王を、天皇の養子にしようとしたのだ。天皇の子となれば、天皇を継ぐ資格を得ることが出来る。それが得子の意図したことだ。
得子は自分の子を天皇の養子にすることには成功した。だがその後に、崇徳天皇様にも男子が生まれた。それが重仁親王だ。皇位継承を巡り、複雑に糸が絡み始めたのよ。
「考えてくれたか」
「私には重仁がおります」
「重仁は幼過ぎる。ここはまず、體仁に譲位すればよい」
「ですが………」
「體仁はそなたの皇子同然ではないか」
「重仁が、せめて三歳になるまでお待ち願えませんか」
重仁親王はこの時まだ一歳。摂政を置いたとしても、鳥羽院様の言う通り天皇とするには無理がある。だが體仁親王は、母である女院様の追い落としを狙っている美福門院の子だ。素直に「はい、そうですか」と頷けないのも道理だろうよ。
「顕仁」
「はい」
「そなた、いくつだ」
「二十三になります」
「朕がそなたに譲位したのは二十一の時であった。今のそなたより二つ若かったのだぞ。これ以上待つ理由は無いと思うが」
「………」
「そなたはただ、我を通したいだけではないのか」
「いえ、私は………」
「何も重仁に継がさぬと言っているのではない。年上の體仁をまず帝に、それから後に重仁が継げば誰に文句があろう」
「それはそうですが………」
「順をわきまえれば、おのずと巡りは訪れる。そうではないか、顕仁」
鳥羽院様にそう説得され、崇徳天皇様は断り切れなくなった。流れが途切れるのではないのだ、と自分に言い聞かせ承諾した。
そうして、譲位の宣命(せんみょう)が下された。
だが………。
宣命をお読みになった崇徳天皇様は愕然となされた。宣命には、天皇となる體仁親王を「皇太弟」としてあったのだ! 「皇太子」ではなく、「皇太弟」と!
つまりだ。崇徳天皇様は「子」ではなく「弟」に位を譲ったことにされたのよ。これでは「弟」の體仁親王の第一皇子が次の天皇なってしまう。重仁親王は帝位につくことが出来なくなるのだ。
約束を反故(ほご)にするようなこの宣命はな、実は得子と私の嫡男忠通とが仕組んだものだった。私は激怒した。奸計を用いて政(まつりごと)を行ってはならぬのだ。この事で私は忠通を見限った。あいつは昔から姑息なことを考えるところがあったからな。それで、次男の頼長に藤原摂関家を託す腹を決めた。
一度下された宣命はくつがえしようがない。體仁親王は即位し近衛(このえ)天皇に、得子は鳥羽院様の皇后に冊立(さくりつ)された。崇徳天皇様は譲位して新しい上皇となられ新院、鳥羽院様は本院と呼ばれるよになった。
本意を遂げた筈の美福門院得子は、今度は璋子様の追い落としに掛かる。つくづく性根の悪い女よ。
康治(こうじ)元年(一一四二年)正月のことであったな、あれは。
「大変です!」
冷静な筈の頼長が、珍しく走り込んで来た。
「何ごとか。血相を変えて」
「源盛行と妻が捕らえられました!」
「何?」
盛行は待賢門院判官代、妻の嶋子は璋子様の女房だ。
「どういうことか」
「今くわしく調べさせておりますが、呪詛(じゅそ)の疑いがあると」
嶋子が広田社の神前に朱雀ほかの巫女(みこ)たちを集め、美福門院を呪詛させたという。
「前年に続いてではないか、呪詛事件は」
近衛天皇が即位した直後、璋子様の乳母子である法橋信朝(のりはしのぶもと)が日吉社に籠もり美福門院を呪って捕らえられているのだ。
「これはただでは済まなくなるぞ」
予想通り、罪人はすべて流罪に処せられた。
二度のいずれもが自分に関わる者であったから、璋子様はいたく心を痛められてな。ひと月後には責任を取る形で出家なされたのよ。
真相は藪の中だ。だが何が何でも自分の思いを遂げようという、あの執拗なまでの得子の性格を思えば、仕掛けを施したことぐらいは容易に想像出来るわ。忠通が一枚噛み、裏で動いているのもな。
しかし振り返れば、恐ろしいことよの。本院様は五歳で即位、二十一歳の時に法皇様により退位させられた。新院様も五歳で即位し、二十三歳で騙されるように譲位させられた。因果は巡るというが、親子二代に渡り同じように燻(くすぶ)りの種を植え付けられたのだからの。
こうして新院様の懊悩が始まり、火種がちろちろと赤い炎を上げ出したのだ。
美福門院得子、か。魔性の女よ、あれは。
確かに顔の造作(ぞうさ)や姿は美しい。だが、その美しさを十二分に意識して振る舞うのだ。媚(こ)びを売るというのではない。それとなく気のあるように男を見詰め、微笑む。すると男は、心をくすぐられるのだな。男の心の揺れを嗅ぎ取る本能は大したものよ。どう振る舞えば関心を奪えるか、よお心得ておるわ。舌を巻くほどだ。若い男なら、一も二も無かろう。
ああいう女はな、男が自分以外の女を愛することが許せぬのよ。だから仲の良い男女を見ると、その男を取り込もうとする。いや、自分が好きかどうかは問題ではない。男を虜(とりこ)にして、女としての自分を満足させたいだけなのだ。いかにも下品で野卑(やひ)な心根だ。そんな女のどこに美しさ、魅力がある。
ところが、男とは馬鹿なものでな。そういう女についつい惹かれてしまう。自尊心がくすぐられ、舞い上がって溶けてしまう。女の魂胆など見えなくなってしまうのだ。気付いた時は、すでに手遅れよ。
鳥羽院様は璋子様を愛しておられた。
美しさは、ひけらかすものでも隠そうとするものでもない。また、造ろうして造れるものでもない。意識せぬところに天然自然と現れるものだ。璋子様には、そういう美しさが生まれつき備わっておった。私は「乱行の人」と切り捨てたが、あの頃は若気の至りというものであったのだろう。鳥羽院様とご一緒になられてからは落ち着かれ、歳を重ねるごとに生来の品格が滲み出て損なうことがなかった。天真爛漫というか、開け広げで邪鬼が無いというか。そういう璋子様を、鳥羽院様は仰ぎ見るように愛しておられたな。
本来ならば、幸せになれるお二人であったろう。ただ璋子様の向こうに、常に法皇様の姿が見え隠れする。見るにつけ触れるにつけ、法皇様のしゃがれた笑い声が聞こえて来る………。お辛かったであろう。鳥羽院様はそれが堪らなかったのだと思う。もちろん、誰にも胸の内をお洩らしになることは無かったが。
そんな時なのだ、美福門院得子がお側に上がったのは。
得子の父は藤原長実(ながざね)といって、諸太夫(しょだいふ・公卿に次ぐ官位で摂関家や大臣家などに仕える家司)だった。公卿になれる家柄ではない。ところが諸国の受領(ずりょう)を歴任する間に財を貯め、その莫大な財力で白河法皇様に取り入ったのだ。法皇様亡き後は、鳥羽天皇様にも仕えた。それが得子の天上に駆け上がるきっかけだ。渦が巻き始めたのよ。
身分の低い得子のために、鳥羽院様は出来る限り力を注がれた。二人の間に生まれたわずか三歳の叡子(としこ)内親王に准三宮(じゅさんぐう・太皇太后宮、皇太后宮、皇后宮に准ずる位。天皇の祖母、母、妻に当たり、いずれも時の天皇の皇后であった方)の待遇を与え、皇后勲子の養女となされた。そうしてもう一人、皇子が生まれた。體仁(なりひと)親王だ。渦は一気に加速する。
得子は體仁親王を天皇にしようと謀(はか)った。自分の血を引く者に後を継がせたいというのは、親として当たり前の情だろう。だが、第一皇子の崇徳天皇様を蔑(ないがし)ろにするわけにはいかぬ。そこで崇徳天皇様の義弟に当たる體仁親王を、天皇の養子にしようとしたのだ。天皇の子となれば、天皇を継ぐ資格を得ることが出来る。それが得子の意図したことだ。
得子は自分の子を天皇の養子にすることには成功した。だがその後に、崇徳天皇様にも男子が生まれた。それが重仁親王だ。皇位継承を巡り、複雑に糸が絡み始めたのよ。
「考えてくれたか」
「私には重仁がおります」
「重仁は幼過ぎる。ここはまず、體仁に譲位すればよい」
「ですが………」
「體仁はそなたの皇子同然ではないか」
「重仁が、せめて三歳になるまでお待ち願えませんか」
重仁親王はこの時まだ一歳。摂政を置いたとしても、鳥羽院様の言う通り天皇とするには無理がある。だが體仁親王は、母である女院様の追い落としを狙っている美福門院の子だ。素直に「はい、そうですか」と頷けないのも道理だろうよ。
「顕仁」
「はい」
「そなた、いくつだ」
「二十三になります」
「朕がそなたに譲位したのは二十一の時であった。今のそなたより二つ若かったのだぞ。これ以上待つ理由は無いと思うが」
「………」
「そなたはただ、我を通したいだけではないのか」
「いえ、私は………」
「何も重仁に継がさぬと言っているのではない。年上の體仁をまず帝に、それから後に重仁が継げば誰に文句があろう」
「それはそうですが………」
「順をわきまえれば、おのずと巡りは訪れる。そうではないか、顕仁」
鳥羽院様にそう説得され、崇徳天皇様は断り切れなくなった。流れが途切れるのではないのだ、と自分に言い聞かせ承諾した。
そうして、譲位の宣命(せんみょう)が下された。
だが………。
宣命をお読みになった崇徳天皇様は愕然となされた。宣命には、天皇となる體仁親王を「皇太弟」としてあったのだ! 「皇太子」ではなく、「皇太弟」と!
つまりだ。崇徳天皇様は「子」ではなく「弟」に位を譲ったことにされたのよ。これでは「弟」の體仁親王の第一皇子が次の天皇なってしまう。重仁親王は帝位につくことが出来なくなるのだ。
約束を反故(ほご)にするようなこの宣命はな、実は得子と私の嫡男忠通とが仕組んだものだった。私は激怒した。奸計を用いて政(まつりごと)を行ってはならぬのだ。この事で私は忠通を見限った。あいつは昔から姑息なことを考えるところがあったからな。それで、次男の頼長に藤原摂関家を託す腹を決めた。
一度下された宣命はくつがえしようがない。體仁親王は即位し近衛(このえ)天皇に、得子は鳥羽院様の皇后に冊立(さくりつ)された。崇徳天皇様は譲位して新しい上皇となられ新院、鳥羽院様は本院と呼ばれるよになった。
本意を遂げた筈の美福門院得子は、今度は璋子様の追い落としに掛かる。つくづく性根の悪い女よ。
康治(こうじ)元年(一一四二年)正月のことであったな、あれは。
「大変です!」
冷静な筈の頼長が、珍しく走り込んで来た。
「何ごとか。血相を変えて」
「源盛行と妻が捕らえられました!」
「何?」
盛行は待賢門院判官代、妻の嶋子は璋子様の女房だ。
「どういうことか」
「今くわしく調べさせておりますが、呪詛(じゅそ)の疑いがあると」
嶋子が広田社の神前に朱雀ほかの巫女(みこ)たちを集め、美福門院を呪詛させたという。
「前年に続いてではないか、呪詛事件は」
近衛天皇が即位した直後、璋子様の乳母子である法橋信朝(のりはしのぶもと)が日吉社に籠もり美福門院を呪って捕らえられているのだ。
「これはただでは済まなくなるぞ」
予想通り、罪人はすべて流罪に処せられた。
二度のいずれもが自分に関わる者であったから、璋子様はいたく心を痛められてな。ひと月後には責任を取る形で出家なされたのよ。
真相は藪の中だ。だが何が何でも自分の思いを遂げようという、あの執拗なまでの得子の性格を思えば、仕掛けを施したことぐらいは容易に想像出来るわ。忠通が一枚噛み、裏で動いているのもな。
しかし振り返れば、恐ろしいことよの。本院様は五歳で即位、二十一歳の時に法皇様により退位させられた。新院様も五歳で即位し、二十三歳で騙されるように譲位させられた。因果は巡るというが、親子二代に渡り同じように燻(くすぶ)りの種を植え付けられたのだからの。
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