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9 · 花火の後の道
しおりを挟むその夜、私たちは民宿を抜け出した。
唯一、最初から決めていた予定。
山奥の日帰り温泉。
行きはタクシーで。
帰りは拾えないと困るから、あらかじめ予約もした。
山道を揺られながら、
仁は窓に額をくっつけて、遠くで打ち上がる花火を眺めていた。
やっと、温泉に到着した。
夜だったから、富士山は見えなかった。
けれど、湯気の向こうに広がる闇は、
それだけでどこか神聖だった。
久しぶりに、二人で入るお風呂。
湯船の中で、仁が笑う。
肩まで浸かって、
「熱い」と言いながら、すぐまた入る。
私はその姿を、
目に焼きつけるように見ていた。
もう二度とないかもしれない。
それでも、
今は確かに母だった。
風呂から上がると、
予約していたタクシーが待っていた。
宿へ戻る途中、
二人とも急に空腹を思い出す。
バスの中でしか食べていなかった。
見つけたハンバーガーショップで車を止めてもらう。
テラス席に座る。
夜風が少し冷たい。
注文したハンバーガーを頬張りながら、
仁がぽつりと言った。
「仁くんね、実のところ、ママと暮らしたいの」
心臓が、強く波打つ。
「ママもだよ」
それは迷いのない本音だった。
仁は少しうつむき、
それから言った。
「でもね、ママと暮らしたら、パパは仁くんと会わないって言うんだ」
風が吹いた。
何とも虚しい風だった。
大人は勝手だ。
仁は、そう言いたげに
ハンバーガーの包み紙を折った。
花火大会は終わり、
出店は片づけを始めていた。
店員が近づいてくる。
「タクシー呼べますか」
「呼べません」
短く、冷たい返事。
私たちは歩くしかなかった。
湖畔の道は暗い。
頼りは、通り過ぎる車のヘッドライトだけ。
仁は少し前を歩き、
石を蹴りながら何か歌っていた。
その背中を見ながら、
私はポケットの中の携帯電話を握りしめた。
今しかない。
仁に気づかれないよう、
少しだけ距離をとる。
震える指で、前夫の番号を押した。
呼び出し音は、すぐに切れた。
「何やってるんだ!!
早く仁を連れてこい!!」
怒鳴り声。
それだけ言うと、電話は切られた。
私はすぐに掛け直した。
今度は、私が言う番だった。
「警察に通報しなさい」
一瞬の沈黙。
「……なに?」
「通報しなければ、仁を道連れにします」
自分でも驚くほど、
声は冷静だった。
それだけ言って、私は電話を切った。
手が、震えていた。
仁が振り返る。
「ママ?」
私は笑う。
「なんでもないよ」
でも、なんでもなくはなかった。
私は仁に会いたかった。
だが、それだけじゃない。
もう一つ、
やらなければならないことがある。
この山中湖旅行を、
ただの“母の逃避行”で終わらせないために。
私は、証明したかった。
あの人が、
本当に父親として正しいのかどうか。
そしてもう一つ。
私自身が、
どこまでやれるのかを。
湖面に風が走る。
仁は何も知らず、
私の手を握る。
その温もりが、
私をぎりぎりのところで繋ぎ止めていた。
歩いても、歩いても、
民宿は現れない。
不安が、足元から這い上がる。
私は民宿に電話をかけた。
「帰り道が分からなくなっちゃって」
受話器の向こうで、
おばさんが落ち着いた声で言う。
「湖畔を右手に見て、真っ直ぐ歩けば着くから」
真っ直ぐ。
それだけが頼り。
「なんだか道に迷わされてるみたいだね。ママ。」
仁の声が、少し震える。
私はその手を強く握った。
大丈夫。
大丈夫だよ。
自分にも、言い聞かせていた。
歌をうたい、
とりとめのない話をして、
不安を笑いに変えようとする。
やがて仁が言った。
「疲れた」
私はしゃがみ込み、背中を向ける。
「おいで」
仁の体重が、肩に乗る。
小さな腕が首に回る。
「大丈夫? 疲れてないの?」
背後からの気遣いに、胸が詰まる。
やっと、遠くに民宿の灯りが見えた。
私は仁を下ろす。
すると仁が、ぽつりと言った。
「ママ、普通おんぶされると楽でしょ。でも仁くん、疲れちゃったみたい」
私を気遣っていたのだ。
私達は1時間半も歩き続けていた。
宿に着いたのは、夜11時。
宿のおばさんが、階段に座り、待っていた。
「すみません。こんなに時間がかかるとは」
「もう、みんな寝てますから」
迷惑そうに言って、奥へ消えて行った。
私は舌を出して仁を見る。
仁も、にこっと笑う。
二階の部屋に戻ると、
虫かごの中でカブト虫が動いた。
「名前つけない?」
私が言うと、
「いいね」
仁が、答えた。
二人で考えて、
レオとレナ。
もう、12時近い。
仁は大人用の長い浴衣を引きずりながら、
一生懸命、話しかけてくる。
「男は力が強いけど、女は口が強い」
私は吹き出した。
布団を一枚敷き、
二人で横になる。
私は、仁を胸に引き寄せた。
ためらいはなかった。
「いいの?」
仁が小さく驚いた。
「もちろんだよ。まだ二年生になったばかりでしょ」
仁はうなずき、
小さな手で私の胸を包み込む。
そして、乳首に吸い付きながら、静かに眠りに落ちた。
規則正しい寝息。
私は涙が溢れ落ちない様に、天井を見つめた。
この瞬間は、
誰にも渡さない。
仁は、私が守る。
たとえその先に、
どんな朝が待っていようと。
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