政略結婚した侯爵様が「義務だから」と抱いてきますが、顔が良すぎて抗えません

日野ひなこ

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第10話 ラインヴェルクという家は ②

「顔を見に来たというのは建前で、本当はきみの様子が気になって仕方なくてね。若い夫婦の関係なんてものは、書簡では測れんからな」

 ゲルハルトは肩をすくめつつ、ソファに背を預けて笑みを浮かべた。

「……恐縮です」

 イレーネは持ちあげていたカップを一度戻し、礼儀正しく頭を下げた。が、ゲルハルトはすぐに「いやいや」と手を振ってそれを制する。

「謝るのはこちらの方だ。重ね重ねにはなるが、3日後に婚姻などという無理なスケジュールを押し通して、本当に申し訳なかった」
「い、いえいえ……っ」

 今度はイレーネの方が手を振ってしまう。

「クラウスはあの通りだからな。他の家のように、そろそろ夫人を迎えて政務の一端を担ってもらってはどうかと勧めたらね、あいつはなんて言ったと思う。平然と『わかりました。5日後のこの日であれば可能です』──などと言い出してな。前々から準備はしていたものの、予想以上に慌てて周囲を動かす羽目になったのだよ。まったく、こういった型破りは控えてほしいものだ」
「……目に浮かびますわ」

 苦笑しながらも、イレーネは妙に納得していた。
 型破り──というより、彼は侯爵としての使命を第一とし、それ以外の要不要の線引きが常人離れしているのだろう。わずか数日後の結婚も、ただ行うだけだった初夜も、結婚以来わずか数度の帰宅も、愛想のない返信も、すべてただ事務的に遂行しているにほかならない。

「私がどうしてもきみを逃したくなくてね」

 ふと、カップの縁をなぞりながら、ゲルハルトはそうこぼす。
 声音こそ冗談めいていたが、瞳の奥は真剣なものを宿していた。

「知っているか? きみはお父上のご尽力もあり、中々に引く手あまただったんだよ」
「え……!?」
「驚くようなことじゃない。立場も、家格も、なによりきみはとても聡明だ。数か月後となっていては、きっと別の家と縁談が進んでいただろう。そう思うと……どうしても今しかない、と押し通してしまった。本当に受けてくれて良かった」

 驚きにカップを取り落としかけたイレーネに構わず、ゲルハルトは淡々と続ける。

「ただ……やはり、きみの家の事情を利用したところは否めない。突然の話に、きみがどれだけ驚き困惑したかと思うと、胸が痛む。代わりに困ったことがあれば、なんにでも応えるつもりだ。どんな些細なことでも構わん。遠慮なく言ってくれ」

 それは、イレーネというひとりの人間に対する確かな誠意だった。
 この婚姻が政略であれ、慌ただしい段取りであれ──その渦中に巻き込まれた令嬢の心が置き去りにされることだけは、させたくないと。
 イレーネは胸から込み上げる温かなものに、喉の奥を詰まらせた。

「……もったいないお言葉ですわ。ライン──いえ、ゲルハルト叔父様」

 言い淀みながらも呼び直すと、ゲルハルトは満足げに笑みを深める。
 ほどけた空気の中で、イレーネもそっと息をついた。

「……あ、その、お願いというほどのことではないのですが」
「ふむ、なんだね?」
「ゲルハルト様は、屋敷の温室のことはなにかご存じですか?」

 何気ない質問だったが、イレーネの声色にはほんの少しの躊躇が混じっていた。ゲルハルトは眉を上げてから、懐かしそうに目を細める。

「ああ、あの見事な温室か。あれは兄が20年ほど前に増築したものでな。我が兄ながら、植物を愛でるような感性は持ち合わせていないと思っていたから、話を聞いたときは耳を疑ったものだよ」
「まあ、そうなんですか?」
「ああ。私はもうその頃には家を出ていたから詳しくは知らないが……今はクラウスが管理しているのだろう? あいつも兄と同じで、花に心を寄せるような性分には見えんがな!」
「……はあ」

 私もそう思います──とはさすがに言えず、イレーネは曖昧に微笑むだけに留めた。
 ゲルハルトが笑いをこぼす。

「まあ、詳しいことは本人に聞いてみるといい。急に早口になるかもしれんぞ」
「……そう、ですね」

 頷きながら、イレーネは窓の外に目をやった。
 明るい陽射しに揺れる庭木の葉が、どこか遠いもののように見えていた。





 そう。クラウスに聞けば良いのだ。

 植物図鑑をめくっても、葉脈の違いや開花時期、根の形など、知識だけでは判別のつかないものもある。
 もちろん手入れをしている使用人に尋ねれば植物のことは分かるだろうが、それでは意味がなかった。
 イレーネが知りたいのは、あの温室の「中身」ではない。そこに集められた植物たちが、クラウスにとってどんな意味を持つのか──その答えは、本人にしか持ち得ない。

 ゲルハルトの言うとおり、結局は彼に尋ねるしかないとイレーネも分かっている。
 分かってはいるのだが──





 ゲルハルトの来訪から2日後。
 空が茜に染まり始めたころ、ようやくクラウスが屋敷へ戻ってきた。

 その日の空は淡く暮れかけており、陽光は西へ傾きながら、回廊に長く柔らかな影を落としていた。庭の樹々は名残りの風にそよぎ、昼間の熱とざわめきがゆっくりと屋敷の陰に溶けていく。

 そんな夕刻──侯爵邸の正面玄関に、ひときわ重々しい馬車の車輪音が響いた。

 イレーネはすでにその音を聞きつけ、玄関ホールの一角に静かに佇んでいた。
 扉が開き、まず従者たちが入ってくる。
 それから数歩後れて、ひときわ背の高い影が夕闇を連れて現れた。

 クラウス・フォン・ラインヴェルク侯爵。
 彼は何も言わず、ただ一歩、また一歩とホールを進んでくる。外套を脱ぐ仕草すら、余計な動きのない研ぎ澄まされた静けさだった。

 銀の髪が夕光を柔らかく反射し、歩みに合わせてさらりと揺れる。冷たく澄んだアイスブルーの双眸が一瞬こちらを掠めたとき、イレーネは思わず息を止めた。
 彫りの深い整った顔立ち。そこに浮かぶわずかな疲れの気配すら、却って彼の容貌に艶を生む。
 無言のまま、けれどその存在は空間に緊張と重みを与えるのに十分だった。

「おかえりなさいませ、クラウス様」

 イレーネは胸元で手を重ね、静かに一礼した。
 クラウスは足を止め、声の主へと視線を向ける。
 銀髪が夕映えに微かに揺れ、薄氷の瞳が今度はまっすぐにイレーネを捉えた。

「──?」

 美しい顔立ちが、ほんのわずかに傾ぐ。
 まるで思いがけないものを見つけたかのように。
 一拍置いて、彼は小さく頷いた。

「……ああ」

 それは返事というよりも、記憶から抜けていたなにかを思い出し腑に落ちたような、そんな吐息だった。

 ──私のことを忘れてやがりましたね、旦那様。

 イレーネは浮かべた笑顔を絶やさぬままに、内心で毒づいた。
 もっとも、彼にとっての自身の立ち位置などこの2ヶ月でとうに理解している。
 沈黙が落ちる前に、イレーネはほんの少しだけ視線を上げて『侯爵夫人』らしい言葉を紡ぐ。

「ちょうど夕食のお時間です。よろしければ、ご一緒にいかがですか?」

 クラウスは一瞬だけ目を細め、短く、けれどはっきりと頷いた。

「……そうだな。いただこう」

 その返事に温度はなかったが、拒まれることもなかった。
 彼なりに、“夫婦”という形を保つ気はあるらしい。
 イレーネは表情を崩さず、静かに彼の隣に歩みを揃えた。


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