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第三章
第三章
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(一)雑草哀歌
「あんた、転んだのは嘘で本当は殴られたか、蹴られたかしたのでしょ。警察に訴えたら……」
医師は脂肪のかなりついた胸に、幅の広い布製のバンドを巻きながらぞんざいに言った。患者は一万八千三号である。
「いえ、本当に酔って転んだのです」
医師は渋面を作った。
「先日は腰。その前は肘。更にその前は顔面。今度は肋骨骨折ときたもんだ。いくら酔ったとは言え、月に四度も怪我する間抜けはいないよ。次は病院の方で届けるからね」
「はあ、ところで先生、痛いのはもう少し上なのですが……」
「それならそうと早く言ってよ]
乱暴にバンドを剥がし巻き直した。
「これでいいだろ」
医師の目は既に次のカルテに移っており、厚化粧をした看護師が「お大事に」と機械的に言いながら、とっとと出て行けと言わんばかりにドアを開けた。
次回は他の病院に行こうと思いながら、一万八千三号は待合室の椅子に腰を降ろし、内向的に怒りを爆発させていた。
患者がいるから飯が食べられるのに、何様みたいに偉そうな顔をした不愉快な医者である。脱税か、医療事故で逮捕されれば良いのにと心から呪った。
偉そうと言えば、あのジャガーだ。自分はテスカトリポカに仕えているのであって、ジャガーではない。なのに直ぐに暴力を振るう。今回の肋骨骨折も蹴られたためだ。そうでなくとも十日ほど前に階段から落ち、その時打った腰が未だに痛い。
トナティウでは警備兵だったが、些細なことでも、上官にいちいち伺いを立ててから動かねばならない生活に飽き飽きしていた、そんな時、日本に行くようにとの命令を受け、嬉々としてやって来たのだが、とんでもないのが待っていた。こんなことならトナティウにいた方がはるかにましである。ジャガーの顔を見るのもいやだ。日本における工作が失敗して、カラスの餌になれば、どんなにスカッとすることだろう……。
一万八千三号が過ぎたことをクヨクヨ思いながら薬を待っていると、ピーポーピーポーという救急車のサイレンが近づき、病院の前でピタリと止まった。
厚化粧の看護師が出て来て、緊急用のドアを開けると、あまり広くない待合室の中に緊張の糸がピーンと張り、ストレッチャーで患者が搬送されてきた。意識はないようだ。酸素吸入をしている。
先程の医師が診察室から出てきた。
「血圧は、…… 脈は、…… 体温は?」
救急隊員に質問する口調は探求者のそれで,一万八千三号に対応していた時のような傲慢さは微塵もない。
「オペの準備だ。いいね」
「はい!」
厚化粧が大きく頷く。
「先生、助けてください! お願いします!」
患者の妻であろう。中年の夫人が縋るように言うと、医師は「全力を尽くします」と力強く答え、ストレッチャーと共に手術室に向かった。
一つの命を助けるために、医師、看護師、救急隊員など大勢の人々が動いている。一万八千三号はちょっぴり感動を覚えた。
待合室には様々な人がいる。松葉杖を突いてる若者は交通事故だろうか? 単車にでも乗っていたのであろう。ファション雑誌から抜け出たような恋人が荷物を持ち付き添っている。似合いのカップルだ。
小学生の女の子がゼイゼイと喘いでいる。喘息であろう。見るからに苦しそうだ。母親が少しでも苦痛を和らげようと、懸命に背中をさすっている。
車椅子に乗っているのはおばあちゃん。押しているのはおじいちゃんだ。何十年もこうして助け合って来たのだろう。死ぬ時は一緒にと思っているかもしれない。
退院する患者とその家族たちが見送りの看護師に何度も頭を下げている。久々に我が家へ帰れる喜びで笑顔が弾けている。
そんな光景を見ているうちに一万八千三号は底知れぬ寂寥感に襲われていた。
“人間には支えてくれる人がいる。人は人を支えようとしている。だが、おれには……おれは…… おれは人間ではない。鏡から生まれた分身。分身には支える人も支えてくれる人もいない。テスカトリポカの命令通りに動くだけ……。
人間は家族や恋人のために生きている。会ったことも見たこともない人の為にも生きている。それなのにおれはこの世を破壊するためにだけ存在している。何故、破壊しなければならないのだ。皆、一所懸命生きているじゃないか、なのに何故?”
人間ではないのに、人間のように悩んでいる一万八千三号の耳に可愛い声が聞こえた。
「おじちゃん、痛い?」
見ると、三歳くらいの女の子が直ぐ前に来て顔を覗きこんでいる。
「少しね」
一万八千三号は微笑んだ。
「みっちゃんがおまじないしてあげる」
みっちゃんは一万八千三号の真っ黒に変色している瞼の上に小さな指を置いた。
「痛いの痛いの、飛んでけー!」
顔を覗き込み再び尋ねた。
「痛くなくなった?」
「うん、痛いの飛んでっちゃったよ。ありがとうね」
「良かった」
みっちゃんは嬉しそうに笑った。邪気のない笑顔である。一万八千三号は彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。
「みっちゃん、帰りましょう」
みっちゃんは母親の元に戻って行ったが、一万八千三号は後ろ姿を見ながら、もしこの世を破壊したら、あの子も……。と考えて愕然とした。
“そんな権利がおれにあるのだろうか?”
一万八千三号は駅の階段を、足を引きずりながら上がっていた。アナウンスが電車が間もなく到着することを伝えている。
ようやくホームに辿りつき一息つこうとした瞬間、階段を駆け上がって来た若い男とぶつかりそうになった。男は一万八千三号を辛うじて避けたが、その先に立っていた女の子は小さすぎて、視界に入っていなかったのであろう。もろに衝突し、弾き飛ばされた女の子は、アッ!と言う間もなく線路に転落した。
「みっちゃん!」
売店で買い物をしていた母親の悲鳴と女の子の泣き声が響いた。病院で出会ったみっちゃんだ。その時、電車が轟音と共に突入してきた。
我を忘れて線路に飛び降りた一万八千三号がみっちゃんを素早く抱き起こし、ホームにいた人に手渡したが、足を痛めているため自身が上がる力が無い。獲物を狙う怪獣さながらに電車が襲いかかって来る。間一髪でホーム下の溝に飛び込み、電車は急ブレーキをかけながら止まったが、そこは一万八千三号がもぐった地点をかなり過ぎていた。
電車がのろのろと前に進み、空間がある連結部分から一万八千三号が駅員に助けられながらホームによじ昇ると、周りにいた乗客から一斉に拍手が起き、泣きじゃくるみっちゃんを抱いた母親が「命の恩人です。有難うございます」と言って涙ながらに頭を下げた。
一万八千三号は「お名前は?」と問う母親に「当たり前のことをしただけです」とだけ言って、みっちゃんのオデコに指を置き、「痛いの痛いの、飛んでけー」と言うと、クルリと背を向け、アジトとは反対方向の電車に乗ってしまった。人に感謝されるようなことをしたのは初めてである、照れくささが先に立ち逃げ出したのだ。
何度も頭を下げる母親と、笑顔で手を振るみっちゃんの姿が視界から消えたとたん、あちこちの痛みがぶり返してきた。
だが気分は爽快であった。人々の拍手と尊敬の眼差しが、耳と瞼に蘇って来る。
“命の恩人”
いい響きだ。
この世の破壊を目指すテスカトリポカの命令に従うことしか知らなかった自分が、あろうことか、人の命を助けてしまった。人の役に立ってしまった。気持ちが良い。みっちゃんの笑顔が浮かんで来る。
“テスカトリポカは間違っている”
一万八千三号は確信した。
この目で見、この肌で感じたことは自分自身で租借すべきで、テスカトリポカやジャガーの命令に唯々諾々と従うべきではない。
一万八千三号の中で何かが芽生えていた。
“ジャガーはドジばかりしている自分を今度失敗したら、トナティウに送り返すと言っていた。戻ればカラスの餌にされるだろう。それなら日本で死ぬのも同じことだ。拍手を送られなくてもいい。頭を下げてもらわなくてもいい。破壊からこの世を守るために生有る者のために生きてみたい。
人は正と邪を知っている。美と醜を知っている。愛と憎を知っている。そのくせ、右に揺れ、左に揺れている。その揺れを克服しながら出来るだけ真っ直ぐに生きようとしている。悩み傷つき生きている。それが人なのだ。人間なのだ。おれは人間になりたい。そのためにはどうすればいいのだ? そうだ! テスカトリポカの陰謀を暴いてやろう。悪魔がこの世の終わりを企んでいることを知らせよう。おれは人間になるのだ!”
一万八千三号が内向的に燃え上がっている間に次の駅も過ぎてしまい、帰り道は更に遠くなった。
「田中くん、ちょっとこっちへ」
まだ今日の業務報告も書き終えていないのに店長に呼ばれ、一郎は来るべきものが来たと覚悟を決めて立ち上がった。
教材会社に就職して半年。最初の三月は給与が保証されていた。次の三月は半分になり、残りは売り上げに応じた歩合になった。そして今度はフルコミッション。つまり基本給の一切ない出来高払いの歩合制を店長に言い渡された。一郎の腕では月に十万がやっとである。これでは食べていけない。早い話がクビだ。
だが一郎は慣れていた。これまでに何度となく繰り返されて来たことなのだ。
「分りました。それじゃ、今度の締めで辞めさせていただきます」
いとも簡単に言ったので、一郎の出方によりいろんなセリフを考えていた店長の方が腰砕けになった。
事務所を一人だけ早目に出たが、やはり気が重い。一旦電車に乗ったが途中で下車してしまった。一度だけ行ったことのあるスナックを覗いて見ようと思ったのだ。店は歩いて十分ほど。商店が途切れ、住宅街にかかる寂しい場所に場違いなネオンを灯して建っている。
ドアを開けると、和服のママが「あら、いらっしゃい」と笑顔で迎えてくれた。まだ六時を回ったばかりである。客は誰もいない。
「嬉しいわぁー 田中くんだけにはもう一度来てほしかったの。また来るって言ってたのに、あれっきり来ないからもう会えないのかと思ってたのよ」
「そんなオーバーな……」
「それがオーバーじゃないの。おビールでいい?」
注文を聞いてから続けた。
「会えなくなる前に、田中君が相談に乗ってくれたらなあと思うことがあるの。でも、こんなことはお客さんに言うことじゃないから……。おつまみ何にします?」
冷奴とアタリメを頼んだ。
「客と言ったって、明日香ちゃんとおれは同級生。他人行儀はよせよ」
「親しき仲にも礼儀ありよ。はい、どうぞ」
明日香はビールをグラスに注いだ。
「私も一杯もらっていい」
一郎が初めてここに来たのは一月前にあった中学クラス会の後である。三十人ほどが集まったが、その中に明日香もいた。子供の頃から妙に色気があり、クラスだけでなく他の組や上級生の男子からも注目を集めていた。四十半ばを迎え、大分くたびれてはいたが、後方に捲き上げた髪や、やや吊り上がった目などにまだ色香が残っている。その明日香が、「私の店にいらっしゃいよ」と一郎を含めた七人を二次会に誘ったのだ。皆、かつては彼女に密かな思いを抱いていた連中ばかりである。
数を限定したのは、止まり木が七つだったからだ。カウンターだけの小さな店である。一郎はあの夜、余り歓待されたとは言えない。中小企業ながら社長とか、一流企業の部課長になっている者にだけ、明日香はサービスを心がけていた。彼女以外にはホステスもいないため、モテなかった四人が別のグループのようになり、ビールの注ぎっこをした。だからもう行く気もなかった。
その気が変わったのは一人で赤提灯に行っても話し相手がいないのでは酒も美味くない。それでふと思い出し、ちっと愚痴を聞いてもらいたくなったからである。数日のうちに失業者になる運命が待っているので、ビール二本とつまみ少々。一時間前後で切り上げるつもりでいた。
「で、オーバーじゃないと言うのは?」
「隣に座ってもいい」
と言いながら、カウンターから出て来た。愚痴を言うつもりで来たのに、聞き役にされそうな雰囲気である。
「私一度結婚しているの」
当然であろう。驚くようなことではない。
「どんな人と?」
「勤めていた会社の社長の息子」
「玉の輿だったのだ」
「是非にというものだから……。でも私と生まれてまだ半年の息子を残して、僅か三年で死んでしまったの。交通事故でね」
「……」
こういう時は言葉が見つからない。
「悪い時には悪いことが重なるもので、義父がそのショックもあったのでしょう。脳梗塞で倒れ、会社も倒産してしまったの」
明日香の指が一郎の指に絡み、生暖かい体温が伝わって来た。
「私、子供を抱えて必死に働いたわ。その甲斐あって息子は昨年、東大の法学部にストレートで入学し,やっと苦労が報われたと思ったのも束の間、先月の初めに血を吐いて、倒れてしまったの」
「何で⁉……」
「多臓器出血性梗塞と言う病気で、一千万人に一人いるかいないかと言う難病なの」
初めて聞く病名である。
「治すには臓器移植しかない。一度に脳と心臓と肝臓を移植しなければならいの。手術が出来るのは世界中でただ一人、アメリカのステイン・フォード博士しかいないとお医者さんに言われたわ」
涙が一筋こぼれた。
「アメリカだと保険が利かないから、医療費だけで一億円を越えてしまうの」
明日香は握っていた指に力を込めた。
「せっかくローンを払い終えた自宅も、この店も担保に入れ、全ての貯金を解約しても一億には五百万届かなかったわ。でもほっておいたら三月の命。たった五百万がないために、息子を見捨てた母親になるくらいなら一緒に死のうと……」
明日香は一郎の胸に顔を埋めると、ワッ!とばかりに泣き伏したので、香水の匂いが一郎の鼻腔に広がった。
「いけないよ。死ぬなんて……。最後まで希望を捨ててはいけない」
「そんなこと言っても、お金が無かったら……」
「五百万でいいんだね」
「ええ」
明日香は顔を上げ、一郎の目を盗み見た。
「何とかなるかもしれない」
「田中くんがそんな…… 駄目よ。それに私、そんなつもりで……」
「出来るかどうかは分らない。しかし人一人の命に関わることだ。頑張ってみるよ。四、五日待ってくれ」
「す、すいません。恩に着ます」
「恩に着るなんて、同級生じゃないか」
「お金は必ず返します」
明日香は一郎の胸から顔を離して言った。
「あなたは初恋のヒ・ト」
目を閉じ、身体の力を抜いた。男殺しの見事なテクニックである。
一郎がドギマギしながらも、己の唇を明日香のそれに合わせようとした時、「来たよー!」という能天気な声と一緒にドアが開き、客が入って来た。
素早く体勢を立て直した明日香は鼻声を出した。
「あーら、ハーさん、いらっしゃい。お待ちしてたのよォ」
明日香がハーさんの相手をしている間、一郎は五百万の工面について考えていた。その場の雰囲気でなんとなく言ってしまったが、まるで当てがないことを言ったのではない。
先日、刈谷新首相の記者会見を聞いてから、ある空想が浮かんでいた。その空想を現実のものにすれば、五百万どころか治療費の全てに我が家のローン代、月々の生活費に遊興費、世界一周費だって入るかもしれない。いやいや、そんなスケールではない。相手は一国の首相。国家予算の百分の一くらいは取れる筈だ。
テスカトリポカが蒔いた種をたっぷりと吸い込んだ一郎の脳は、現実離れした欲望で際限もなく膨らみ始めていた。
それでも僅かに残っていた理性が働いた。
自分がしようとしていることは犯罪である。それも確証のないことをやろうとしているのだ。己の脳だけが勝手に思っていることで、単なる勘違いかもしれない。もしそうだったら刑務所にブチ込まれるだけで、何の利益ももたらさない。
“入れ替わっているという確かな証拠がほしい。そうすれば……”
アルコールを重ねながら考えているうちに、理性はいつしか消えていた。
スナックからそう離れていない一軒家の広間で、ジャガーを中心にした十人余の男たちがテーブルを囲んでいた。部屋の隅には、人間一人が寝れるようなボックスがまるで棺桶のように置かれていた。
ジャガーの左右には、昨夜岩手に上陸し、今朝東京に着いたばかりの十五号から十八号までの四人が座っている。刈谷首相ソックリの分身三千六号がほぼ真ん中で、末席は一万八千三号だ。用無しになった二千七百十五号たち三人は既に帰国している。
ジャガーは全員を見渡してから、おもむろに切り出した。
「この作戦は短期決戦だ。長引くと馬脚を現す。出来るだけ早い機会にトナテイゥと防衛協定を結ばせねばならぬ。それに向かって努力するように。働きがよければ、次に分身になる時は号数がずっと若くなるかもしれぬ。ところで三千六号、念のため言っておくが、刈谷夫人とは決してベッドを共にしてはならん。姥桜とは言え、なかなかの美貌。一夜を過ごしたいだろうが、関係まで持ったのでは見破られる恐れがある」
「迫られたら……」
「疲れているとでも言っておけ。苦労をかけるが、全てはおまえの出来次第だ。幸いにして、国会法の改正により、首相は秘書一人を伴い出席してもいいことになった。質疑の際には、おれが必ず横にいるので安心しろ。答える時は質問者だけでなく、一人でも多くの議員に催眠術が効くように努力しろ。それでも効かん連中には鼻薬を嗅がせてやる。この国の政治家にはこれが一番だ。金のためなら国でも家族でも平気で売るのがごまんといる」
と言ってニヤリと笑い更に続けた。
「ではそれぞれの役目を言い渡す。俺は第一秘書、十五号は第二。十六号は第三秘書。これまでの秘書は全員解雇した。おれがいつも傍にいれればいいのだが、そういうわけにもいかんので、十五号と十六号は常に首相の三千六号についているように。十七号はボディガード主任だ。警視庁からSPが派遣されているが、奴らを余り近づけるな。十八号は官邸には入らずここにいろ。トナティウとの連絡が主たる任務だ」
十七号は身長は無いが、鍛えられた筋肉の持ち主である。陰気な目で、下から人を舐めるようにして見上げる癖がある。ボディガードというより、殺し屋のような雰囲気である。巨人で海坊主のような十八号をジャガーは官邸には不似合いだと考え外したのだが、紳士然とした十五号や、生まれた時から秘書だと言っても通じそうな十六号も、良く見ると眼の光は十八人衆に共通した蛇のそれであり、一人として政治の中枢を司る館に相応しい者はいない。
ジャガーは一万八千三号を除く全員に役割を申し渡した。三人が秘書、五人がボディガード、残りはアジト在住である。
「私は何をするのでしょうか?」
一万八千三号が恐る恐る尋ねると、ジャガーはゆっくりと立ち上がり横に行き、
「録音係でもしてもらおうか」
と言いながら襟首を掴んだ。
「立て! 立つんだ!」
一万八千三号の目に怯えが走り、両腕で椅子の端を握って抵抗したが、ジャガーは片腕だけで引き剥がすようにして立ち上がらせると、もう一方の手を上着のポケットに入れた。
「何だ、これは?」
ポケットから手を抜き、鼻先に突きつけた。小型のボイスレコーダーを握っている。一万八千三号は顔色を失った。
「これを持って、警察にでも駆け込むつもりだったのか?」
言い終わると同時にジャガーの鉄拳が唸り、一万八千三号は壁まで吹っ飛んだ。
「住所や本名を聞かれたらどうする? 鏡から生まれましたので、戸籍はございませんとでも答えるか?」
容赦なく蹴り上げた。
「分身の役目はテスカトリポカ様の心を心とし、忠勤に励むことだ。それを裏切ったらどうなるか、分っているだろうな」
一万八千三号は顔を上げ、口から流れ出る血を拭いながら、ジャガーを見据えて言った。
「おれはもう分身じゃない。人間だ! おまえの命令など聞かぬ。この世の破壊に手は貸さぬ。殺すなら殺せ!」
「貴様ァ!」
ジャガーは怒り心頭に発した。手や足だけではなく、椅子まで使って、散々に殴打したが、一万八千三号が完全に気絶するまで誰一人として止めることが出来なかった。
「近々金の延べ板を運んで船が来る。それで送り返す。それまでフン縛っておけ。カラスの餌にしてやる。もし逃げようなどとしたら、これで殺ってしまえ」
バタフライナイフを取り出し、横にいた男に手渡した。
「田中くん、田中君。起きて……」
一郎は明日香の声で目を醒ました。いつの間にか眠ってしまったようだ。既に十一時を過ぎている。
明日香がそっとメモをよこした。
“今夜は奥さんの元に帰ってあげて。私は入院している息子のところに行きます”
一郎は立ち上がった。勘定はいらないと言うのかと期待したが、一万近くも払わされた。
「早く来て、待ってるわ」
耳元で囁いた明日香の言葉に、もう一度鼻の下を伸ばして外に出た。
僅か数歩歩いた時である。
「もっ、もし……」
と言う声がして、そちらを振り向くと男が一人、電柱の脇にうずくまっていた。脇腹から夥しい血が流れている。
「どうしました!」
「こ、これを警察に……」
上半身を伸ばして一枚の写真を差し出し、一郎が受け取ると同時に崩れ落ち、「お、おれは、人間に、な、なれた」と言って息絶えた。
闇の向こうから足音が聞こえる。一郎は足早に駅へ向かった。
(ニ) 恐 喝
まんじりともせずに夜明けを迎えた一郎はテレビの前に寝巻きのまま座り込み朝刊を広げた。
昨夜の男のことは社会面の下半分に載っていた。記事によると脇腹を刺され、あそこまで逃げて来たらしい。持っていた免許証は偽造されたもので、記されていた住所には該当する人物はおらず、某国の密入国斡旋組織「竜頭」と関わりがあるかもしれないと書かれていた。
テレビのニュースも顔写真が新聞よりはっきりしているくらいで、記事以上のことは何も言わなかった。
一郎はタロウを膝に乗せ、昨夜男から受け取った写真をあらためて眺め、「瓜二つだ」と呟いた。
トナティウの独裁者トラカエレルが護衛の士官を従え、閲兵しているものである。
日本にトラカエレルの映像が送られて来たのはこれまでに二度しかない。最初は国交断絶直後で、戸村博士に金蛇勲章を授与した時のものである。次に放映されたのは昨日のことで、子供たちから花束を受け取っていた。横に士官が一人いるだけで、兵士は間近におらず、山や川などと同じ単なる風景になっていた。だが一郎が見ている写真は整列した兵士たちがトラカエレルの直ぐ傍におり、一人ひとりの顔がはっきりと判別出来る。
「どうやって入れ替わったんだろう?」
又独り言を言った。
“マスコミで報じられていない写真を父ちゃんが何故?”
タロウは写っている全てを頭の中にインプットした。
「こんなに早くから起き出して何してるの?」
まだ寝ていた節子が布団の中から尋ねた。
「な、何でもない」
一郎は写真を隠しながらトナティウは三年前移民の申し込みをしたのに、返事がなしのつぶてであることを思い出していた。おばあちゃんが書類に旧姓を書いたのが原因だとは知る由もなく、あれ以来、余りいい感情を持っていない。そのトナティウが送り込んだ人物から金を巻き上げる。自分がしようとしていることが痛快なことに思えて来た。
テレビにクローズアップされた写真に興味を示した人物がもう一人いた。その名は政財官犯罪捜査庁捜査次官三田川智彦。次官と言っても四十を越えたばかりの少壮である。
“見たことがあるな。確か、あの時の……”
記憶の糸を辿っていた。
いつもより早めに家を出た三田川は庁舎に入ると、早速ファイルをめくって見た。やはりあった。間違いない。眼の周りが変色し唇がタラコのように腫れ上がってはいるが、同じ人物だ。写真は無人の赤外線カメラが撮ったもので、場所は東北道・岩手県平泉前沢のインターチェンジの入り口で、自動通過出来るETCでは無く、身体を伸ばして現金払いのカードを販売機から引き出している。日時はゴールデンウィーク最終日の午前零時すぎで車は七人乗りのRV。東京ナンバーだ。助手席と後部座席にも数人いるようだが顔は分からない。後部座席に赤いスーツのようなものを着ている人物がいるのが辛うじて分かるが性別は判断出来ない。
三田川は貧困家庭の出であった。町工場に勤めていた父親が、小学生の時に亡くなったため、母のパート収入と生活保護で中学高校と通ったが、成績はいつもトップだった。高三の時、担任に「おまえなら東大の医学部に入れる」と言われたが、その日暮しの家計はそれを許さなかった。母はかなり老いて来て、下に三人の弟妹がいたからである。仕方なく警察学校に入った。大卒だと六か月だが、高卒は十ヶ月学ばねばならない。
まだ十八歳の少年だった三田川は学校の成績は良くても、社会の仕組みには無知であった。警察とは実力次第、実績次第で昇進できる職業だと思っていたのだ。ところが実態は昇進試験を受けなければ上がれない制度になっている。捜査の神様だろうが、仏様だろうが、パスしなければ永久に巡査である。だが第一線の警察官には試験勉強をするようなゆとりは全くと言っていいほどない。それでも三田川は努力した。眠い目をこすり、疲れた身体に鞭打って勉強し、巡査部長、警部補、警部と昇進し、次は警視を狙う段階までとんとん拍子に進んだ。しかし警視になったらそれでおしまい。どんなに優れていようとも、そこから先は雲の上。東大卒で年に数人しかなれないキャリアたちだけの世界であった。
母親が他界し、弟妹たちも独立して、肩の荷が降りたせいもあり、何となくやる気をなくしていた時に政捜が生まれ、立案者である宝田が推薦してくれたお陰で、思いがけず捜査次官補の椅子を手にすることが出来た。宝田が署長時代に僅かな期間だが一緒に勤務したことがあり覚えていてくれたのだ。
就任直後に元総理の汚職事件を手がけ、その功労により次官に昇格したばかりか、マスコミに二十一世紀のスーパー刑事と持ち上げられ、端正な顔立ちと股下九十センチ近い足の長さが主婦層の人気を呼び、スターのような存在になった。飽きっぽいのは人の常で、一時ほどには騒がれなくなったが、未だに根強いファンがおり、政捜のホープであることに変わりはない。
もし政捜という組織が出来なかったら、田舎のお巡りさんで一生を終らなければならなかったであろう。今日の自分があるのは宝田のお陰である。三田川は宝田のためならどんなことでもするつもりであらゆることにアンテナを張っていた。
ある日、テレビで政治討論会を見ていたら、司会者が妙な質問をした。候補者全員が同乗したRV車が、宮城県の白石近くで事故渋滞にハマッているのを複数の視聴者が見たという。四人はいずれも否定したが、三田川は妙に気になり資料を集めておけば何かの役に立つかもしれぬと考え、エリアを広げ花巻以北の高速道路の料金所やサービスエリア、パーキングエリア、一般道に情報を送るよう依頼したところ、渋滞時間に現場付近を通過していた可能性のあるRV車の赤外線写真が五十枚程届いた。その中の一枚に、明らかに暴行を受けたと思われる顔が写っており記憶に残っていたのである。高速料金の支払いはETCがほとんどなので、ドライバーの顔が写っている記録は少ない。幸運であった。
首相になったとたん、刈谷の言動がおかしくなってきた。もしかしたら、この事件と関連があるかもしれぬ。三田川はそこまで考え、前沢のインターチェンジにその日を含め時間を問わず同じRVが最近通過していないかを問い合わせた所、その日の内に、前日の十三時に東北道から降りて来て、料金を払っている写真が送られて来た。昼間の写真である。助手席に豹模様と思われる上着を着た男がサングラスをかけて坐っている。後部座席には誰もいない。
四人の候補者そっくり男が乗っていたかもしれぬ車を運転していた男が殺された。普通の殺人事件ではない。政治家絡みかもしれぬ。出身地に近いので、土地カンもあるし、警察には知己も多い。あちらに行けば、何か情報が得られるかもしれない。
一張羅のスーツに着替えて玄関に降りた一郎に、タロウが吠えながら飛びつこうとしたが節子に後ろから抱き上げられた。
「駄目、おとうちゃんはお仕事!」
それでもタロウは首を伸ばして吠えまくった。
行ってはいけない。とんでもないことが起きる。犬の第六感である
一郎は例の新聞写真を切り取って内ポケットに入れている。だが二人共、普段とは違うタロウの鳴き声に気づいていなかった。
「職安、駐車場あるの?」
節子はハローワークに行くものと、勝手に決めつけている。
「そんな所には行かない。おれにぜひ来てほしいと言っている所があるので、条件を聞いてこようと思ってな」
「あなたに来てほしいですって?」
節子は信じられなかった。当然である。デタラメなのだから。
「おれも捨てたものじゃないだろ」
一郎は胸を張って言った。
「何を売るの? 布団、百科事典、コンドーム?」
「まあ、楽しみに待ってなさい」
あまり突っ込まれるとボロが出る。
「お帰りですか、お構いもしませんで、またお出かけください」
上はパジャマ。下は紙オムツ姿のおばあちゃんが顔を出して言った。
一郎は赤羽御殿と呼ばれている刈谷の私邸前まで来て驚いた。入り口には警官が四人も立ち、直ぐ横には機動隊を乗せた大型バスが駐車しており、記者やカメラマンがウロウロしている。
新聞を殆ど読まない一郎は知らなかったが、今日は政策協定を結び、刈谷の当選に一役買った人民党党首が来訪し、邸内で会談をしていたのである。
但し、前向きなものではない。当選後の刈谷の言動が、トナティウべったりとなりつつあるのを危惧して人民党の側から申し入れたもので、連立政権はご破算となり、民心党単独政権になる可能性が大であった。
一郎は気後れがして引き揚げようかと思ったが、明日香の顔が浮んできた。
“たった五百万足りないために息子を見捨てた母親になるくらいなら,一緒に死のうと……”
明日香の声が胸の奥で何度も谺し、それを聞いているうちに、何故か度胸が座って来た。
“行くぞっ!”
自分自身を叱咤して門前に車を進めた。
守衛の警官と記者数人が近寄ってきたが、記者たちは窓越しに一郎の服装を見て直ぐに離れた。
「どんなご用件ですか?」
警官が尋ねた。
「JCIAの者だ」
心臓がバクンバクンと音を立てている。
「JCIA?]
「シッ、大きな声で、記者に聞かれたらどうする! 警官なのに知らんのか。日本中央情報局の略だ」
渋面を作りながら、自分の顔写真が貼ってあるもっともらしい身分証明書を出し、素早く引っ込めた。来る途中、文房具屋で購入しデッチあげたものである。
「お約束は?」
「そんなものはない。緊急だ。トナティウに関する昨夜の件と言えば直ぐに分かる。日本の命運に関わることだ。急いでくれ!」
一郎はもう一度証明書をちらつかせた。
「くどいねえ。JCIAの山崎だ。総理に聞いてみたまえ」
「分りました。ちょっとお待ちください」
警官は早足で潜り戸の中に消えたが、それと同時に一郎の背中に冷や汗がどっと流れた。
誰も来ないまま時間だけが過ぎ、その間に二台の車が帰って行った。最初の車に乗っていた人民党委員長は口をへの字に結んでニコリともしなかった。次に出て来たのは刈谷に続く民心党のナンバー二である代表幹事の宅間で、薄笑いを浮かべていた。その度にフラッシュがたかれ記者たちが車を取り囲んだ。
「邪魔だな、こいつ」
一郎の車を見ながら記者の一人が言ったが、彼の存在に興味を示そうとはしなかった。
そしてまた時が過ぎ、それに比例するように不安が広がってきた。
自分が考えたように、刈谷は本当に偽者なのだろうか、もしそうだとしたら、家族が分かる筈だ。家族も偽者……。 いくら何でもそこまでソックリ人間を揃えるのは不可能だ。
もし本物だとしたら玄関払いをされるだろう。いや、それで済めばまだいい。逮捕されるかもしれない。それとも病院に送られるか……。
考えが、悪い方悪い方へと傾いて行く。
“今なら間に合う。いっそ逃げ出そうか”
そう思った時、潜り戸が開き、先程の警官と鋭い目をした男が、屈強なボディガード数人に囲まれて出て来た。
男はジャガー、いつものジャンパーではなく、茶のスーツを着ている。
記者たちの間にざわめきが起きた。
「第一秘書の和泉だ」
「知らないな」
「選挙が終ったら急に出て来たのだ」
「中之島さんは?」
「解雇だそうだ」
「何故?」
「トナティウに対する姿勢がおかしいと忠告したら、もう来なくていいとその場で言われたらしい」
「中之島さんだけじゃない。これまでの秘書は残らずクビになった」
一郎もジャガーを見て、彼らとは違った意味で驚いていた。
記者たちはジャガーの傍に行きたいのだが、ボディガードが作っている人間の垣根が邪魔で近づけない。ジャガーが一郎をチラリと見てから助手席に滑り込むと、ボディガードたちは車を背にして、ドアの前に立った。
「第一秘書の和泉と申します。トナティウに関する昨夜の事件とは、どのようなことですか?」
ゾッとするような低音である。一郎はせっかく引いた冷や汗が、また噴き出したのを覚えながらも「俺は刈谷総理に会いに来たのだ。あんたじゃない」と精一杯虚勢を張った。
「総理は多忙でお会い出来ません。代わりに私がお聞きします」
必要以上にイキがってもしょうがない。要は金になればいいのである。
「そうだな。役者不足だが、同じ写真に写っていることだし、お前に言おう」
「写真?」
「これだ。ほら、ここに写っている」
内ポケットから取り出し、トラカエレルの横にピタリとついている護衛の士官を指差した。
「これが私ですか?」
ジャガーはニヤリと笑った。
「端っこに写ってる兵隊が昨日殺された男で、トラカエレルと握手をしているのが刈谷首相の偽者、つまり、おまえの雇い主だ」
「ホオー、首相の偽者!」
「本物とは声が違う。おれの耳は微かな違いも見逃さない。黄金の耳だ」
「それは羨ましい。で、おいくらで買えばよろしいのですか?」
「取り敢えず一千万。後は毎月五百万だ」
「ローンですか?」
「そうじゃない。写真は売らん。売った瞬間、昨日の男のように殺されるに決まってるからな。誰にも分らぬ所に隠しておく。おれにもしものことがあったら、友人がマスコミに発表する」
「永遠に毟り取ろうという訳ですか」
「首相の間だけでいい。どうだ、安い取引だろう」
「ノーと言ったら?」
「今直ぐマスコミに喋ってやる」
一郎は顎で記者たちを示した。
「なーるほど。分りました。お支払いしましょう」
「今、この場で一千万くれ」
「報道陣の真ん前で! さすがはJCIA、いい度胸ですね」
「あとは毎月二十五日におれの方で取りに来る。だが暗い所や、人のいない場所では絶対に会わぬ」
長年の習性で、支払日は二十五日でないと落ち着かないのだ。
「おれの名も、おれの家も絶対に探すな。もし、そんなことをしたら、写真を……」
「分ってますよ。直ぐに持って来ますので、少々お待ちください」
ジャガーは悠然と去って行き、数分とたたぬうちにボディガードの一人が紙包みを持って来た。主任の十五号である。
中を見ると札束が十個確かに入っていた。
「和泉から交通事故に遭わぬよう、気をつけてお帰り下さいとの伝言です」
十五号は不気味な薄笑いを浮べ、一郎を嘗め回すように見てからドアを閉めた。
着ているワイシャツは再三にわたって吹き出した冷や汗でシャワーでも浴びたかのようにグショグショになっている。
節子は朝から大忙しであった。一郎が出た後、ベランダで洗濯物を干しながら窓越しに中を見ると、おばあちゃんがお尻を押さえてトイレに向かっている。昨夜の下剤が効いてきたのだ。ホッと胸を撫でおろした。一月ほど前からおばあちゃんは薬の世話にならないと出るものが出なくなってしまい、週に二回、下剤を飲ませている。だが必ずしも効くとは限らない。飲んでも出ない時は、お尻の穴に使い捨て手袋をした指を入れ、堅くなった便を掻き出さねばならぬ。どうやらその必要はなさそうだ。それどころか効きすぎた。やがて垂れ流しに近い状態となり、トイレに間に合わず、おむつ交換をすること十回以上。寝間着もすべて使い切ってしまい、節子は自分のパジャマを着せた。縦はそれほどでもないが、横がダブダブである。
一騒動だったが、三時を過ぎてようやく収まった。
「今日は疲れたでしょう」
おいしそうにメロンを食べているおばあちゃんに尋ねた。今度は脱水症状を起こさぬよう水分の補給をせねばならない。
「一生懸命働いたからね」
「おばあちゃん働いてたの。何をした?」
「何をしてたっけ? 忘れちゃったよ」
「いいわよ、忘れても」
「ところであなた様はどなた様ですか?」
「あなたの息子のお嫁様ですよ」
「うちの息子に嫁だなんて、冗談を。小学生に嫁だなんて。ホッホッホッホッ……」
おばあちゃんは嬉しそうに笑った。
「冗談じゃございませんよ。フッフッフッ……」
節子も笑顔を絶やさない。だが、心の中では泣いていた。泣きながら、いつか必ず来るその日まで、嫁として精一杯尽くそうと思っていた。そして、その日が一日でも遅いことを願っていた。
「ウッ!」
いきなり異様な臭いがして、節子は思わず鼻を押さえた。ウンチがまだ残っていたようだ。おばあちゃんを風呂場に連れて行き、オムツを脱がし、下半身を洗っているのをタロウがじっと眺めている。
おばあちゃんを自室のベッドに寝かせると、節子は家中の窓を全て開け、玄関のドアも開け放ち、臭いの追い出しにかかった。
そこへ物も言わずに紙包みを抱えた一郎が飛び込んで来て、せっかく開けたドアを閉めたばかりか、チェーンまでかけた。異臭はまだ漂っている。
「どうしたの?」
節子は驚いて尋ねた。
「窓を閉めろ。窓を!」
唖然としながらも、節子は言われたとおりにした。
タロウが寄ってきて一郎の足元にジャレついた。無事に戻ったのが嬉しいのだ。
「トイレ、トイレ。それから遊んであげる」
一郎はスーツを着たままトイレに入ると紙包みを開け、百万円の札束を何度も数えてから、半分を内ポケットやら外ポケットに無理やりねじ込んだので、どこもポコンと膨らんだ。明日香に渡す分である。明日中に届けるつもりだ。彼女の喜んでる顔が目に浮かんできた。きっと帰してくれぬだろう。店を閉めたあとは、男と女の関係になるに違いないなどと、怪しからぬことを考えながらトイレから出た。五百万入りのスーツを自分でしまうと、居間にドッカリと座り込み、茶を入れている節子に「これを見ろ」と言いながら紙包みを開け、テーブルに札束を転がした。
「何、これ?」
ポカンと口を空けている。
「おれの金だ」
節子は銀行の窓口で庖丁を突きつけている一郎の姿を思い浮かべた。
「あなた、まさか!」
まさかの一種なのだが、一郎は悠然と否定した。
「やましい金じゃない。コンサルタントの契約金だ」
「コンサルタント?」
「庶民感情コンサルタントだ」
「何それ?」
「政治家とか、大企業の社長は我々のような下々の考えに疎いため時に失敗をする。そうならないようアドバイスをするのさ」
「そんな仕事があるの、知らなかったわ」
ある訳ない。だが節子も大金を見て感覚が狂っていた。それにテスカトリポカが蒔いた種も、一郎ほどではないが多少飲み込んでいる。コンサルタントを必要としているのは二人の方であった。
「どんな会社なの?」
「会社じゃない。個人だ」
「個人?」
「刈谷首相だ」
「ウッソー!」
節子の腰は完全に抜けた。
「首相在職中、月四百万で契約した」
百万少なく言った。明日香に回すつもりだ。
首相の任期は三年、全部足すと一億四千万以上になる.節子は頭の中で将来の設計図を描いてみた。
夢にまで見たラーメン屋を開業できる。リゾートマンションも買える。いやいや、三年後に再選されたら、二億九千万近い額になる。そうなったら豪華客船で世界一周が出来る。おばあちゃんに金箔の車椅子を買ってあげられる。夢なら醒めねばいいと心から願った。一郎と殆ど同じ思考である。
銀行には明日行くことにし、今日は外に出ず夕飯は有り合わせのもので済ますことにした。支度が整ったのは七時過ぎ、戻ってから三時間ほどたっている。おばあちゃんは眠いらしくいくら呼んでも部屋から出て来ない。
「はい、おとうちゃん」
節子がいつになくやさしい声で、ビールを注いでくれたが、その後、テレビのチャンネルを変えた。
「駄目だよ。ニュースを聞かなくては」
「だって、いつもこれ見てるじゃない」
「おれは刈谷総理のコンサルタント。ニュースは必見だ」
「そうだったわね」
節子は国民放送に切り替えた。
一郎は自分が訴えられていないか、昨夜の血だらけ男がどうなったのか、それが気になっていた。
アナウンサーは人民党が民心党との連立を解消したことを伝えていた。刈谷総理が、トラカエレル総統は偉大な人物である。トナティウとは友好条約と相互防衛協定を結ぶと、人民党委員長に明言したためである。
人民党は独裁者を美化し追随する刈谷首相とは、断固戦うとの声明を発表した。
玄関のチャイムが鳴った。
「誰だろう?」
不安が走る。
インターホンで節子が聞いた。
「宅急便です」
「俺が出るよ」
一郎が玄関に行き、のぞき穴から廊下を見ると、宅配便の制服を着た男が荷物を持って立っている。ホッとして鍵を開けようとすると、タロウが足元に立ちはだかり「開けるな!」とでも言うように、一郎に向かって激しく吠えた。
タロウを無視してドアを開けた瞬間、数人の男が乱入してきた。スーツから豹模様のジャンパーに着替えたジャガーもいる。
「騒ぐな」
ジャガーの手には小型拳銃が光っていた。
一郎は両腕を二人の男に抱えられ、居間に連れ戻された。節子は恐怖のあまり声も出ない。タロウは吠えるのを忘れてブルブルと震えている。これはチワワの特徴でもある。
「写真を出してもらいましょうか、JCIAの旦那」
ジャガーが薄ら笑いを浮かべて言った。
「あ、あれは…… 他の者に預けてある」
「見え透いた嘘はいけませんよ。JCIAの旦那。あなたは途中何処にも寄らずに帰って来たじゃありませんか。そうだろう」
宅急便の制服を着た男に聞いた。
「はい。真っすぐです」
尾行されていたのだ。
「この家のどこかにあるのだろう。素直に渡せば命だけは助けてやる」
ジャガーが凄みを利かせた。
「渡すものか、渡したら直ぐにズドンだろう」
一郎は精一杯虚勢を張って言ったが、ジャガーの目から笑いが消えた。
「俺は気が短い。それに首相の傍を長い時間離れていられないのだ。写真はどこにある?」
「絶対に言わん」
「では聞かぬ。我々で探すことにしよう。テレビのボリュームを上げろ」
部下の一人が、「はい」と答えて音量を上げた瞬間、ジャガーの拳銃が続けて二発火を吹き一郎と節子はその場にどっと倒れた。即死である。
部下たちは唖然として顔を見合わせた。
「おれは生憎人間じゃないのでね。人間の感覚でものを言っても通じないのだ。許してくれ」
銃口から立ち昇る硝煙をフッと吹いた。
テレビには“スナックママ逮捕。息子が難病と偽って、かつての同級生から詐欺”というテロップに続いて、明日香の顔が大きく写し出されていた。
衣類に写真は入っていない。手分けして探すことになり、ジャガーは宅急便を引き連れて奥の部屋に行った。
“おばあちゃんがいる!”
それまで呆然としていたタロウは我に返り、後を追った。
宅急便が襖を開けると、ベッドに横になっていたおばあちゃんがニッコリ笑って言った。
「お邪魔してます」
驚いたのは宅急便である。
「な、何だ!」
「迎えの者が来たら一緒に帰ります」
おばあちゃんは相変わらずニコニコしている。
「どうします?」
宅急便がジャガーに尋ねた。
「ボケてるのだ。何も分らん、ほっておけ」
「探し物ですか、私も手伝いましょう」
おばあちゃんは上半身を起こした。
「いいよ、寝てなさい」
宅急便が慌てて言った。
「何をお探しで?」
「写真だよ。おばあちゃん」
ジャガーが答えた。
「写真ですか。それならここですよ」
「ここ?」
「ほらね」
ベッドに備え付けの引き出しから、古いアルバムを取り出した。
「私の結婚式の時の写真ですよ。あなたも来てくれましたね」
アルバムをめくりながら、宅急便に言った。
「いや、俺は行ってないよ」
「嫌ですねえ。お忘れですか。もうボケが始まったのですね」
ジャガーが「おまえは探さなくともいい。相手をしてろ」と笑いながら言うと宅急便は頭を掻いた。
「元はと言えば、私が原因ですから……」
昨夜彼は一万八千三号の見張りをしていたが、いつの間にか居眠りをしてしまい、物音で目を覚ますと、縄を解き、逃げ出す寸前であった。
宅急便はナイフを翳し立ちはだかった。
「おとなしくしろ。逃げると刺すぞ!」
だが一万八千三号はたじろがない。「ウォー!」と叫ぶや、体当たりしてきて格闘となり、宅急便は押さえ込まれながらも腹を刺したが、同時に花瓶で殴られ気絶してしまった。
駆けつけたジャガーに、ヤキをタップリと入れられたことは言うまでもない。
「初めて人を刺した感触はどうだった」
ジャガーが尋ねた。
「無我夢中で何も覚えていません」
「そのうち慣れる」
「出来ることなら殺人(コロシ)は……」
「誰だってしたかないさ。お前が悪いのじゃない。分身の役目を忘れた一万八千三号が悪いのだ。クヨクヨするな」
タロウは一万八千三号を頭の中にインプットした。
「忘れちゃいけませんよ。忘れられるというのは寂しいものです」
おばあちゃんの言葉にジャガーが頷きながら言った。
「そうだよね、おばあちゃん」
一千万円は戻ったが、写真はどこを探しても見つからない。
ジャガーが時計を見て言った。
「そろそろ帰らねばな。代表幹事の宅間とやらが、総理の真意を聞きたいと言って、又やって来る。今夜あたり鼻薬を渡してイエスマンにしておかねば民心党が分裂しかねない」
「ジャガー様だけ、先にお帰りになられたら如何でしょう。後は我々がやります」
ボディガードが言った。
「車がない、電車は嫌いだ」
「ここのを使ったらどうですか」
ジャガーはそれで気がついた。
「そうだ! 車の中かもしれん。探して来い」
ボディガードと宅急便に言った。それまで様子を見ていたタロウの頭の中に、瞬間あることが閃き、宅急便がドアを開けるのと一緒に外に出た。後ろからついて来るタロウを見てボディガードが言った。
「やけに人懐っこい犬だな。これじゃ番犬にならん」
だから跳梁跋扈していられるのだ。
宅急便が「ジャガー様って、案外優しいのですね。見直しましたよ」と言ったが、ボディガードは「あの人には血も涙もあるものか」と吐き出すように否定した。
「でも、おばあちゃんには親切でしたよ」
「ああ、婆さんね。婆さんは別だ」
「どうしてです?」
「大分以前に腰の曲がった婆さんが道路を渡りたくても渡れないで困っているのを、車の中から見たことがあるのだが、乗っている車を止めさせたばかりか、わざわざ降りて行き、反対側の車もストップさせ、手を引いて向こう側に連れて行ったことがあったよ。その時、おれが言ったのだ。ジャガー様は心優しい人なのですねと」
「何て答えました」
「ちょっとテレながらこう言った。おれたちの父親はテスカトリポカ様だ。分身たちは兄弟だ。鏡から生まれたことさえ言わなければ結婚は無理でも、恋人ぐらいは出来る。しかし母親だけはどんなことをしても出来ない。分身にはオフクロと呼べる人はいない。だから自分のオフクロぐらいの人は大事にするのだと。親孝行の真似事だな」
ジャガーは見たくれは四十代だが、本当の歳は千代である。
「いいとこあるじゃないですか」
宅急便は昨夜ジャガーから散々な目にあったことを忘れて言った。
地下駐車場は薄暗いながらも灯りがついており、人の出入りもある。余り派手に探すわけにはいかない。初めにシートの上やボード、小物入れなどを調べたが、何も出て来なかった。
タロウは運転席の下に注目していた。前方からなら今でも潜り込めるのだが、それだと道が片方しかない。前後どちらからでも行けるようになるのを待っていた。
運転席の背もたれの下にクルクルと巻かれた足拭きマットが置かれている。運転中にタロウが潜り込んで、前方に来ないための防護壁である。
宅急便がそのマットをどかしたのを見て、タロウは運転席の下に潜り込んだ。二人共犬のことなど気にしていない。タロウは腹ばいになり座席の底を見上げた。チワワだから出来る芸当である。思ったとおり写真が一枚セロテープで貼り付けられていた。
表面と違い人目に触れぬ底はデコボコなので、テープはきちんと密着しておらず、ところどころに空間が出来ている。タロウはその空間に歯をねじ込んで写真を引き剥がした。幸いにして二人共後ろにいる。写真を咥えて前側から外へ出ると一気に階段を駆け上がった。
写真を身体の下に隠し、玄関付近で待つことしばし、二人が戻って来てドアを開けると、タロウは写真を咥え素早く自分のハウスに飛び込んだ。せっかく貯めこんだ一郎の靴下も,節子のブラジャーも、片一方だけのスリッパも、何もかも外に出ている。タロウの塒までも調べたのだ。逆に言えば、もうハウスの中を探すことはない。写真を明かりの届かない一番奥に置いてから外に出て、一味の様子を伺った。
手下たちはあちこち探しまわっているが、ジャガーはダイニングの椅子に座り、悠然とタバコを吸っている。
居間の中央に布団袋が二つ無造作に置いてある、駐車場に行く前はなかったものだ。あの中に自分を我が子のように可愛がってくれたおとうちゃんとおかあちゃんが眠っているのかと思うと、タロウはたまらなく悲しくなってきた。四十数年間愚直に生きて来ながら、ふと出来た心の隙に、魔がさした結果がこれである。
人々の間に欲望・敵意・不和の種を蒔くテスカトリポカは心の中にも住みつくのだ。
「そろそろ引き揚げようか」
ジャガーが言った。
「写真は?」
ボディガードが尋ねた。
「諦めよう。写真を見ても、大概の者は総理と結び付けたりはしない。それに明日、首相権限が刈谷に移譲されれば警察も思うがままだ。もし、又同じようなのが現われたら今度はブタ箱にぶちこんでやる」
「マスコミに持ちこまれたら?」
「その会社ごと潰してやるまでだ。余り小さなことを気にしてもしょうがあるまい。我々が目指しているのはこの世を破壊すること。それも直ぐそこまで迫っている」
と言ってから、ジャガーは不気味な笑みを浮かべたが、それはおばあちゃんに見せた笑顔とは、まったく異質なものであった。
「そうだ。百万だけ置いとけ」
金を預けたボディガードに言った。
「ボケてるから、使い方分りませんよ」
「息子と嫁を奪った侘びの印だ」
悪魔の使者たちは、タバコの匂いと微かな血痕だけを残して去って行った。
「あんた、転んだのは嘘で本当は殴られたか、蹴られたかしたのでしょ。警察に訴えたら……」
医師は脂肪のかなりついた胸に、幅の広い布製のバンドを巻きながらぞんざいに言った。患者は一万八千三号である。
「いえ、本当に酔って転んだのです」
医師は渋面を作った。
「先日は腰。その前は肘。更にその前は顔面。今度は肋骨骨折ときたもんだ。いくら酔ったとは言え、月に四度も怪我する間抜けはいないよ。次は病院の方で届けるからね」
「はあ、ところで先生、痛いのはもう少し上なのですが……」
「それならそうと早く言ってよ]
乱暴にバンドを剥がし巻き直した。
「これでいいだろ」
医師の目は既に次のカルテに移っており、厚化粧をした看護師が「お大事に」と機械的に言いながら、とっとと出て行けと言わんばかりにドアを開けた。
次回は他の病院に行こうと思いながら、一万八千三号は待合室の椅子に腰を降ろし、内向的に怒りを爆発させていた。
患者がいるから飯が食べられるのに、何様みたいに偉そうな顔をした不愉快な医者である。脱税か、医療事故で逮捕されれば良いのにと心から呪った。
偉そうと言えば、あのジャガーだ。自分はテスカトリポカに仕えているのであって、ジャガーではない。なのに直ぐに暴力を振るう。今回の肋骨骨折も蹴られたためだ。そうでなくとも十日ほど前に階段から落ち、その時打った腰が未だに痛い。
トナティウでは警備兵だったが、些細なことでも、上官にいちいち伺いを立ててから動かねばならない生活に飽き飽きしていた、そんな時、日本に行くようにとの命令を受け、嬉々としてやって来たのだが、とんでもないのが待っていた。こんなことならトナティウにいた方がはるかにましである。ジャガーの顔を見るのもいやだ。日本における工作が失敗して、カラスの餌になれば、どんなにスカッとすることだろう……。
一万八千三号が過ぎたことをクヨクヨ思いながら薬を待っていると、ピーポーピーポーという救急車のサイレンが近づき、病院の前でピタリと止まった。
厚化粧の看護師が出て来て、緊急用のドアを開けると、あまり広くない待合室の中に緊張の糸がピーンと張り、ストレッチャーで患者が搬送されてきた。意識はないようだ。酸素吸入をしている。
先程の医師が診察室から出てきた。
「血圧は、…… 脈は、…… 体温は?」
救急隊員に質問する口調は探求者のそれで,一万八千三号に対応していた時のような傲慢さは微塵もない。
「オペの準備だ。いいね」
「はい!」
厚化粧が大きく頷く。
「先生、助けてください! お願いします!」
患者の妻であろう。中年の夫人が縋るように言うと、医師は「全力を尽くします」と力強く答え、ストレッチャーと共に手術室に向かった。
一つの命を助けるために、医師、看護師、救急隊員など大勢の人々が動いている。一万八千三号はちょっぴり感動を覚えた。
待合室には様々な人がいる。松葉杖を突いてる若者は交通事故だろうか? 単車にでも乗っていたのであろう。ファション雑誌から抜け出たような恋人が荷物を持ち付き添っている。似合いのカップルだ。
小学生の女の子がゼイゼイと喘いでいる。喘息であろう。見るからに苦しそうだ。母親が少しでも苦痛を和らげようと、懸命に背中をさすっている。
車椅子に乗っているのはおばあちゃん。押しているのはおじいちゃんだ。何十年もこうして助け合って来たのだろう。死ぬ時は一緒にと思っているかもしれない。
退院する患者とその家族たちが見送りの看護師に何度も頭を下げている。久々に我が家へ帰れる喜びで笑顔が弾けている。
そんな光景を見ているうちに一万八千三号は底知れぬ寂寥感に襲われていた。
“人間には支えてくれる人がいる。人は人を支えようとしている。だが、おれには……おれは…… おれは人間ではない。鏡から生まれた分身。分身には支える人も支えてくれる人もいない。テスカトリポカの命令通りに動くだけ……。
人間は家族や恋人のために生きている。会ったことも見たこともない人の為にも生きている。それなのにおれはこの世を破壊するためにだけ存在している。何故、破壊しなければならないのだ。皆、一所懸命生きているじゃないか、なのに何故?”
人間ではないのに、人間のように悩んでいる一万八千三号の耳に可愛い声が聞こえた。
「おじちゃん、痛い?」
見ると、三歳くらいの女の子が直ぐ前に来て顔を覗きこんでいる。
「少しね」
一万八千三号は微笑んだ。
「みっちゃんがおまじないしてあげる」
みっちゃんは一万八千三号の真っ黒に変色している瞼の上に小さな指を置いた。
「痛いの痛いの、飛んでけー!」
顔を覗き込み再び尋ねた。
「痛くなくなった?」
「うん、痛いの飛んでっちゃったよ。ありがとうね」
「良かった」
みっちゃんは嬉しそうに笑った。邪気のない笑顔である。一万八千三号は彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。
「みっちゃん、帰りましょう」
みっちゃんは母親の元に戻って行ったが、一万八千三号は後ろ姿を見ながら、もしこの世を破壊したら、あの子も……。と考えて愕然とした。
“そんな権利がおれにあるのだろうか?”
一万八千三号は駅の階段を、足を引きずりながら上がっていた。アナウンスが電車が間もなく到着することを伝えている。
ようやくホームに辿りつき一息つこうとした瞬間、階段を駆け上がって来た若い男とぶつかりそうになった。男は一万八千三号を辛うじて避けたが、その先に立っていた女の子は小さすぎて、視界に入っていなかったのであろう。もろに衝突し、弾き飛ばされた女の子は、アッ!と言う間もなく線路に転落した。
「みっちゃん!」
売店で買い物をしていた母親の悲鳴と女の子の泣き声が響いた。病院で出会ったみっちゃんだ。その時、電車が轟音と共に突入してきた。
我を忘れて線路に飛び降りた一万八千三号がみっちゃんを素早く抱き起こし、ホームにいた人に手渡したが、足を痛めているため自身が上がる力が無い。獲物を狙う怪獣さながらに電車が襲いかかって来る。間一髪でホーム下の溝に飛び込み、電車は急ブレーキをかけながら止まったが、そこは一万八千三号がもぐった地点をかなり過ぎていた。
電車がのろのろと前に進み、空間がある連結部分から一万八千三号が駅員に助けられながらホームによじ昇ると、周りにいた乗客から一斉に拍手が起き、泣きじゃくるみっちゃんを抱いた母親が「命の恩人です。有難うございます」と言って涙ながらに頭を下げた。
一万八千三号は「お名前は?」と問う母親に「当たり前のことをしただけです」とだけ言って、みっちゃんのオデコに指を置き、「痛いの痛いの、飛んでけー」と言うと、クルリと背を向け、アジトとは反対方向の電車に乗ってしまった。人に感謝されるようなことをしたのは初めてである、照れくささが先に立ち逃げ出したのだ。
何度も頭を下げる母親と、笑顔で手を振るみっちゃんの姿が視界から消えたとたん、あちこちの痛みがぶり返してきた。
だが気分は爽快であった。人々の拍手と尊敬の眼差しが、耳と瞼に蘇って来る。
“命の恩人”
いい響きだ。
この世の破壊を目指すテスカトリポカの命令に従うことしか知らなかった自分が、あろうことか、人の命を助けてしまった。人の役に立ってしまった。気持ちが良い。みっちゃんの笑顔が浮かんで来る。
“テスカトリポカは間違っている”
一万八千三号は確信した。
この目で見、この肌で感じたことは自分自身で租借すべきで、テスカトリポカやジャガーの命令に唯々諾々と従うべきではない。
一万八千三号の中で何かが芽生えていた。
“ジャガーはドジばかりしている自分を今度失敗したら、トナティウに送り返すと言っていた。戻ればカラスの餌にされるだろう。それなら日本で死ぬのも同じことだ。拍手を送られなくてもいい。頭を下げてもらわなくてもいい。破壊からこの世を守るために生有る者のために生きてみたい。
人は正と邪を知っている。美と醜を知っている。愛と憎を知っている。そのくせ、右に揺れ、左に揺れている。その揺れを克服しながら出来るだけ真っ直ぐに生きようとしている。悩み傷つき生きている。それが人なのだ。人間なのだ。おれは人間になりたい。そのためにはどうすればいいのだ? そうだ! テスカトリポカの陰謀を暴いてやろう。悪魔がこの世の終わりを企んでいることを知らせよう。おれは人間になるのだ!”
一万八千三号が内向的に燃え上がっている間に次の駅も過ぎてしまい、帰り道は更に遠くなった。
「田中くん、ちょっとこっちへ」
まだ今日の業務報告も書き終えていないのに店長に呼ばれ、一郎は来るべきものが来たと覚悟を決めて立ち上がった。
教材会社に就職して半年。最初の三月は給与が保証されていた。次の三月は半分になり、残りは売り上げに応じた歩合になった。そして今度はフルコミッション。つまり基本給の一切ない出来高払いの歩合制を店長に言い渡された。一郎の腕では月に十万がやっとである。これでは食べていけない。早い話がクビだ。
だが一郎は慣れていた。これまでに何度となく繰り返されて来たことなのだ。
「分りました。それじゃ、今度の締めで辞めさせていただきます」
いとも簡単に言ったので、一郎の出方によりいろんなセリフを考えていた店長の方が腰砕けになった。
事務所を一人だけ早目に出たが、やはり気が重い。一旦電車に乗ったが途中で下車してしまった。一度だけ行ったことのあるスナックを覗いて見ようと思ったのだ。店は歩いて十分ほど。商店が途切れ、住宅街にかかる寂しい場所に場違いなネオンを灯して建っている。
ドアを開けると、和服のママが「あら、いらっしゃい」と笑顔で迎えてくれた。まだ六時を回ったばかりである。客は誰もいない。
「嬉しいわぁー 田中くんだけにはもう一度来てほしかったの。また来るって言ってたのに、あれっきり来ないからもう会えないのかと思ってたのよ」
「そんなオーバーな……」
「それがオーバーじゃないの。おビールでいい?」
注文を聞いてから続けた。
「会えなくなる前に、田中君が相談に乗ってくれたらなあと思うことがあるの。でも、こんなことはお客さんに言うことじゃないから……。おつまみ何にします?」
冷奴とアタリメを頼んだ。
「客と言ったって、明日香ちゃんとおれは同級生。他人行儀はよせよ」
「親しき仲にも礼儀ありよ。はい、どうぞ」
明日香はビールをグラスに注いだ。
「私も一杯もらっていい」
一郎が初めてここに来たのは一月前にあった中学クラス会の後である。三十人ほどが集まったが、その中に明日香もいた。子供の頃から妙に色気があり、クラスだけでなく他の組や上級生の男子からも注目を集めていた。四十半ばを迎え、大分くたびれてはいたが、後方に捲き上げた髪や、やや吊り上がった目などにまだ色香が残っている。その明日香が、「私の店にいらっしゃいよ」と一郎を含めた七人を二次会に誘ったのだ。皆、かつては彼女に密かな思いを抱いていた連中ばかりである。
数を限定したのは、止まり木が七つだったからだ。カウンターだけの小さな店である。一郎はあの夜、余り歓待されたとは言えない。中小企業ながら社長とか、一流企業の部課長になっている者にだけ、明日香はサービスを心がけていた。彼女以外にはホステスもいないため、モテなかった四人が別のグループのようになり、ビールの注ぎっこをした。だからもう行く気もなかった。
その気が変わったのは一人で赤提灯に行っても話し相手がいないのでは酒も美味くない。それでふと思い出し、ちっと愚痴を聞いてもらいたくなったからである。数日のうちに失業者になる運命が待っているので、ビール二本とつまみ少々。一時間前後で切り上げるつもりでいた。
「で、オーバーじゃないと言うのは?」
「隣に座ってもいい」
と言いながら、カウンターから出て来た。愚痴を言うつもりで来たのに、聞き役にされそうな雰囲気である。
「私一度結婚しているの」
当然であろう。驚くようなことではない。
「どんな人と?」
「勤めていた会社の社長の息子」
「玉の輿だったのだ」
「是非にというものだから……。でも私と生まれてまだ半年の息子を残して、僅か三年で死んでしまったの。交通事故でね」
「……」
こういう時は言葉が見つからない。
「悪い時には悪いことが重なるもので、義父がそのショックもあったのでしょう。脳梗塞で倒れ、会社も倒産してしまったの」
明日香の指が一郎の指に絡み、生暖かい体温が伝わって来た。
「私、子供を抱えて必死に働いたわ。その甲斐あって息子は昨年、東大の法学部にストレートで入学し,やっと苦労が報われたと思ったのも束の間、先月の初めに血を吐いて、倒れてしまったの」
「何で⁉……」
「多臓器出血性梗塞と言う病気で、一千万人に一人いるかいないかと言う難病なの」
初めて聞く病名である。
「治すには臓器移植しかない。一度に脳と心臓と肝臓を移植しなければならいの。手術が出来るのは世界中でただ一人、アメリカのステイン・フォード博士しかいないとお医者さんに言われたわ」
涙が一筋こぼれた。
「アメリカだと保険が利かないから、医療費だけで一億円を越えてしまうの」
明日香は握っていた指に力を込めた。
「せっかくローンを払い終えた自宅も、この店も担保に入れ、全ての貯金を解約しても一億には五百万届かなかったわ。でもほっておいたら三月の命。たった五百万がないために、息子を見捨てた母親になるくらいなら一緒に死のうと……」
明日香は一郎の胸に顔を埋めると、ワッ!とばかりに泣き伏したので、香水の匂いが一郎の鼻腔に広がった。
「いけないよ。死ぬなんて……。最後まで希望を捨ててはいけない」
「そんなこと言っても、お金が無かったら……」
「五百万でいいんだね」
「ええ」
明日香は顔を上げ、一郎の目を盗み見た。
「何とかなるかもしれない」
「田中くんがそんな…… 駄目よ。それに私、そんなつもりで……」
「出来るかどうかは分らない。しかし人一人の命に関わることだ。頑張ってみるよ。四、五日待ってくれ」
「す、すいません。恩に着ます」
「恩に着るなんて、同級生じゃないか」
「お金は必ず返します」
明日香は一郎の胸から顔を離して言った。
「あなたは初恋のヒ・ト」
目を閉じ、身体の力を抜いた。男殺しの見事なテクニックである。
一郎がドギマギしながらも、己の唇を明日香のそれに合わせようとした時、「来たよー!」という能天気な声と一緒にドアが開き、客が入って来た。
素早く体勢を立て直した明日香は鼻声を出した。
「あーら、ハーさん、いらっしゃい。お待ちしてたのよォ」
明日香がハーさんの相手をしている間、一郎は五百万の工面について考えていた。その場の雰囲気でなんとなく言ってしまったが、まるで当てがないことを言ったのではない。
先日、刈谷新首相の記者会見を聞いてから、ある空想が浮かんでいた。その空想を現実のものにすれば、五百万どころか治療費の全てに我が家のローン代、月々の生活費に遊興費、世界一周費だって入るかもしれない。いやいや、そんなスケールではない。相手は一国の首相。国家予算の百分の一くらいは取れる筈だ。
テスカトリポカが蒔いた種をたっぷりと吸い込んだ一郎の脳は、現実離れした欲望で際限もなく膨らみ始めていた。
それでも僅かに残っていた理性が働いた。
自分がしようとしていることは犯罪である。それも確証のないことをやろうとしているのだ。己の脳だけが勝手に思っていることで、単なる勘違いかもしれない。もしそうだったら刑務所にブチ込まれるだけで、何の利益ももたらさない。
“入れ替わっているという確かな証拠がほしい。そうすれば……”
アルコールを重ねながら考えているうちに、理性はいつしか消えていた。
スナックからそう離れていない一軒家の広間で、ジャガーを中心にした十人余の男たちがテーブルを囲んでいた。部屋の隅には、人間一人が寝れるようなボックスがまるで棺桶のように置かれていた。
ジャガーの左右には、昨夜岩手に上陸し、今朝東京に着いたばかりの十五号から十八号までの四人が座っている。刈谷首相ソックリの分身三千六号がほぼ真ん中で、末席は一万八千三号だ。用無しになった二千七百十五号たち三人は既に帰国している。
ジャガーは全員を見渡してから、おもむろに切り出した。
「この作戦は短期決戦だ。長引くと馬脚を現す。出来るだけ早い機会にトナテイゥと防衛協定を結ばせねばならぬ。それに向かって努力するように。働きがよければ、次に分身になる時は号数がずっと若くなるかもしれぬ。ところで三千六号、念のため言っておくが、刈谷夫人とは決してベッドを共にしてはならん。姥桜とは言え、なかなかの美貌。一夜を過ごしたいだろうが、関係まで持ったのでは見破られる恐れがある」
「迫られたら……」
「疲れているとでも言っておけ。苦労をかけるが、全てはおまえの出来次第だ。幸いにして、国会法の改正により、首相は秘書一人を伴い出席してもいいことになった。質疑の際には、おれが必ず横にいるので安心しろ。答える時は質問者だけでなく、一人でも多くの議員に催眠術が効くように努力しろ。それでも効かん連中には鼻薬を嗅がせてやる。この国の政治家にはこれが一番だ。金のためなら国でも家族でも平気で売るのがごまんといる」
と言ってニヤリと笑い更に続けた。
「ではそれぞれの役目を言い渡す。俺は第一秘書、十五号は第二。十六号は第三秘書。これまでの秘書は全員解雇した。おれがいつも傍にいれればいいのだが、そういうわけにもいかんので、十五号と十六号は常に首相の三千六号についているように。十七号はボディガード主任だ。警視庁からSPが派遣されているが、奴らを余り近づけるな。十八号は官邸には入らずここにいろ。トナティウとの連絡が主たる任務だ」
十七号は身長は無いが、鍛えられた筋肉の持ち主である。陰気な目で、下から人を舐めるようにして見上げる癖がある。ボディガードというより、殺し屋のような雰囲気である。巨人で海坊主のような十八号をジャガーは官邸には不似合いだと考え外したのだが、紳士然とした十五号や、生まれた時から秘書だと言っても通じそうな十六号も、良く見ると眼の光は十八人衆に共通した蛇のそれであり、一人として政治の中枢を司る館に相応しい者はいない。
ジャガーは一万八千三号を除く全員に役割を申し渡した。三人が秘書、五人がボディガード、残りはアジト在住である。
「私は何をするのでしょうか?」
一万八千三号が恐る恐る尋ねると、ジャガーはゆっくりと立ち上がり横に行き、
「録音係でもしてもらおうか」
と言いながら襟首を掴んだ。
「立て! 立つんだ!」
一万八千三号の目に怯えが走り、両腕で椅子の端を握って抵抗したが、ジャガーは片腕だけで引き剥がすようにして立ち上がらせると、もう一方の手を上着のポケットに入れた。
「何だ、これは?」
ポケットから手を抜き、鼻先に突きつけた。小型のボイスレコーダーを握っている。一万八千三号は顔色を失った。
「これを持って、警察にでも駆け込むつもりだったのか?」
言い終わると同時にジャガーの鉄拳が唸り、一万八千三号は壁まで吹っ飛んだ。
「住所や本名を聞かれたらどうする? 鏡から生まれましたので、戸籍はございませんとでも答えるか?」
容赦なく蹴り上げた。
「分身の役目はテスカトリポカ様の心を心とし、忠勤に励むことだ。それを裏切ったらどうなるか、分っているだろうな」
一万八千三号は顔を上げ、口から流れ出る血を拭いながら、ジャガーを見据えて言った。
「おれはもう分身じゃない。人間だ! おまえの命令など聞かぬ。この世の破壊に手は貸さぬ。殺すなら殺せ!」
「貴様ァ!」
ジャガーは怒り心頭に発した。手や足だけではなく、椅子まで使って、散々に殴打したが、一万八千三号が完全に気絶するまで誰一人として止めることが出来なかった。
「近々金の延べ板を運んで船が来る。それで送り返す。それまでフン縛っておけ。カラスの餌にしてやる。もし逃げようなどとしたら、これで殺ってしまえ」
バタフライナイフを取り出し、横にいた男に手渡した。
「田中くん、田中君。起きて……」
一郎は明日香の声で目を醒ました。いつの間にか眠ってしまったようだ。既に十一時を過ぎている。
明日香がそっとメモをよこした。
“今夜は奥さんの元に帰ってあげて。私は入院している息子のところに行きます”
一郎は立ち上がった。勘定はいらないと言うのかと期待したが、一万近くも払わされた。
「早く来て、待ってるわ」
耳元で囁いた明日香の言葉に、もう一度鼻の下を伸ばして外に出た。
僅か数歩歩いた時である。
「もっ、もし……」
と言う声がして、そちらを振り向くと男が一人、電柱の脇にうずくまっていた。脇腹から夥しい血が流れている。
「どうしました!」
「こ、これを警察に……」
上半身を伸ばして一枚の写真を差し出し、一郎が受け取ると同時に崩れ落ち、「お、おれは、人間に、な、なれた」と言って息絶えた。
闇の向こうから足音が聞こえる。一郎は足早に駅へ向かった。
(ニ) 恐 喝
まんじりともせずに夜明けを迎えた一郎はテレビの前に寝巻きのまま座り込み朝刊を広げた。
昨夜の男のことは社会面の下半分に載っていた。記事によると脇腹を刺され、あそこまで逃げて来たらしい。持っていた免許証は偽造されたもので、記されていた住所には該当する人物はおらず、某国の密入国斡旋組織「竜頭」と関わりがあるかもしれないと書かれていた。
テレビのニュースも顔写真が新聞よりはっきりしているくらいで、記事以上のことは何も言わなかった。
一郎はタロウを膝に乗せ、昨夜男から受け取った写真をあらためて眺め、「瓜二つだ」と呟いた。
トナティウの独裁者トラカエレルが護衛の士官を従え、閲兵しているものである。
日本にトラカエレルの映像が送られて来たのはこれまでに二度しかない。最初は国交断絶直後で、戸村博士に金蛇勲章を授与した時のものである。次に放映されたのは昨日のことで、子供たちから花束を受け取っていた。横に士官が一人いるだけで、兵士は間近におらず、山や川などと同じ単なる風景になっていた。だが一郎が見ている写真は整列した兵士たちがトラカエレルの直ぐ傍におり、一人ひとりの顔がはっきりと判別出来る。
「どうやって入れ替わったんだろう?」
又独り言を言った。
“マスコミで報じられていない写真を父ちゃんが何故?”
タロウは写っている全てを頭の中にインプットした。
「こんなに早くから起き出して何してるの?」
まだ寝ていた節子が布団の中から尋ねた。
「な、何でもない」
一郎は写真を隠しながらトナティウは三年前移民の申し込みをしたのに、返事がなしのつぶてであることを思い出していた。おばあちゃんが書類に旧姓を書いたのが原因だとは知る由もなく、あれ以来、余りいい感情を持っていない。そのトナティウが送り込んだ人物から金を巻き上げる。自分がしようとしていることが痛快なことに思えて来た。
テレビにクローズアップされた写真に興味を示した人物がもう一人いた。その名は政財官犯罪捜査庁捜査次官三田川智彦。次官と言っても四十を越えたばかりの少壮である。
“見たことがあるな。確か、あの時の……”
記憶の糸を辿っていた。
いつもより早めに家を出た三田川は庁舎に入ると、早速ファイルをめくって見た。やはりあった。間違いない。眼の周りが変色し唇がタラコのように腫れ上がってはいるが、同じ人物だ。写真は無人の赤外線カメラが撮ったもので、場所は東北道・岩手県平泉前沢のインターチェンジの入り口で、自動通過出来るETCでは無く、身体を伸ばして現金払いのカードを販売機から引き出している。日時はゴールデンウィーク最終日の午前零時すぎで車は七人乗りのRV。東京ナンバーだ。助手席と後部座席にも数人いるようだが顔は分からない。後部座席に赤いスーツのようなものを着ている人物がいるのが辛うじて分かるが性別は判断出来ない。
三田川は貧困家庭の出であった。町工場に勤めていた父親が、小学生の時に亡くなったため、母のパート収入と生活保護で中学高校と通ったが、成績はいつもトップだった。高三の時、担任に「おまえなら東大の医学部に入れる」と言われたが、その日暮しの家計はそれを許さなかった。母はかなり老いて来て、下に三人の弟妹がいたからである。仕方なく警察学校に入った。大卒だと六か月だが、高卒は十ヶ月学ばねばならない。
まだ十八歳の少年だった三田川は学校の成績は良くても、社会の仕組みには無知であった。警察とは実力次第、実績次第で昇進できる職業だと思っていたのだ。ところが実態は昇進試験を受けなければ上がれない制度になっている。捜査の神様だろうが、仏様だろうが、パスしなければ永久に巡査である。だが第一線の警察官には試験勉強をするようなゆとりは全くと言っていいほどない。それでも三田川は努力した。眠い目をこすり、疲れた身体に鞭打って勉強し、巡査部長、警部補、警部と昇進し、次は警視を狙う段階までとんとん拍子に進んだ。しかし警視になったらそれでおしまい。どんなに優れていようとも、そこから先は雲の上。東大卒で年に数人しかなれないキャリアたちだけの世界であった。
母親が他界し、弟妹たちも独立して、肩の荷が降りたせいもあり、何となくやる気をなくしていた時に政捜が生まれ、立案者である宝田が推薦してくれたお陰で、思いがけず捜査次官補の椅子を手にすることが出来た。宝田が署長時代に僅かな期間だが一緒に勤務したことがあり覚えていてくれたのだ。
就任直後に元総理の汚職事件を手がけ、その功労により次官に昇格したばかりか、マスコミに二十一世紀のスーパー刑事と持ち上げられ、端正な顔立ちと股下九十センチ近い足の長さが主婦層の人気を呼び、スターのような存在になった。飽きっぽいのは人の常で、一時ほどには騒がれなくなったが、未だに根強いファンがおり、政捜のホープであることに変わりはない。
もし政捜という組織が出来なかったら、田舎のお巡りさんで一生を終らなければならなかったであろう。今日の自分があるのは宝田のお陰である。三田川は宝田のためならどんなことでもするつもりであらゆることにアンテナを張っていた。
ある日、テレビで政治討論会を見ていたら、司会者が妙な質問をした。候補者全員が同乗したRV車が、宮城県の白石近くで事故渋滞にハマッているのを複数の視聴者が見たという。四人はいずれも否定したが、三田川は妙に気になり資料を集めておけば何かの役に立つかもしれぬと考え、エリアを広げ花巻以北の高速道路の料金所やサービスエリア、パーキングエリア、一般道に情報を送るよう依頼したところ、渋滞時間に現場付近を通過していた可能性のあるRV車の赤外線写真が五十枚程届いた。その中の一枚に、明らかに暴行を受けたと思われる顔が写っており記憶に残っていたのである。高速料金の支払いはETCがほとんどなので、ドライバーの顔が写っている記録は少ない。幸運であった。
首相になったとたん、刈谷の言動がおかしくなってきた。もしかしたら、この事件と関連があるかもしれぬ。三田川はそこまで考え、前沢のインターチェンジにその日を含め時間を問わず同じRVが最近通過していないかを問い合わせた所、その日の内に、前日の十三時に東北道から降りて来て、料金を払っている写真が送られて来た。昼間の写真である。助手席に豹模様と思われる上着を着た男がサングラスをかけて坐っている。後部座席には誰もいない。
四人の候補者そっくり男が乗っていたかもしれぬ車を運転していた男が殺された。普通の殺人事件ではない。政治家絡みかもしれぬ。出身地に近いので、土地カンもあるし、警察には知己も多い。あちらに行けば、何か情報が得られるかもしれない。
一張羅のスーツに着替えて玄関に降りた一郎に、タロウが吠えながら飛びつこうとしたが節子に後ろから抱き上げられた。
「駄目、おとうちゃんはお仕事!」
それでもタロウは首を伸ばして吠えまくった。
行ってはいけない。とんでもないことが起きる。犬の第六感である
一郎は例の新聞写真を切り取って内ポケットに入れている。だが二人共、普段とは違うタロウの鳴き声に気づいていなかった。
「職安、駐車場あるの?」
節子はハローワークに行くものと、勝手に決めつけている。
「そんな所には行かない。おれにぜひ来てほしいと言っている所があるので、条件を聞いてこようと思ってな」
「あなたに来てほしいですって?」
節子は信じられなかった。当然である。デタラメなのだから。
「おれも捨てたものじゃないだろ」
一郎は胸を張って言った。
「何を売るの? 布団、百科事典、コンドーム?」
「まあ、楽しみに待ってなさい」
あまり突っ込まれるとボロが出る。
「お帰りですか、お構いもしませんで、またお出かけください」
上はパジャマ。下は紙オムツ姿のおばあちゃんが顔を出して言った。
一郎は赤羽御殿と呼ばれている刈谷の私邸前まで来て驚いた。入り口には警官が四人も立ち、直ぐ横には機動隊を乗せた大型バスが駐車しており、記者やカメラマンがウロウロしている。
新聞を殆ど読まない一郎は知らなかったが、今日は政策協定を結び、刈谷の当選に一役買った人民党党首が来訪し、邸内で会談をしていたのである。
但し、前向きなものではない。当選後の刈谷の言動が、トナティウべったりとなりつつあるのを危惧して人民党の側から申し入れたもので、連立政権はご破算となり、民心党単独政権になる可能性が大であった。
一郎は気後れがして引き揚げようかと思ったが、明日香の顔が浮んできた。
“たった五百万足りないために息子を見捨てた母親になるくらいなら,一緒に死のうと……”
明日香の声が胸の奥で何度も谺し、それを聞いているうちに、何故か度胸が座って来た。
“行くぞっ!”
自分自身を叱咤して門前に車を進めた。
守衛の警官と記者数人が近寄ってきたが、記者たちは窓越しに一郎の服装を見て直ぐに離れた。
「どんなご用件ですか?」
警官が尋ねた。
「JCIAの者だ」
心臓がバクンバクンと音を立てている。
「JCIA?]
「シッ、大きな声で、記者に聞かれたらどうする! 警官なのに知らんのか。日本中央情報局の略だ」
渋面を作りながら、自分の顔写真が貼ってあるもっともらしい身分証明書を出し、素早く引っ込めた。来る途中、文房具屋で購入しデッチあげたものである。
「お約束は?」
「そんなものはない。緊急だ。トナティウに関する昨夜の件と言えば直ぐに分かる。日本の命運に関わることだ。急いでくれ!」
一郎はもう一度証明書をちらつかせた。
「くどいねえ。JCIAの山崎だ。総理に聞いてみたまえ」
「分りました。ちょっとお待ちください」
警官は早足で潜り戸の中に消えたが、それと同時に一郎の背中に冷や汗がどっと流れた。
誰も来ないまま時間だけが過ぎ、その間に二台の車が帰って行った。最初の車に乗っていた人民党委員長は口をへの字に結んでニコリともしなかった。次に出て来たのは刈谷に続く民心党のナンバー二である代表幹事の宅間で、薄笑いを浮かべていた。その度にフラッシュがたかれ記者たちが車を取り囲んだ。
「邪魔だな、こいつ」
一郎の車を見ながら記者の一人が言ったが、彼の存在に興味を示そうとはしなかった。
そしてまた時が過ぎ、それに比例するように不安が広がってきた。
自分が考えたように、刈谷は本当に偽者なのだろうか、もしそうだとしたら、家族が分かる筈だ。家族も偽者……。 いくら何でもそこまでソックリ人間を揃えるのは不可能だ。
もし本物だとしたら玄関払いをされるだろう。いや、それで済めばまだいい。逮捕されるかもしれない。それとも病院に送られるか……。
考えが、悪い方悪い方へと傾いて行く。
“今なら間に合う。いっそ逃げ出そうか”
そう思った時、潜り戸が開き、先程の警官と鋭い目をした男が、屈強なボディガード数人に囲まれて出て来た。
男はジャガー、いつものジャンパーではなく、茶のスーツを着ている。
記者たちの間にざわめきが起きた。
「第一秘書の和泉だ」
「知らないな」
「選挙が終ったら急に出て来たのだ」
「中之島さんは?」
「解雇だそうだ」
「何故?」
「トナティウに対する姿勢がおかしいと忠告したら、もう来なくていいとその場で言われたらしい」
「中之島さんだけじゃない。これまでの秘書は残らずクビになった」
一郎もジャガーを見て、彼らとは違った意味で驚いていた。
記者たちはジャガーの傍に行きたいのだが、ボディガードが作っている人間の垣根が邪魔で近づけない。ジャガーが一郎をチラリと見てから助手席に滑り込むと、ボディガードたちは車を背にして、ドアの前に立った。
「第一秘書の和泉と申します。トナティウに関する昨夜の事件とは、どのようなことですか?」
ゾッとするような低音である。一郎はせっかく引いた冷や汗が、また噴き出したのを覚えながらも「俺は刈谷総理に会いに来たのだ。あんたじゃない」と精一杯虚勢を張った。
「総理は多忙でお会い出来ません。代わりに私がお聞きします」
必要以上にイキがってもしょうがない。要は金になればいいのである。
「そうだな。役者不足だが、同じ写真に写っていることだし、お前に言おう」
「写真?」
「これだ。ほら、ここに写っている」
内ポケットから取り出し、トラカエレルの横にピタリとついている護衛の士官を指差した。
「これが私ですか?」
ジャガーはニヤリと笑った。
「端っこに写ってる兵隊が昨日殺された男で、トラカエレルと握手をしているのが刈谷首相の偽者、つまり、おまえの雇い主だ」
「ホオー、首相の偽者!」
「本物とは声が違う。おれの耳は微かな違いも見逃さない。黄金の耳だ」
「それは羨ましい。で、おいくらで買えばよろしいのですか?」
「取り敢えず一千万。後は毎月五百万だ」
「ローンですか?」
「そうじゃない。写真は売らん。売った瞬間、昨日の男のように殺されるに決まってるからな。誰にも分らぬ所に隠しておく。おれにもしものことがあったら、友人がマスコミに発表する」
「永遠に毟り取ろうという訳ですか」
「首相の間だけでいい。どうだ、安い取引だろう」
「ノーと言ったら?」
「今直ぐマスコミに喋ってやる」
一郎は顎で記者たちを示した。
「なーるほど。分りました。お支払いしましょう」
「今、この場で一千万くれ」
「報道陣の真ん前で! さすがはJCIA、いい度胸ですね」
「あとは毎月二十五日におれの方で取りに来る。だが暗い所や、人のいない場所では絶対に会わぬ」
長年の習性で、支払日は二十五日でないと落ち着かないのだ。
「おれの名も、おれの家も絶対に探すな。もし、そんなことをしたら、写真を……」
「分ってますよ。直ぐに持って来ますので、少々お待ちください」
ジャガーは悠然と去って行き、数分とたたぬうちにボディガードの一人が紙包みを持って来た。主任の十五号である。
中を見ると札束が十個確かに入っていた。
「和泉から交通事故に遭わぬよう、気をつけてお帰り下さいとの伝言です」
十五号は不気味な薄笑いを浮べ、一郎を嘗め回すように見てからドアを閉めた。
着ているワイシャツは再三にわたって吹き出した冷や汗でシャワーでも浴びたかのようにグショグショになっている。
節子は朝から大忙しであった。一郎が出た後、ベランダで洗濯物を干しながら窓越しに中を見ると、おばあちゃんがお尻を押さえてトイレに向かっている。昨夜の下剤が効いてきたのだ。ホッと胸を撫でおろした。一月ほど前からおばあちゃんは薬の世話にならないと出るものが出なくなってしまい、週に二回、下剤を飲ませている。だが必ずしも効くとは限らない。飲んでも出ない時は、お尻の穴に使い捨て手袋をした指を入れ、堅くなった便を掻き出さねばならぬ。どうやらその必要はなさそうだ。それどころか効きすぎた。やがて垂れ流しに近い状態となり、トイレに間に合わず、おむつ交換をすること十回以上。寝間着もすべて使い切ってしまい、節子は自分のパジャマを着せた。縦はそれほどでもないが、横がダブダブである。
一騒動だったが、三時を過ぎてようやく収まった。
「今日は疲れたでしょう」
おいしそうにメロンを食べているおばあちゃんに尋ねた。今度は脱水症状を起こさぬよう水分の補給をせねばならない。
「一生懸命働いたからね」
「おばあちゃん働いてたの。何をした?」
「何をしてたっけ? 忘れちゃったよ」
「いいわよ、忘れても」
「ところであなた様はどなた様ですか?」
「あなたの息子のお嫁様ですよ」
「うちの息子に嫁だなんて、冗談を。小学生に嫁だなんて。ホッホッホッホッ……」
おばあちゃんは嬉しそうに笑った。
「冗談じゃございませんよ。フッフッフッ……」
節子も笑顔を絶やさない。だが、心の中では泣いていた。泣きながら、いつか必ず来るその日まで、嫁として精一杯尽くそうと思っていた。そして、その日が一日でも遅いことを願っていた。
「ウッ!」
いきなり異様な臭いがして、節子は思わず鼻を押さえた。ウンチがまだ残っていたようだ。おばあちゃんを風呂場に連れて行き、オムツを脱がし、下半身を洗っているのをタロウがじっと眺めている。
おばあちゃんを自室のベッドに寝かせると、節子は家中の窓を全て開け、玄関のドアも開け放ち、臭いの追い出しにかかった。
そこへ物も言わずに紙包みを抱えた一郎が飛び込んで来て、せっかく開けたドアを閉めたばかりか、チェーンまでかけた。異臭はまだ漂っている。
「どうしたの?」
節子は驚いて尋ねた。
「窓を閉めろ。窓を!」
唖然としながらも、節子は言われたとおりにした。
タロウが寄ってきて一郎の足元にジャレついた。無事に戻ったのが嬉しいのだ。
「トイレ、トイレ。それから遊んであげる」
一郎はスーツを着たままトイレに入ると紙包みを開け、百万円の札束を何度も数えてから、半分を内ポケットやら外ポケットに無理やりねじ込んだので、どこもポコンと膨らんだ。明日香に渡す分である。明日中に届けるつもりだ。彼女の喜んでる顔が目に浮かんできた。きっと帰してくれぬだろう。店を閉めたあとは、男と女の関係になるに違いないなどと、怪しからぬことを考えながらトイレから出た。五百万入りのスーツを自分でしまうと、居間にドッカリと座り込み、茶を入れている節子に「これを見ろ」と言いながら紙包みを開け、テーブルに札束を転がした。
「何、これ?」
ポカンと口を空けている。
「おれの金だ」
節子は銀行の窓口で庖丁を突きつけている一郎の姿を思い浮かべた。
「あなた、まさか!」
まさかの一種なのだが、一郎は悠然と否定した。
「やましい金じゃない。コンサルタントの契約金だ」
「コンサルタント?」
「庶民感情コンサルタントだ」
「何それ?」
「政治家とか、大企業の社長は我々のような下々の考えに疎いため時に失敗をする。そうならないようアドバイスをするのさ」
「そんな仕事があるの、知らなかったわ」
ある訳ない。だが節子も大金を見て感覚が狂っていた。それにテスカトリポカが蒔いた種も、一郎ほどではないが多少飲み込んでいる。コンサルタントを必要としているのは二人の方であった。
「どんな会社なの?」
「会社じゃない。個人だ」
「個人?」
「刈谷首相だ」
「ウッソー!」
節子の腰は完全に抜けた。
「首相在職中、月四百万で契約した」
百万少なく言った。明日香に回すつもりだ。
首相の任期は三年、全部足すと一億四千万以上になる.節子は頭の中で将来の設計図を描いてみた。
夢にまで見たラーメン屋を開業できる。リゾートマンションも買える。いやいや、三年後に再選されたら、二億九千万近い額になる。そうなったら豪華客船で世界一周が出来る。おばあちゃんに金箔の車椅子を買ってあげられる。夢なら醒めねばいいと心から願った。一郎と殆ど同じ思考である。
銀行には明日行くことにし、今日は外に出ず夕飯は有り合わせのもので済ますことにした。支度が整ったのは七時過ぎ、戻ってから三時間ほどたっている。おばあちゃんは眠いらしくいくら呼んでも部屋から出て来ない。
「はい、おとうちゃん」
節子がいつになくやさしい声で、ビールを注いでくれたが、その後、テレビのチャンネルを変えた。
「駄目だよ。ニュースを聞かなくては」
「だって、いつもこれ見てるじゃない」
「おれは刈谷総理のコンサルタント。ニュースは必見だ」
「そうだったわね」
節子は国民放送に切り替えた。
一郎は自分が訴えられていないか、昨夜の血だらけ男がどうなったのか、それが気になっていた。
アナウンサーは人民党が民心党との連立を解消したことを伝えていた。刈谷総理が、トラカエレル総統は偉大な人物である。トナティウとは友好条約と相互防衛協定を結ぶと、人民党委員長に明言したためである。
人民党は独裁者を美化し追随する刈谷首相とは、断固戦うとの声明を発表した。
玄関のチャイムが鳴った。
「誰だろう?」
不安が走る。
インターホンで節子が聞いた。
「宅急便です」
「俺が出るよ」
一郎が玄関に行き、のぞき穴から廊下を見ると、宅配便の制服を着た男が荷物を持って立っている。ホッとして鍵を開けようとすると、タロウが足元に立ちはだかり「開けるな!」とでも言うように、一郎に向かって激しく吠えた。
タロウを無視してドアを開けた瞬間、数人の男が乱入してきた。スーツから豹模様のジャンパーに着替えたジャガーもいる。
「騒ぐな」
ジャガーの手には小型拳銃が光っていた。
一郎は両腕を二人の男に抱えられ、居間に連れ戻された。節子は恐怖のあまり声も出ない。タロウは吠えるのを忘れてブルブルと震えている。これはチワワの特徴でもある。
「写真を出してもらいましょうか、JCIAの旦那」
ジャガーが薄ら笑いを浮かべて言った。
「あ、あれは…… 他の者に預けてある」
「見え透いた嘘はいけませんよ。JCIAの旦那。あなたは途中何処にも寄らずに帰って来たじゃありませんか。そうだろう」
宅急便の制服を着た男に聞いた。
「はい。真っすぐです」
尾行されていたのだ。
「この家のどこかにあるのだろう。素直に渡せば命だけは助けてやる」
ジャガーが凄みを利かせた。
「渡すものか、渡したら直ぐにズドンだろう」
一郎は精一杯虚勢を張って言ったが、ジャガーの目から笑いが消えた。
「俺は気が短い。それに首相の傍を長い時間離れていられないのだ。写真はどこにある?」
「絶対に言わん」
「では聞かぬ。我々で探すことにしよう。テレビのボリュームを上げろ」
部下の一人が、「はい」と答えて音量を上げた瞬間、ジャガーの拳銃が続けて二発火を吹き一郎と節子はその場にどっと倒れた。即死である。
部下たちは唖然として顔を見合わせた。
「おれは生憎人間じゃないのでね。人間の感覚でものを言っても通じないのだ。許してくれ」
銃口から立ち昇る硝煙をフッと吹いた。
テレビには“スナックママ逮捕。息子が難病と偽って、かつての同級生から詐欺”というテロップに続いて、明日香の顔が大きく写し出されていた。
衣類に写真は入っていない。手分けして探すことになり、ジャガーは宅急便を引き連れて奥の部屋に行った。
“おばあちゃんがいる!”
それまで呆然としていたタロウは我に返り、後を追った。
宅急便が襖を開けると、ベッドに横になっていたおばあちゃんがニッコリ笑って言った。
「お邪魔してます」
驚いたのは宅急便である。
「な、何だ!」
「迎えの者が来たら一緒に帰ります」
おばあちゃんは相変わらずニコニコしている。
「どうします?」
宅急便がジャガーに尋ねた。
「ボケてるのだ。何も分らん、ほっておけ」
「探し物ですか、私も手伝いましょう」
おばあちゃんは上半身を起こした。
「いいよ、寝てなさい」
宅急便が慌てて言った。
「何をお探しで?」
「写真だよ。おばあちゃん」
ジャガーが答えた。
「写真ですか。それならここですよ」
「ここ?」
「ほらね」
ベッドに備え付けの引き出しから、古いアルバムを取り出した。
「私の結婚式の時の写真ですよ。あなたも来てくれましたね」
アルバムをめくりながら、宅急便に言った。
「いや、俺は行ってないよ」
「嫌ですねえ。お忘れですか。もうボケが始まったのですね」
ジャガーが「おまえは探さなくともいい。相手をしてろ」と笑いながら言うと宅急便は頭を掻いた。
「元はと言えば、私が原因ですから……」
昨夜彼は一万八千三号の見張りをしていたが、いつの間にか居眠りをしてしまい、物音で目を覚ますと、縄を解き、逃げ出す寸前であった。
宅急便はナイフを翳し立ちはだかった。
「おとなしくしろ。逃げると刺すぞ!」
だが一万八千三号はたじろがない。「ウォー!」と叫ぶや、体当たりしてきて格闘となり、宅急便は押さえ込まれながらも腹を刺したが、同時に花瓶で殴られ気絶してしまった。
駆けつけたジャガーに、ヤキをタップリと入れられたことは言うまでもない。
「初めて人を刺した感触はどうだった」
ジャガーが尋ねた。
「無我夢中で何も覚えていません」
「そのうち慣れる」
「出来ることなら殺人(コロシ)は……」
「誰だってしたかないさ。お前が悪いのじゃない。分身の役目を忘れた一万八千三号が悪いのだ。クヨクヨするな」
タロウは一万八千三号を頭の中にインプットした。
「忘れちゃいけませんよ。忘れられるというのは寂しいものです」
おばあちゃんの言葉にジャガーが頷きながら言った。
「そうだよね、おばあちゃん」
一千万円は戻ったが、写真はどこを探しても見つからない。
ジャガーが時計を見て言った。
「そろそろ帰らねばな。代表幹事の宅間とやらが、総理の真意を聞きたいと言って、又やって来る。今夜あたり鼻薬を渡してイエスマンにしておかねば民心党が分裂しかねない」
「ジャガー様だけ、先にお帰りになられたら如何でしょう。後は我々がやります」
ボディガードが言った。
「車がない、電車は嫌いだ」
「ここのを使ったらどうですか」
ジャガーはそれで気がついた。
「そうだ! 車の中かもしれん。探して来い」
ボディガードと宅急便に言った。それまで様子を見ていたタロウの頭の中に、瞬間あることが閃き、宅急便がドアを開けるのと一緒に外に出た。後ろからついて来るタロウを見てボディガードが言った。
「やけに人懐っこい犬だな。これじゃ番犬にならん」
だから跳梁跋扈していられるのだ。
宅急便が「ジャガー様って、案外優しいのですね。見直しましたよ」と言ったが、ボディガードは「あの人には血も涙もあるものか」と吐き出すように否定した。
「でも、おばあちゃんには親切でしたよ」
「ああ、婆さんね。婆さんは別だ」
「どうしてです?」
「大分以前に腰の曲がった婆さんが道路を渡りたくても渡れないで困っているのを、車の中から見たことがあるのだが、乗っている車を止めさせたばかりか、わざわざ降りて行き、反対側の車もストップさせ、手を引いて向こう側に連れて行ったことがあったよ。その時、おれが言ったのだ。ジャガー様は心優しい人なのですねと」
「何て答えました」
「ちょっとテレながらこう言った。おれたちの父親はテスカトリポカ様だ。分身たちは兄弟だ。鏡から生まれたことさえ言わなければ結婚は無理でも、恋人ぐらいは出来る。しかし母親だけはどんなことをしても出来ない。分身にはオフクロと呼べる人はいない。だから自分のオフクロぐらいの人は大事にするのだと。親孝行の真似事だな」
ジャガーは見たくれは四十代だが、本当の歳は千代である。
「いいとこあるじゃないですか」
宅急便は昨夜ジャガーから散々な目にあったことを忘れて言った。
地下駐車場は薄暗いながらも灯りがついており、人の出入りもある。余り派手に探すわけにはいかない。初めにシートの上やボード、小物入れなどを調べたが、何も出て来なかった。
タロウは運転席の下に注目していた。前方からなら今でも潜り込めるのだが、それだと道が片方しかない。前後どちらからでも行けるようになるのを待っていた。
運転席の背もたれの下にクルクルと巻かれた足拭きマットが置かれている。運転中にタロウが潜り込んで、前方に来ないための防護壁である。
宅急便がそのマットをどかしたのを見て、タロウは運転席の下に潜り込んだ。二人共犬のことなど気にしていない。タロウは腹ばいになり座席の底を見上げた。チワワだから出来る芸当である。思ったとおり写真が一枚セロテープで貼り付けられていた。
表面と違い人目に触れぬ底はデコボコなので、テープはきちんと密着しておらず、ところどころに空間が出来ている。タロウはその空間に歯をねじ込んで写真を引き剥がした。幸いにして二人共後ろにいる。写真を咥えて前側から外へ出ると一気に階段を駆け上がった。
写真を身体の下に隠し、玄関付近で待つことしばし、二人が戻って来てドアを開けると、タロウは写真を咥え素早く自分のハウスに飛び込んだ。せっかく貯めこんだ一郎の靴下も,節子のブラジャーも、片一方だけのスリッパも、何もかも外に出ている。タロウの塒までも調べたのだ。逆に言えば、もうハウスの中を探すことはない。写真を明かりの届かない一番奥に置いてから外に出て、一味の様子を伺った。
手下たちはあちこち探しまわっているが、ジャガーはダイニングの椅子に座り、悠然とタバコを吸っている。
居間の中央に布団袋が二つ無造作に置いてある、駐車場に行く前はなかったものだ。あの中に自分を我が子のように可愛がってくれたおとうちゃんとおかあちゃんが眠っているのかと思うと、タロウはたまらなく悲しくなってきた。四十数年間愚直に生きて来ながら、ふと出来た心の隙に、魔がさした結果がこれである。
人々の間に欲望・敵意・不和の種を蒔くテスカトリポカは心の中にも住みつくのだ。
「そろそろ引き揚げようか」
ジャガーが言った。
「写真は?」
ボディガードが尋ねた。
「諦めよう。写真を見ても、大概の者は総理と結び付けたりはしない。それに明日、首相権限が刈谷に移譲されれば警察も思うがままだ。もし、又同じようなのが現われたら今度はブタ箱にぶちこんでやる」
「マスコミに持ちこまれたら?」
「その会社ごと潰してやるまでだ。余り小さなことを気にしてもしょうがあるまい。我々が目指しているのはこの世を破壊すること。それも直ぐそこまで迫っている」
と言ってから、ジャガーは不気味な笑みを浮かべたが、それはおばあちゃんに見せた笑顔とは、まったく異質なものであった。
「そうだ。百万だけ置いとけ」
金を預けたボディガードに言った。
「ボケてるから、使い方分りませんよ」
「息子と嫁を奪った侘びの印だ」
悪魔の使者たちは、タバコの匂いと微かな血痕だけを残して去って行った。
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