政略結婚した侯爵様が「義務だから」と抱いてきますが、顔が良すぎて抗えません

日野ひなこ

文字の大きさ
12 / 39

第12話 義務の夫婦、ワインの罠 ②※

 窓のカーテンを閉めた瞬間、空気の温度が変わった気がした。
 昼間とは違う、夜だけが持つ静けさが部屋の中を支配する。厚い絨毯が足音を吸い取り、蝋燭の灯が壁に揺らめく影を落とす。室内に置かれた天蓋付きの寝台が、今夜の行き先を物語っていた。

 イレーネは鏡台の前に腰を下ろして、胸元にそっと手を添える。
 鼓動が速い。緊張のせいか、ワインのせいか、自分でも判断がつかなかった。

 ──これは義務。ただの義務。

 自らにそう言い聞かせ、深く息を吐く。
 鏡に映る自分は、頼りないシュミーズ1枚を纏いワインの余韻に頬を紅潮させている。
 なんだか彼に抱かれるのを待ち構えているかのようで、イレーネはたまらずナイトガウンを羽織った。

 扉の外で足音が止まる。
 イレーネははっと立ち上がり、しばし室内を見渡したあとで、結局所在なく寝台に腰かけた。

 ノックの音もなく、扉が静かに開かれる。
 クラウスがそこにいた。

「……ど、どうも」

 もうちょっとなにかあるでしょう──そう思いつつも、ほかに言葉が浮かばなかった。

 クラウスは一度だけイレーネを振り返り、しかしすぐに無言のまま、皮の手袋を外し始める。指先が布を引き、手のひらを露わにしていく仕草はどこまでも滑らかで無駄がなかった。
 彼はそのまま外套の留め具に手をかける。微かな衣擦れの音を立てて外套がほどけ、静かに椅子の背にかけられる。
 銀の髪がさらりと流れ、薄暗い蝋燭の灯りがその輪郭を撫でていく。
 目の前の男がひとつずつ身を解くたびに、逃げ場のない夜がその色を濃くしていった。

 そのまま、指がシャツの首元にかかる。外されたボタンは、たったひとつ。
 布の隙間から覗く肌は、驚くほど白く、細やかな陰影が骨格を際立たせていた。
 鎖骨の窪みに淡い光が溜まり、呼吸に合わせてわずかに揺れるその光景に、目が吸い寄せられた。

 ──まだ、なにもされてないのに。

 息が妙に浅くなる。
 そして一歩、また一歩と近づいてきたその気配に、イレーネの喉がひくりと動いた。

 彼が傍らに腰かけて、小さく響いたベッドの軋みがいやに生々しい。
 まっすぐに伸びた指が、彼女の肩に触れる。

「……脱がせても?」

 問うようでいて、断る余地はほとんどない声音だった。イレーネはわずかに頷く。
 指先が控えめに、しかし確かに衣擦れの音を立てながらナイトガウンの結び目を解く。心の支えが無くなるみたいに、肩から重みが滑り落ちていった。
 少しだけ開いた胸元に、夜気が触れる。けれどそれ以上に、クラウスの手がゆっくりと肌を滑るたび、心臓の鼓動が早くなっていくのがわかった。

 彼がそっと唇を重ねてきたのは、その直後だった。
 ゆっくりと深く、けれど押しつけるようなものではなく急ぐものでもない。
 唇の端を柔らかく吸われて、イレーネは思わず息を止める。クラウスの唇がわずかに動き、濡れた舌先が触れた。温もりを広げるように、緩やかに唇の内側をなぞられる。
 顎に添えられた無骨な指先に、ごく自然に力が籠った。
 動きを制するほどではない。でも、抗おうとすれば止められる。

 ただのキスのはずなのに、呼吸の仕方がわからなくなる。
 くすぐるような舌の動きに喉がひくりと跳ね、熱が奥へと落ちていくのがわかった。

「……酔っているのか?」

 唇が離れたとき、その言葉がそっと落ちてきた。

「え……?」

 戸惑いの声が漏れる。
 火照った頬に、クラウスの指先が触れた。
 撫でるというよりも、体温を測るような動きで。

「この前より、熱い」
「──!」

 言葉の意味を理解した瞬間、イレーネの身体がびくりと反応する。
 覚えて──と思考が揺れたその瞬間、彼の手のひらが胸元に添えられた。
 ゆっくりとシュミーズ越しに指が滑る動きに、思考が目の前の夜に引き戻される。薄い布の上から親指が円を描くたび、肌の奥が淡く痺れた。

「っ……ぅ、ん……」

 もう片方の手が、そっと反対の胸を包み込む。
 揉み上げるでもなく、ただ確かめるように、押し、撫で、なぞる。
 彼の手は冷静で、力加減も一定だったのに、身体のほうが勝手に熱を帯びていく。
 舌先が先端に触れた途端、イレーネが問いかけたかった言葉は儚く夜に溶けてしまった。

「や……っ」

 柔らかくすくい上げるような動きに、背筋がぴりぴりと震える。軽く吸われた瞬間、全身の神経がそこに集中したかのように感じた。
 反射的に逃げようと腰を引いても、手のひらが添えられて動けない。
 唇と舌が先端をゆるく咥え、じんわりと吸い上げる。濡れた舌の動きと、手のひらの包むような感触に思考がぼやけていく。

 自分でも、全身がひどく熱いことを自覚していた。
 ただでさえワインで火照った身体が、クラウスの愛撫で更に熱を増していく。

 舌が螺旋を描き、尖らせた先端を軽く転がす。
 ちゅ、ちゅ、と微かに響く音がやけに耳に残った。

「んっ……あ、だめ……っ」

 酔いの気怠い熱と混ざった快楽が、波打つように胸元から全身へと広がる。
 濡れた舌の動きと、包み込む手のひらの温もりに思考が酩酊していく。
 不意に舌が離れたかと思えば、唇が先端を優しく甘噛みした。

「──っ」

 腰が跳ね、声にならない音が喉の奥で震えた。
 目の前の肩に縋るように手を伸ばす。止めたいのか、求めているのか、自分でもわからない。
 ただ、彼の舌が何度も同じ場所をなぞるたび、身体の奥が疼いていくのがはっきりとわかった。

 弛緩する身体は、いつの間にか寝台へと倒されていた。
 彼の指先が腿の奥に触れたかと思えば、抵抗もなく入り込む。微かな水音を立てながら、入り口どころか深くまで沈んでいく。
 まだ、キスと胸への愛撫だけだというのに。
 戸惑う理性を置き去りにして、身体だけが先へ進んでいた。

「……っ、あ……」

 そのまま指が動き出して、思わず喉が鳴る。
 沈み込んだ彼の指は、イレーネの反応を追うように淡々と動いていく。
 どこをどう触れれば反応するか──それは愛撫というより、確認と観察のようだった。

 見透かされているようで怖いくらいなのに、それすらもすぐに快楽で塗り替えられて、ただ翻弄される。
 ぐちゅぐちゅと水音が立つたびに、理由のわからない涙が滲んだ。

 この人は、義務で抱こうとしているくせに。
 イレーネのことなど、なにも知らないくせに。
 どうして今だけは──"正解"ばかり触れてくるのか。


感想 0

あなたにおすすめの小説

王宮医務室にお休みはありません。~休日出勤に疲れていたら、結婚前提のお付き合いを希望していたらしい騎士さまとデートをすることになりました。~

石河 翠
恋愛
王宮の医務室に勤める主人公。彼女は、連続する遅番と休日出勤に疲れはてていた。そんなある日、彼女はひそかに片思いをしていた騎士ウィリアムから夕食に誘われる。 食事に向かう途中、彼女は憧れていたお菓子「マリトッツォ」をウィリアムと美味しく食べるのだった。 そして休日出勤の当日。なぜか、彼女は怒り心頭の男になぐりこまれる。なんと、彼女に仕事を押しつけている先輩は、父親には自分が仕事を押しつけられていると話していたらしい。 しかし、そんな先輩にも実は誰にも相談できない事情があったのだ。ピンチに陥る彼女を救ったのは、やはりウィリアム。ふたりの距離は急速に近づいて……。 何事にも真面目で一生懸命な主人公と、誠実な騎士との恋物語。 扉絵は管澤捻さまに描いていただきました。 小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。

完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす

小木楓
恋愛
完結しました✨ タグ&あらすじ変更しました。 略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。 「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」 「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」 大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。 しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。 強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。 夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。 恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……? 「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」 逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。 それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。 「一生、私の腕の中で溺れていろ」 守るために壊し、愛するために縛る。 冷酷な仮面の下に隠された、 一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。 ★最後は極上のハッピーエンドです。 ※AI画像を使用しています。

世継ぎは他の妃が産めばいい——子を産めない私ですが、帝の寵愛を独占して皇后になりました

由香
恋愛
後宮に入る女の価値は、ただ一つ。 ——皇子を産めるかどうか。 けれど私は、産めない。 ならば—— 「世継ぎは他の妃に任せます。私は、陛下に愛される女になります」 そう言い放ったその日から、すべてが狂い始めた。 毒を盛られても、捨てられず。 皇子が生まれても、選ばれたのは私だった。 「お前は、ここにいろ」 これは、子を産めない女が ただ一つの武器“寵愛”だけで頂点に立つ物語。 そして—— その寵愛は、やがて狂気に変わる。

狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します

ちより
恋愛
 侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。  愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。  頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。  公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。

一夜限りの関係だったはずなのに、責任を取れと迫られてます。

甘寧
恋愛
魔女であるシャルロッテは、偉才と呼ばれる魔導師ルイースとひょんなことから身体の関係を持ってしまう。 だがそれはお互いに同意の上で一夜限りという約束だった。 それなのに、ルイースはシャルロッテの元を訪れ「責任を取ってもらう」と言い出した。 後腐れのない関係を好むシャルロッテは、何とかして逃げようと考える。しかし、逃げれば逃げるだけ愛が重くなっていくルイース… 身体から始まる恋愛模様◎ ※タイトル一部変更しました。

傲慢令嬢は、猫かぶりをやめてみた。お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの。

石河 翠
恋愛
高飛車で傲慢な令嬢として有名だった侯爵令嬢のダイアナは、婚約者から婚約を破棄される直前、階段から落ちて頭を打ち、記憶喪失になった上、体が不自由になってしまう。 そのまま修道院に身を寄せることになったダイアナだが、彼女はその暮らしを嬉々として受け入れる。妾の子であり、貴族暮らしに馴染めなかったダイアナには、修道院での暮らしこそ理想だったのだ。 新しい婚約者とうまくいかない元婚約者がダイアナに接触してくるが、彼女は突き放す。身勝手な言い分の元婚約者に対し、彼女は怒りを露にし……。 初恋のひとのために貴族教育を頑張っていたヒロインと、健気なヒロインを見守ってきたヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は、別サイトにも投稿しております。 表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

呪われた悪女は獣の執愛に囚われる

藤川巴/智江千佳子
恋愛
獣人嫌いとして知られるフローレンス公爵家の令嬢であり、稀代の悪女と呼ばれるソフィアには秘密があった。それは、獣の類の生き物に触れてはならないという悍ましき呪いを体に宿していることだ。呪いを克服しようと試行錯誤を繰り返す日々の中、ソフィアは唯一の友人を救うため、ついに獣に手で触れてしまう。彼女は呪いの発現に苦しみ死を覚悟するが——。 「貴女の身体はまた俺を求めるようになる。貴女はもう、人間のものでは満足できない身体に作り替えられた。この俺によって」 悪女ソフィアに手を差し伸べたのは、因縁の獣人である、獣軍司令官のルイス・ブラッドだった。冷たい言葉を吐きながらも彼の手つきはぎこちなく優しい。 「フィア。貴女の拒絶は戯れにしか見えない」 「——このまま俺と逃げるか?」 「もう二度と離さない」 ※ムーンライトノベルズさんにも掲載しております。

むにゃむにゃしてたら私にだけ冷たい幼馴染と結婚してました~お飾り妻のはずですが溺愛しすぎじゃないですか⁉~

景華
恋愛
「シリウス・カルバン……むにゃむにゃ……私と結婚、してぇ……むにゃむにゃ」 「……は?」 そんな寝言のせいで、すれ違っていた二人が結婚することに!? 精霊が作りし国ローザニア王国。 セレンシア・ピエラ伯爵令嬢には、国家機密扱いとなるほどの秘密があった。 【寝言の強制実行】。 彼女の寝言で発せられた言葉は絶対だ。 精霊の加護を持つ王太子ですらパシリに使ってしまうほどの強制力。 そしてそんな【寝言の強制実行】のせいで結婚してしまった相手は、彼女の幼馴染で公爵令息にして副騎士団長のシリウス・カルバン。 セレンシアを元々愛してしまったがゆえに彼女の前でだけクールに装ってしまうようになっていたシリウスは、この結婚を機に自分の本当の思いを素直に出していくことを決意し自分の思うがままに溺愛しはじめるが、セレンシアはそれを寝言のせいでおかしくなっているのだと勘違いをしたまま。 それどころか、自分の寝言のせいで結婚してしまっては申し訳ないからと、3年間白い結婚をして離縁しようとまで言い出す始末。 自分の思いを信じてもらえないシリウスは、彼女の【寝言の強制実行】の力を消し去るため、どこかにいるであろう魔法使いを探し出す──!! 大人になるにつれて離れてしまった心と身体の距離が少しずつ縮まって、絡まった糸が解けていく。 すれ違っていた二人の両片思い勘違い恋愛ファンタジー!!