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第三章(二)白峰山稚護ヶ嶽
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(二)白峰山稚護ヶ嶽
稚護ヶ嶽の頂きに、松がひとむら繁っている。その松の根方に囲まれるように釘貫(くぎぬき・柱を並べ横に貫を通しただけの柵)が巡らされ、内に方形造(ほうぎょうづくり)の屋根(四方は隅の棟が小高い中央に集まるように造られた屋根)が組まれていた。傷みが激しく、傾き破れた上を蔦葛(つたかづら)が絡み支えている。その小さな祠(ほこら)に続く道は刺立つ茨や茅薄(かやすすき)に閉ざされ、分け入る人の足跡も見えない。
これが鳥羽上皇の第一皇子、世を治め国を治めた崇徳天皇の陵(みささぎ)だった。いたわしさに僧は思わず涙を落とし、墓前に座し回向(えこう)の経文を唱え始めた。
紅(くれない)の色が薄く陰り、紫がかった藍(あい)が溶け出す。冷え始めた大気が日中の暖かさを少しずつ追いやってゆく。そこかしこで虫の音が、草の擦れ合う音に重なる。夜の匂いが満ちてゆく中、読経は続いた。
冴え冴えと宙天に浮く月を、薄雲が運んでゆく。斑(まだら)の影が地に現れては消え、消えては現れる。夜が濃くなる。読経は続く、夢とも現(うつつ)ともなく………。
声が聞こえた。
僧は眼を開いた。
眼の前には祠があるだけだ。と、その祠が震えた。一度。二度。そうして三度。
再び、声がした。
「円位(えんい)………」
声は、祠の中から聞こえて来る。
僧は読経を止め、耳を澄ました。
「円位、か」
まぎれもない新院の声だ。
僧は思わずひれ伏した。
「は、はい」
「懐かしい………」
祠の傍らに、ぼうと白い靄(もや)のようなものが立ち、揺れ動きながら次第に形を作り始める。そうして、揺らぎが新院の顔を浮かび上がらせた。
「はやる気持ちはありながら、動くに動けぬ身でございました。何とぞご容赦下さい」
「よいのだ、円位」
「円位は法名(ほうみょう)。西行とお呼び下さい」
「西行………。仏の道に励むより、歌詠みとしての名を好むのだな」
「出家して修行を重ねてはおりますが、衆生(しゅじょう)どころか我が身一つの救済も果たせません。仏にすがる身でありながら、私にはやはり歌が命という想いが強いのです」
「そう言えば、よく申していたな。歌が生きとし生けるものの源泉なのだと」
西行は朧(おぼろ)に揺れる新院の顔を見詰めた。
女院の面影は微塵も無い。驚いた時のように瞳を丸め喜びを表す眼差しも、見る者を包み許すような笑みも。削げた頬、底のえぐれた眼窩(がんか)、乱れるに任せた蓬髪(ほうはつ)、苦悩に刻まれた眉間(みけん)の皺………。それらが揺らぐ加減によって、怒っているようにも泣いているようにも見える。西行は悲痛な思いに駆られた。
「なぜこの世に執着(しゅうじゃく)なさいます」
「死ねば全てが終わると言うか」
「いえ。生きてある内に、なぜ執着をお捨てにならなかったかと、そう申し上げたいのです。限りを尽くし想いも身も全て天にお預けになれば、このように迷いの道に入ることは無かった。
松が根の枕も何かあだならむ
玉の床とて常の床かは
そうお詠いになられたこともあったではありませんか。王座が永遠のものではないと知りながら、なぜ心静かに往生なさいません」
「知ってもいよう。朕は父に疎(うと)まれ、母は悲しみのうちに世を去った。子の重仁は帝位に就くことが叶わなかった」
「巡り合わせが、あまりにも悪かったのです。人の力ではどうにもならないことがある。それは宿命と思い定めねばなりません」
「弟の雅仁はどうなのだ。朕が在位の時には、不遇であった幼い雅仁を引き取り、慈しみかばい守った。保元の折には再三手紙を書き送り、朕に二心(ふたごころ)無いことを訴えた。それにもかかわらず、雅仁めは朕を讃岐に流し苛酷な罰を処したのだぞ」
「立場が変われば、対応も変わる。それが人の常です」
「朕も重仁も出家し、政(まつりごと)には縁の無い身になったというのにか」
「それは厳罰を逃れるために過ぎません」
「そうかも知れぬ。だが朕は、保元の争乱の因がこの身にあると思えばこそ流罪をも甘んじて受け入れたのだ。そうしてこの地で、血の滲む思いで大乗経を書写した。
浜千鳥跡は都に通へども
身は松山に音のみぞ鳴く
この歌を添え、鳥羽安楽寿院の父の陵に奉納して欲しいと都に送った。だが、雅仁は拒んだ。都より遠く離れた辺境の地に押し込めただけでは飽き足らず、生きることさえ無益としたのだ。耐えて耐えて、その挙げ句がこの様だ。恨みもしよう。呪いもしようぞ。どうして往生など出来ようか。朕は多くを願ったわけではない。親を愛し愛されること、子を愛し愛されること、世の人々が幸せであること、それを願っただけではないか。それがいけないか。全ての元凶が朕にあるとすれば、朕が生まれて来た、そのことすらがいけないか!」
白い朧の顔が、炎のように燃え上がる。猛(たけ)り狂う無念の思い、鎮まりようのない怨念が天空に向け咆(ほ)えている。
西行は膝を前に進めた。
「人の生まれ来ることに善悪の価値はありません。親も家も血脈も、育んでくれる風土、呑み込まれてしまう時代も、己を創り成す一切を授けられ、人は生まれ来るのです。もがき苦しみ、妬(ねた)み憎み、怒り恐れ、悔やみ悲しみながら生きるのです。ひと筋の光、ひとひらの花の移ろいに喜び安らぎ、願いを込め、一人一人がそれぞれの生を生きるのです。生まれたことを否定してはなりません。この世に生を受けた誰もが宿業(しゅくごう)を背負いながら、それでも支え合って生きていかねばならないのです。どうしてそれがお分かりになりません」
白い靄は膨らんでは縮み、縮んではまた膨らむ。その揺らぎが新院の魂の迷いそのものであると、西行には思えてならなかった。
「新院様には歌がございました。『言の葉』とは『歌の豊かさ』、『言霊(ことだま)』とは『言葉の持つ力』。美しい『言の葉』が国の安泰を作り出す。そのようにして平安の御世(みよ)は続いて来ました。乱れ切った今の世にこそ、歌がひと筋の光、ひとひらの花となり得る。ご自身ばかりでなく、全ての人々の命の源、生きる力となるのです。そのことを機会あるごとに語り合ったではありませんか」
新院の焔(ほむら)の身悶(みもだ)えは、しかし収まる気配を見せない。
「得手勝手だ………」
投げ出すような新院の声だった。
「みな自分の都合のよいようにしているだけだ。見るべきものには眼を背け、聴くべきものには耳に蓋をする」
「そのようなことはありません。また、あってはなりません」
「西行………」
新院の白い焔が揺れる。
「朕が『叔父子』と呼ばれていたことは知っておろう」
「新院様………」
「面と向かって言われたことは無い。だが、周囲の者は腫れものにさわるように朕に接していた。父は朕を抱くことさえしなかった。幼心にも『朕は在ってはならない者なのだ』と、肌で感じていたのだ。『叔父子』であれ何であれ、朕にとって父は本院様より他に無い。眼はいつも父の姿を探していた。たまにお見掛けすれば、距離が遠い。眼と眼が合えば、すぐにお逸(そ)らしになる。それでも、ひたすら孝心に努めたのだ。だが美福門院が入内してからは、会う機会さえ失われてしまった。父が倒れ病勢が悪化した時、お見舞い申し上げた。だが、対面は許されなかった。いよいよご危篤と聞き駆け付けた時も、死に目に会わせないどころか、門前払いされたのだぞ。忠通や美福門院の差し金だ。こうまで蔑ろにされて、どうして怒りを抑えることが出来よう。正統な皇位継承者である重仁が帝になることこそ、乱れ切った国を立て直すことになる。兵を起こしたのは、決して私利私怨のためではない。人として、国を統(す)べる立場の者として、天命に従い民意に応じようとしたまでだ」
胸にまだかまる思いを、一気に新院は吐き出した。誰にも打ち明けられない苦しみ悲しみを受け止めてくれるのは、西行しかいない。怨念に憑(つ)かれ、さ迷う魂が最後の拠(よ)り所を西行に求めていた。
西行は、だが諌(いさ)めるように新院に言った。
「鳥羽本院様の喪のまだ明けないうちに軍旗をはためかすことが、天命である筈がありません。まして民が、どうして戦など望みましょう。藤原摂関家の内紛、源氏平氏の棟梁たちの思惑に巻き込まれ、担ぎ出されたのです。それにお気付きにならなかったのは短慮に過ぎます。本院様亡き後は、新院様と後白河院様が互いに手を取り合わねばならなかったのです。お二人とも女院様のお子ではありませんか。兄弟が仲良くご尽力なされることを望みこそすれ、仲違(なかたが)いして戦をし合うとは女院様もどんなにか嘆かれていることでしょう」
西行は言葉を切り、眼を閉じた。
女院の笑顔が間近にある。法金剛院の空に浮かぶ月を見上げていた女院が、ふと自分に向けた顔だ。女院の唇が「義清」と動く。真っ直ぐに見詰める女院の瞳に、自分自身の姿が映っている……。
静かに、西行は眼を開いた。そうして、再び語り掛ける。
「新院様は重仁親王様の帝位継承に執着し過ぎました。広い眼をもって、まず治世を正しく導くべきでした。そうすれば自(おの)ずと正統な後継も決まっていたでしょう」
「詮(せん)無いことだ、今となっては………」
新院は、長い嘆息を洩らした。
西行も言葉を閉じた。
二人の間に、風が渡る。
白い焔が青味を帯び、揺らめいた。
「西行。そなたは知るまいが、朕の命は雅仁の放った刺客によって奪われたのだ」
「えっ!」
西行は一瞬、耳を疑い絶句した。
「そなたの言うことは正しかろう。だが、もはや自分の気持ちはどう抑えようも無い。雅仁には報いを返す。いや雅仁だけではない。子々孫々に致まで祟(たた)らねば、この胸に燃え盛る炎は鎮まることはないのだ」
「お、お待ち下さい!」
「無駄だ、西行。三年前は雅仁の子、二条天皇の命を奪ってやった。昨年は京都五条の内裏を焼き尽くし、太政大臣となったばかりの清盛を病の床に就かせた。清盛はせっかく手に入れた太政大臣の座を手放し、今年になって出家したぞ。雅仁の命も清盛の命も、もうすぐひねり潰してくれる」
「新院様、お待ちを!」
「この世に恨みを残す者は、朕一人ではない。魔縁をもって遺恨を抱く者を束ね、朕は日本国の大魔王となって祟ってやる! それが悲しみ苦しみを与えられた者たちの救いとなるのだ!」
青白い焔が鬼灯(ほおずき)のように色づき、めらめらと赤い舌を踊らせる。
「それは救いとはなりませぬ。どうかどうか、新院様!」
言葉を継ごうとして、西行は膝を立て掛けた。
「相模坊!」
新院の声が虚空を駆ける。
突如、頭上の黒い樹の上で鋭い啼き声がしたと思うと、鳶(とび)のような真っ黒な怪鳥が舞い降りた。
「お呼びでございますか」
「雅仁の命はいつ尽きるのだ」
「上皇の命運は強うございます。今しばらくお待ちを」
「為義はどうした。平家の息の根を止めるのに、何を手間取っている」
「清盛には息子の重盛がおりますからな。親に似ず人柄は温厚、信仰心厚く人望がある。重盛の良運が衰えんことには、為義殿もやりにくかろうて」
「手は無いのか」
「いずれ為朝殿が参る筈。それからのことになりましょうな」
「分かった。為義に伝えよ。武者を率い、夜な夜な清盛の枕元に立ち脅(おびや)かせ、と」
「承知」
相模坊と呼ばれた怪鳥は、ひと声不気味な啼き声を発すると、羽ばたきの音とともに樹上に消えた。
唖然とする西行に、新院が言った。
「あれは昔から白峰に棲(す)む天狗だ。なかなかに重宝する」
新院の白い顔がかすみ始めた。
「生きてあれ、死んであれ、思いというものはままならぬものだな。
思ひきや身をうき雲となし果てて
あらしの風に任すべしとは
もう会うことはあるまい。西行、そなたはそなたの信ずるままに生きるがよい」
「新院様。心のすさみを嵐の中に投げ込んではなりません。現世に思いを残して何となります。どうか執着をお捨て下さい。恨みを捨て、全てを天にお預け下さい。
よしや君昔の玉の床とても
かからむ後は何にかはせむ
新院様の救われる道は魔道ではありません。歌の心を、何とぞ、何とぞ蘇らせて下さいますよう………」
新院の白い靄が薄く淡くなり、かすれて消えた。後には、深い闇ばかりが広がっている。
西行は金剛経を唱え始めた。唱えたところで何になるのか。新院はすでに救いの無い道に入ってしまったのだ。歌の心を、せめて歌の心だけでもと念じながら、西行は唱えるしかなかった。
観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆 度一切苦厄舎利子
色不異空 空不異色 色即是空
空即是色 受想行識 亦復如是
舎利子 是諸法空想 不生不滅
不垢不浄………
西行の読経の声を、白峰の底知れない闇が呑み込んでいった。
稚護ヶ嶽の頂きに、松がひとむら繁っている。その松の根方に囲まれるように釘貫(くぎぬき・柱を並べ横に貫を通しただけの柵)が巡らされ、内に方形造(ほうぎょうづくり)の屋根(四方は隅の棟が小高い中央に集まるように造られた屋根)が組まれていた。傷みが激しく、傾き破れた上を蔦葛(つたかづら)が絡み支えている。その小さな祠(ほこら)に続く道は刺立つ茨や茅薄(かやすすき)に閉ざされ、分け入る人の足跡も見えない。
これが鳥羽上皇の第一皇子、世を治め国を治めた崇徳天皇の陵(みささぎ)だった。いたわしさに僧は思わず涙を落とし、墓前に座し回向(えこう)の経文を唱え始めた。
紅(くれない)の色が薄く陰り、紫がかった藍(あい)が溶け出す。冷え始めた大気が日中の暖かさを少しずつ追いやってゆく。そこかしこで虫の音が、草の擦れ合う音に重なる。夜の匂いが満ちてゆく中、読経は続いた。
冴え冴えと宙天に浮く月を、薄雲が運んでゆく。斑(まだら)の影が地に現れては消え、消えては現れる。夜が濃くなる。読経は続く、夢とも現(うつつ)ともなく………。
声が聞こえた。
僧は眼を開いた。
眼の前には祠があるだけだ。と、その祠が震えた。一度。二度。そうして三度。
再び、声がした。
「円位(えんい)………」
声は、祠の中から聞こえて来る。
僧は読経を止め、耳を澄ました。
「円位、か」
まぎれもない新院の声だ。
僧は思わずひれ伏した。
「は、はい」
「懐かしい………」
祠の傍らに、ぼうと白い靄(もや)のようなものが立ち、揺れ動きながら次第に形を作り始める。そうして、揺らぎが新院の顔を浮かび上がらせた。
「はやる気持ちはありながら、動くに動けぬ身でございました。何とぞご容赦下さい」
「よいのだ、円位」
「円位は法名(ほうみょう)。西行とお呼び下さい」
「西行………。仏の道に励むより、歌詠みとしての名を好むのだな」
「出家して修行を重ねてはおりますが、衆生(しゅじょう)どころか我が身一つの救済も果たせません。仏にすがる身でありながら、私にはやはり歌が命という想いが強いのです」
「そう言えば、よく申していたな。歌が生きとし生けるものの源泉なのだと」
西行は朧(おぼろ)に揺れる新院の顔を見詰めた。
女院の面影は微塵も無い。驚いた時のように瞳を丸め喜びを表す眼差しも、見る者を包み許すような笑みも。削げた頬、底のえぐれた眼窩(がんか)、乱れるに任せた蓬髪(ほうはつ)、苦悩に刻まれた眉間(みけん)の皺………。それらが揺らぐ加減によって、怒っているようにも泣いているようにも見える。西行は悲痛な思いに駆られた。
「なぜこの世に執着(しゅうじゃく)なさいます」
「死ねば全てが終わると言うか」
「いえ。生きてある内に、なぜ執着をお捨てにならなかったかと、そう申し上げたいのです。限りを尽くし想いも身も全て天にお預けになれば、このように迷いの道に入ることは無かった。
松が根の枕も何かあだならむ
玉の床とて常の床かは
そうお詠いになられたこともあったではありませんか。王座が永遠のものではないと知りながら、なぜ心静かに往生なさいません」
「知ってもいよう。朕は父に疎(うと)まれ、母は悲しみのうちに世を去った。子の重仁は帝位に就くことが叶わなかった」
「巡り合わせが、あまりにも悪かったのです。人の力ではどうにもならないことがある。それは宿命と思い定めねばなりません」
「弟の雅仁はどうなのだ。朕が在位の時には、不遇であった幼い雅仁を引き取り、慈しみかばい守った。保元の折には再三手紙を書き送り、朕に二心(ふたごころ)無いことを訴えた。それにもかかわらず、雅仁めは朕を讃岐に流し苛酷な罰を処したのだぞ」
「立場が変われば、対応も変わる。それが人の常です」
「朕も重仁も出家し、政(まつりごと)には縁の無い身になったというのにか」
「それは厳罰を逃れるために過ぎません」
「そうかも知れぬ。だが朕は、保元の争乱の因がこの身にあると思えばこそ流罪をも甘んじて受け入れたのだ。そうしてこの地で、血の滲む思いで大乗経を書写した。
浜千鳥跡は都に通へども
身は松山に音のみぞ鳴く
この歌を添え、鳥羽安楽寿院の父の陵に奉納して欲しいと都に送った。だが、雅仁は拒んだ。都より遠く離れた辺境の地に押し込めただけでは飽き足らず、生きることさえ無益としたのだ。耐えて耐えて、その挙げ句がこの様だ。恨みもしよう。呪いもしようぞ。どうして往生など出来ようか。朕は多くを願ったわけではない。親を愛し愛されること、子を愛し愛されること、世の人々が幸せであること、それを願っただけではないか。それがいけないか。全ての元凶が朕にあるとすれば、朕が生まれて来た、そのことすらがいけないか!」
白い朧の顔が、炎のように燃え上がる。猛(たけ)り狂う無念の思い、鎮まりようのない怨念が天空に向け咆(ほ)えている。
西行は膝を前に進めた。
「人の生まれ来ることに善悪の価値はありません。親も家も血脈も、育んでくれる風土、呑み込まれてしまう時代も、己を創り成す一切を授けられ、人は生まれ来るのです。もがき苦しみ、妬(ねた)み憎み、怒り恐れ、悔やみ悲しみながら生きるのです。ひと筋の光、ひとひらの花の移ろいに喜び安らぎ、願いを込め、一人一人がそれぞれの生を生きるのです。生まれたことを否定してはなりません。この世に生を受けた誰もが宿業(しゅくごう)を背負いながら、それでも支え合って生きていかねばならないのです。どうしてそれがお分かりになりません」
白い靄は膨らんでは縮み、縮んではまた膨らむ。その揺らぎが新院の魂の迷いそのものであると、西行には思えてならなかった。
「新院様には歌がございました。『言の葉』とは『歌の豊かさ』、『言霊(ことだま)』とは『言葉の持つ力』。美しい『言の葉』が国の安泰を作り出す。そのようにして平安の御世(みよ)は続いて来ました。乱れ切った今の世にこそ、歌がひと筋の光、ひとひらの花となり得る。ご自身ばかりでなく、全ての人々の命の源、生きる力となるのです。そのことを機会あるごとに語り合ったではありませんか」
新院の焔(ほむら)の身悶(みもだ)えは、しかし収まる気配を見せない。
「得手勝手だ………」
投げ出すような新院の声だった。
「みな自分の都合のよいようにしているだけだ。見るべきものには眼を背け、聴くべきものには耳に蓋をする」
「そのようなことはありません。また、あってはなりません」
「西行………」
新院の白い焔が揺れる。
「朕が『叔父子』と呼ばれていたことは知っておろう」
「新院様………」
「面と向かって言われたことは無い。だが、周囲の者は腫れものにさわるように朕に接していた。父は朕を抱くことさえしなかった。幼心にも『朕は在ってはならない者なのだ』と、肌で感じていたのだ。『叔父子』であれ何であれ、朕にとって父は本院様より他に無い。眼はいつも父の姿を探していた。たまにお見掛けすれば、距離が遠い。眼と眼が合えば、すぐにお逸(そ)らしになる。それでも、ひたすら孝心に努めたのだ。だが美福門院が入内してからは、会う機会さえ失われてしまった。父が倒れ病勢が悪化した時、お見舞い申し上げた。だが、対面は許されなかった。いよいよご危篤と聞き駆け付けた時も、死に目に会わせないどころか、門前払いされたのだぞ。忠通や美福門院の差し金だ。こうまで蔑ろにされて、どうして怒りを抑えることが出来よう。正統な皇位継承者である重仁が帝になることこそ、乱れ切った国を立て直すことになる。兵を起こしたのは、決して私利私怨のためではない。人として、国を統(す)べる立場の者として、天命に従い民意に応じようとしたまでだ」
胸にまだかまる思いを、一気に新院は吐き出した。誰にも打ち明けられない苦しみ悲しみを受け止めてくれるのは、西行しかいない。怨念に憑(つ)かれ、さ迷う魂が最後の拠(よ)り所を西行に求めていた。
西行は、だが諌(いさ)めるように新院に言った。
「鳥羽本院様の喪のまだ明けないうちに軍旗をはためかすことが、天命である筈がありません。まして民が、どうして戦など望みましょう。藤原摂関家の内紛、源氏平氏の棟梁たちの思惑に巻き込まれ、担ぎ出されたのです。それにお気付きにならなかったのは短慮に過ぎます。本院様亡き後は、新院様と後白河院様が互いに手を取り合わねばならなかったのです。お二人とも女院様のお子ではありませんか。兄弟が仲良くご尽力なされることを望みこそすれ、仲違(なかたが)いして戦をし合うとは女院様もどんなにか嘆かれていることでしょう」
西行は言葉を切り、眼を閉じた。
女院の笑顔が間近にある。法金剛院の空に浮かぶ月を見上げていた女院が、ふと自分に向けた顔だ。女院の唇が「義清」と動く。真っ直ぐに見詰める女院の瞳に、自分自身の姿が映っている……。
静かに、西行は眼を開いた。そうして、再び語り掛ける。
「新院様は重仁親王様の帝位継承に執着し過ぎました。広い眼をもって、まず治世を正しく導くべきでした。そうすれば自(おの)ずと正統な後継も決まっていたでしょう」
「詮(せん)無いことだ、今となっては………」
新院は、長い嘆息を洩らした。
西行も言葉を閉じた。
二人の間に、風が渡る。
白い焔が青味を帯び、揺らめいた。
「西行。そなたは知るまいが、朕の命は雅仁の放った刺客によって奪われたのだ」
「えっ!」
西行は一瞬、耳を疑い絶句した。
「そなたの言うことは正しかろう。だが、もはや自分の気持ちはどう抑えようも無い。雅仁には報いを返す。いや雅仁だけではない。子々孫々に致まで祟(たた)らねば、この胸に燃え盛る炎は鎮まることはないのだ」
「お、お待ち下さい!」
「無駄だ、西行。三年前は雅仁の子、二条天皇の命を奪ってやった。昨年は京都五条の内裏を焼き尽くし、太政大臣となったばかりの清盛を病の床に就かせた。清盛はせっかく手に入れた太政大臣の座を手放し、今年になって出家したぞ。雅仁の命も清盛の命も、もうすぐひねり潰してくれる」
「新院様、お待ちを!」
「この世に恨みを残す者は、朕一人ではない。魔縁をもって遺恨を抱く者を束ね、朕は日本国の大魔王となって祟ってやる! それが悲しみ苦しみを与えられた者たちの救いとなるのだ!」
青白い焔が鬼灯(ほおずき)のように色づき、めらめらと赤い舌を踊らせる。
「それは救いとはなりませぬ。どうかどうか、新院様!」
言葉を継ごうとして、西行は膝を立て掛けた。
「相模坊!」
新院の声が虚空を駆ける。
突如、頭上の黒い樹の上で鋭い啼き声がしたと思うと、鳶(とび)のような真っ黒な怪鳥が舞い降りた。
「お呼びでございますか」
「雅仁の命はいつ尽きるのだ」
「上皇の命運は強うございます。今しばらくお待ちを」
「為義はどうした。平家の息の根を止めるのに、何を手間取っている」
「清盛には息子の重盛がおりますからな。親に似ず人柄は温厚、信仰心厚く人望がある。重盛の良運が衰えんことには、為義殿もやりにくかろうて」
「手は無いのか」
「いずれ為朝殿が参る筈。それからのことになりましょうな」
「分かった。為義に伝えよ。武者を率い、夜な夜な清盛の枕元に立ち脅(おびや)かせ、と」
「承知」
相模坊と呼ばれた怪鳥は、ひと声不気味な啼き声を発すると、羽ばたきの音とともに樹上に消えた。
唖然とする西行に、新院が言った。
「あれは昔から白峰に棲(す)む天狗だ。なかなかに重宝する」
新院の白い顔がかすみ始めた。
「生きてあれ、死んであれ、思いというものはままならぬものだな。
思ひきや身をうき雲となし果てて
あらしの風に任すべしとは
もう会うことはあるまい。西行、そなたはそなたの信ずるままに生きるがよい」
「新院様。心のすさみを嵐の中に投げ込んではなりません。現世に思いを残して何となります。どうか執着をお捨て下さい。恨みを捨て、全てを天にお預け下さい。
よしや君昔の玉の床とても
かからむ後は何にかはせむ
新院様の救われる道は魔道ではありません。歌の心を、何とぞ、何とぞ蘇らせて下さいますよう………」
新院の白い靄が薄く淡くなり、かすれて消えた。後には、深い闇ばかりが広がっている。
西行は金剛経を唱え始めた。唱えたところで何になるのか。新院はすでに救いの無い道に入ってしまったのだ。歌の心を、せめて歌の心だけでもと念じながら、西行は唱えるしかなかった。
観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆 度一切苦厄舎利子
色不異空 空不異色 色即是空
空即是色 受想行識 亦復如是
舎利子 是諸法空想 不生不滅
不垢不浄………
西行の読経の声を、白峰の底知れない闇が呑み込んでいった。
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颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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