是非もない

不自然な出逢い

「今日体操服は？」
「あ、そうだった！」

　カレンの朝はなにかとバタバタと忙しい。父誠一の忘れ物チェックにも月に何度かひっかかる。カレンは慌ただしく登校の準備をして最後に父から弁当を受け取る。

「じゃ、行ってきまーす」
「ああ。気を付けて。今日は遅くなるから夕飯は冷蔵庫にいれておくからね」
「はいはーい」

「ああ、それと…」
　玄関のドアを開ける寸でのところで誠一はカレンを呼び止めた。
「なに？乗り遅れちゃう」
「駅の、駅の階段で走って転ばないよう気を付けるんだよ」
「なにそれ、具体的だね？とにかくはいはい、行ってきます！」

　カレンは家の向かいにある学校のグラウンド程あるやや大きめの公園を小走りで突っ切る。駅までの最短コースだ。５月の今は緑が青々と輝いているし、なにより気候がとても穏やかだ。ゆっくり歩けばとても贅沢な通学コースであるけれど、堪能できるほど余裕をもって登校できるのは週に1回あるかないかだ。

　あと1分！改札口の時計を確認したカレンは走る速度を速めた。このまま走ればなんとか間に合うはず。カレンはホームへと続く長い階段を全力で駆け下り始めた。

　階段を一段飛ばして駆け下りていたカレンは前のめりに思い切りつまづいた。階段はまだまだ上の方で、途中にある踊り場までもずいぶん先だ。

　これから先の時間は後にも先にもカレンにはスローモーションのように鮮明に記憶に残ることになる。１秒がまるで１０秒かのようー。「駅の階段で転ばないように気を付けるんだよ」朝に言われた父誠一の言葉もよみがえっていた。階段のコンクリートに強く打ち付けるのを覚悟して強く目をつぶろうとした直前。カレンの前を歩いていた２０代前半くらいの男性がゆっくりと振り向いて待ち構えたかのように大きく両手を広げてカレンを受け止める体制をとる。「えっ？」不自然な男性の行動にとまどいながら――、そしてその男性と強く視線をからみ合わせながら――、カレンは吸い込まれるかのように男性の腕の中に抱き留められた。

「大丈夫ですか？」

　彼は片腕でカレンをささえながらもう片方の手で手すりをつかみ今起きた衝撃を受け止めていた。スーツをきっちりと着こなしている彼からはウッディ―系の爽やかな香りがした。朝の駅の慌ただしい雑踏からこの瞬間二人だけ取り残されたよう――。カレンはゆっくりと顔を上げた。彼は作られた心配げな表情をしている。彼は完璧に自分を守ったのだから――、その表情はとても不自然に感じられた。

「すいません、ありがとうございます」
「階段は走らない方がいい。気を付けて」
「はい。すいませんでした」

　彼はそっとカレンを離すと身をひるがえして小走りで階段を駆け下りて行った。カレンがホームにたどり着いたときには電車はもう加速をつけて動き始め、電車の中からこちらを見つめる彼の姿があった。彼は取り残されたカレンに微笑んでいるようにも見えた。

「な…、に？」

　遅刻を覚悟しながら――、どこか不自然なこの出来事にカレンはとまどっていた。