39 / 52
第6章・桜の正体
第39話
しおりを挟む
ひとりきりになった僕は、屋上に足を向けた。無感情のまま、フェンスに作られた蜘蛛の巣を眺めていた。
蜘蛛の巣には、蝶が引っかかってしまっている。蝶は逃げようと、必死にもがいていた。
僕はよろよろと立ち上がって、フェンスによじ登った。
蝶の胴体部分を掴み、蜘蛛の巣から剥がしてやろうとして、手を止める。
この蝶を助けることは、果たして正しいことなのだろうか。
今、僕がしようとしていることは、この世の理に反した行動なのではないだろうか。
蜘蛛は生きるために蝶を捕食するだけであって、いたずらに殺すわけではない。
生きるために、殺すのだ。
僕が蝶を助けたら、蜘蛛が餓死するかもしれない。でも、このままでは蝶は間違いなく蜘蛛に喰われて死ぬ。だけど、だけど……。
力なく、蝶から手を離す。蜘蛛の巣がゆらゆらと揺れた。
僕は、どうしたらいいのだろう。
桜は、夢という少女を救うために生み出された。
この方法が病気のひとたちにとっての救いであることは、理解できる。
理解できてしまうからこそ、辛い。
正しい選択って、なんなんだろう……。
考えていると、ふと彼女の声が脳内に響いた。
『――辛くない?』
いつか、彼女と交わした会話だ。
入院生活でふつうの生活を知らない彼女に、僕はついそう問いかけたのだ。
だけど、彼女はこう答えた。
『私、生まれたときからずっとこの生活だから、これが私にとっての当たり前だし。よく分かんないや』
あのとき、僕はそんなふうに答えた彼女を不憫に思った。
じぶんの境遇をほかと比較することすらできず、疑問すら抱いていない彼女を、哀れだと思った。
……だけど。
比べることになんの意味がある?
『私たち、もう友だちでしょ?』
『俯きそうになったら、桜の木を探してみて! 桜の花を見ようとすれば、顔を上げられるから!』
『学校に通ってみたくなったから転校してきたの。見てみてこの制服! どう? 似合う?』
……そうだ。
彼女の、なにが不憫だというのだろう。
彼女のなにが間違っているというのだろう。
僕はこれまで、彼女ほど生きることとまっすぐ向き合っていたひとを見たことがない。
彼女は、僕なんかより精一杯生きている。
僕がこうして彼女の生い立ちを嘆くことは、彼女の生きてきた人生をまるごと否定することになるのではないか。
少なくとも僕は、彼女に出会って変わっている。
僕のなかには今、ふたつの感情がある。
これ以上、深入りするべきではないという想いがひとつ。彼女の特別になることは、必ず死が待つ彼女には残酷なことだからだ。
もうひとつは、彼女を諦めたくないというわがままな想いだ。
どちらもきっと正しくて、間違ってる。だから、どちらも捨てる必要はないのだ。僕が選べばいいだけ。そうしたいと思うほうを。
もう一度立ち上がる。
蝶を蜘蛛の巣から剥がすと、羽根に絡まった糸を丁寧に取ってやる。
そして、青々とした空へ放った。
蝶が大きく羽ばたき、飛んでゆく。太陽へ向かって、まっすぐに。
フェンスから飛び降りると、僕は屋上を飛び出した。
正しさなんて、最初からどうだってよかった。
大切なのは、僕の気持ちだ。僕がどうしたいかだ。
僕は、どうしたい?
もし僕が今、彼女から離れる選択をしたら、桜はどうなるだろう。
きっと、あの殺風景な病室で死ぬまで過ごすのだろう。ひとりぼっちであることを、それすら運命だと受け入れて。
姉を失い、ほかに家族もなく、友だちである僕にも拒絶されて。桜はたったひとりで死ぬ。
『汐風ってすごくきれいな名前じゃん』
『桜になりたい。実を結ばなくても、世界中に愛される花に』
階段を駆け下り、蝶々さんを探した。もう一度彼女に……大好きな桜に向き合うために。
蜘蛛の巣には、蝶が引っかかってしまっている。蝶は逃げようと、必死にもがいていた。
僕はよろよろと立ち上がって、フェンスによじ登った。
蝶の胴体部分を掴み、蜘蛛の巣から剥がしてやろうとして、手を止める。
この蝶を助けることは、果たして正しいことなのだろうか。
今、僕がしようとしていることは、この世の理に反した行動なのではないだろうか。
蜘蛛は生きるために蝶を捕食するだけであって、いたずらに殺すわけではない。
生きるために、殺すのだ。
僕が蝶を助けたら、蜘蛛が餓死するかもしれない。でも、このままでは蝶は間違いなく蜘蛛に喰われて死ぬ。だけど、だけど……。
力なく、蝶から手を離す。蜘蛛の巣がゆらゆらと揺れた。
僕は、どうしたらいいのだろう。
桜は、夢という少女を救うために生み出された。
この方法が病気のひとたちにとっての救いであることは、理解できる。
理解できてしまうからこそ、辛い。
正しい選択って、なんなんだろう……。
考えていると、ふと彼女の声が脳内に響いた。
『――辛くない?』
いつか、彼女と交わした会話だ。
入院生活でふつうの生活を知らない彼女に、僕はついそう問いかけたのだ。
だけど、彼女はこう答えた。
『私、生まれたときからずっとこの生活だから、これが私にとっての当たり前だし。よく分かんないや』
あのとき、僕はそんなふうに答えた彼女を不憫に思った。
じぶんの境遇をほかと比較することすらできず、疑問すら抱いていない彼女を、哀れだと思った。
……だけど。
比べることになんの意味がある?
『私たち、もう友だちでしょ?』
『俯きそうになったら、桜の木を探してみて! 桜の花を見ようとすれば、顔を上げられるから!』
『学校に通ってみたくなったから転校してきたの。見てみてこの制服! どう? 似合う?』
……そうだ。
彼女の、なにが不憫だというのだろう。
彼女のなにが間違っているというのだろう。
僕はこれまで、彼女ほど生きることとまっすぐ向き合っていたひとを見たことがない。
彼女は、僕なんかより精一杯生きている。
僕がこうして彼女の生い立ちを嘆くことは、彼女の生きてきた人生をまるごと否定することになるのではないか。
少なくとも僕は、彼女に出会って変わっている。
僕のなかには今、ふたつの感情がある。
これ以上、深入りするべきではないという想いがひとつ。彼女の特別になることは、必ず死が待つ彼女には残酷なことだからだ。
もうひとつは、彼女を諦めたくないというわがままな想いだ。
どちらもきっと正しくて、間違ってる。だから、どちらも捨てる必要はないのだ。僕が選べばいいだけ。そうしたいと思うほうを。
もう一度立ち上がる。
蝶を蜘蛛の巣から剥がすと、羽根に絡まった糸を丁寧に取ってやる。
そして、青々とした空へ放った。
蝶が大きく羽ばたき、飛んでゆく。太陽へ向かって、まっすぐに。
フェンスから飛び降りると、僕は屋上を飛び出した。
正しさなんて、最初からどうだってよかった。
大切なのは、僕の気持ちだ。僕がどうしたいかだ。
僕は、どうしたい?
もし僕が今、彼女から離れる選択をしたら、桜はどうなるだろう。
きっと、あの殺風景な病室で死ぬまで過ごすのだろう。ひとりぼっちであることを、それすら運命だと受け入れて。
姉を失い、ほかに家族もなく、友だちである僕にも拒絶されて。桜はたったひとりで死ぬ。
『汐風ってすごくきれいな名前じゃん』
『桜になりたい。実を結ばなくても、世界中に愛される花に』
階段を駆け下り、蝶々さんを探した。もう一度彼女に……大好きな桜に向き合うために。
20
あなたにおすすめの小説
神楽囃子の夜
紫音みけ🐾書籍発売中
ライト文芸
※第6回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
地元の夏祭りを訪れていた少年・狭野笙悟(さのしょうご)は、そこで見かけた幽霊の少女に一目惚れしてしまう。彼女が現れるのは年に一度、祭りの夜だけであり、その姿を見ることができるのは狭野ただ一人だけだった。
年を重ねるごとに想いを募らせていく狭野は、やがて彼女に秘められた意外な真実にたどり着く……。
四人の男女の半生を描く、時を越えた現代ファンタジー。
僕《わたし》は誰でしょう
紫音みけ🐾書籍発売中
青春
※第7回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
交通事故の後遺症で記憶喪失になってしまった女子高生・比良坂すずは、自分が女であることに違和感を抱く。
「自分はもともと男ではなかったか?」
事故後から男性寄りの思考になり、周囲とのギャップに悩む彼女は、次第に身に覚えのないはずの記憶を思い出し始める。まるで別人のものとしか思えないその記憶は、一体どこから来たのだろうか。
見知らぬ思い出をめぐる青春SF。
※表紙イラスト=ミカスケ様
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
『大人の恋の歩き方』
設楽理沙
現代文学
初回連載2018年3月1日~2018年6月29日
―――――――
予定外に家に帰ると同棲している相手が見知らぬ女性(おんな)と
合体しているところを見てしまい~の、web上で"Help Meィィ~"と
号泣する主人公。そんな彼女を混乱の中から助け出してくれたのは
☆---誰ぁれ?----★ そして 主人公を翻弄したCoolな同棲相手の
予想外に波乱万丈なその後は? *☆*――*☆*――*☆*――*☆*
☆.。.:*Have Fun!.。.:*☆
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
『愛が揺れるお嬢さん妻』- かわいいひと - 〇
設楽理沙
ライト文芸
♡~好きになった人はクールビューティーなお医者様~♡
やさしくなくて、そっけなくて。なのに時々やさしくて♡
――――― まただ、胸が締め付けられるような・・
そうか、この気持ちは恋しいってことなんだ ―――――
ヤブ医者で不愛想なアイッは年下のクールビューティー。
絶対仲良くなんてなれないって思っていたのに、
遠く遠く、限りなく遠い人だったのに、
わたしにだけ意地悪で・・なのに、
気がつけば、一番近くにいたYO。
幸せあふれる瞬間・・いつもそばで感じていたい
◇ ◇ ◇ ◇
💛画像はAI生成画像 自作
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる