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第五章
埋葬式4
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アドルフは壇上で沈黙を続けていたノインに呼びかけ、起立を求めた。
「さあ、お前の出番だ」
「…………」
彼女は無言で立ち上がった。覇気のある声もなければ凛々しい起立でもない。元従者の死を正面から受けとめ、塞ぎ込んだ様子のノインは、同じように感情を押し込めた顔でアドルフのほうを見た。その奥に眠る悲しみと怒りを引き出すべく、演説は佳境にさしかかる。
「ノインよ、答えて貰いたい。我らが属する連邦国家は魔人族による独裁制を敷いてきたが、その代償として繁栄を謳歌してきた過去がある。ところが亜人族が収容されておる間に景気は悪化の一途をたどり、いまや失業者の増大が危惧される始末だ。そのことについてどう思うか?」
アドルフの問いかけは勇ましいが、内容は単純だ。受け入れがたい現状を勢いよく〈拒否〉すればいいだけであった。
なのにノインは、ここで彼の願望に反することを言った。
「――べつに」
返事は、恐ろしくそっけなかった。ほとんど無視したのと変わらない。
「では、つぎの質問だ」
アドルフは気を取り直して咳払いをし、こう続ける。
「魔人族の支配によって忘れ去られてきたのは全体の幸福だ。富める者はより豊かとなれるかもしれんが、こぼれ落ちる者はより貧しくなる。本来だれもが輝けるはずの世界で幸福の量が等しく分配されておらん状況をお前はどう思うか?」
どう見ても許しがたい現状に〈拒絶〉を表明して欲しい。それがアドルフの企みであったが、段取りを失念したかのような反応をノインは示した。
「――べつに」
まただ。会話が噛み合ない。アドルフは不安を呼び覚まされ、続けざまに言った。
「我々が収容されておるあいだ、景気はつるべ落としのごとく地の底へ落ちた。それでも王統府を牛耳る魔人族は無為無策であった。そのことをどう考える?」
「べつに。仕方ないんじゃないかな」
彼はこのとき一瞬、自分がノインに何を期待したのか忘れそうになった。演説の論点や展開は全部頭に叩き込んであったが、感情のぶれがそれを妨げたのだ。
アドルフはノインが、元従者に人並みはずれた思い入れをもっていると思っていた。それゆえマクロを救えなかった後悔を打ち破り、精神の足枷から解放されたいと願っている、そんなふうに考えていた。
確かにノインは個人主義なところがあった。先日行った食堂での会話でも、彼女は魔人族と争うことに躊躇を見せ、優先すべきは生活基盤の安定、言い換えれば個人の幸福を大事にすることだと口にした。
しかしそれが、同胞意識を否定するものとまでは感じなかった。正確に言えば、筋金入りの国家主義者だったアドルフは、人は個人的利害を超え、全体の幸福を求める存在だという考えの持ち主である。そのため自分と同じ感情がわずかでもノインの心にも眠っていると決めつけていたのだ。
けれど段取りを無視したノインの反応を目の当たりにして、徐々に理解が追いついてくる。自分の認識は明らかな誤解だったのかもしれない。不満分子はフリーデではなくノインだった。つまりアドルフは、配慮をきかすべき相手を間違えてしまっていたのだ。
こうなると彼はギアを上げるしかない。彼女を口説き落とすことに猛然と意識を集中する。
「なぁ、ノインよ、思い出してほしい。魔人族は辺境でも豊かな土地、優れた産業を占有し、支配者ヅラしておる。お前の両親がそうだったように、他人種の富すら奪い、飽くことなく肥え太ろうともしてきた。勇敢なる開拓者であった辺境人を丸裸にするような所業。辺境はこの連邦を覆い尽くしている不調和の縮図に他ならん!」
思い返せば、第一次大戦後のワイマール共和国が、不当なヴェルサイユ体制を甘受したように、調和を失った仕組みがこの異世界を覆っているとアドルフは見なしていた。
同じ国家に属する限り、政治家も貧民も同じ権利を有するのが本来のあり方だ。しかし現実は魔人族が富と権力を牛耳り、残りの多数は生命さえ弄ばれる。
アドルフはそんな現実を隠すベールをはぎとりたい。現状は歪められているという事実に数多の民衆を覚醒させたい。もし同じ意識を共有していなかったのなら、真っ先にノインを目覚めさせたい。その滾るような一心で彼は喉を嗄しながら言った。
「不正に塗り固められた世界を直視し、いまこそ正しいことをする時だ。我は今回の喪主であるノインに、正当な訴えをする機会をつくってやりたいと思う。そしてそれを全力で支えたいと思う。受け入れてくれるか?」
干上がった地面に水を注ぎ込んだ気分だが、それは熱情をさます冷や水として頭上からざぶんと降ってきた。
「ねぇ、そんなことして意味あるの? あたし、全然後悔していないし、マクロの死も受け入れてる。あんたが言ってるの、空回りだよ。それに大変なのはみんな一緒だし」
あたしだけ特別なわけじゃない、と言い添え、ノインは小さく顔を伏せた。
雑然とした広場の空気が騒然としてくる。彼の念入りなプランでは、ノインは自責の念を魔人族にたいする怒りへ転嫁させ、あるべき世界の姿に気づくはずだった。
そういうと卑劣だが、アドルフは被害者意識を煽るのが得意だ。プロだといってもいい。だがこの噛み合なさはノインが魔人族は敵だと単純には見なさなかったことを意味する。
ひょっとして無力感に押し潰されてしまったのか。だから個人の幸福を追及することしかできないと、困難から逃げてしまったのか。空虚きわまるノインの反応は、そうと考えることなくしては理解の及ばぬものであった。
アドルフにはしかし、絶対的な手段があった。対立するヒト族すらも仲間の列に並べさせた魔法〈遵守〉をノインにたいして行使することである。
だが一瞬の迷いのなかで、アドルフはその選択を却下した。ほとんど無意識の選択として彼はノインの自由を奪うことを避けたのだ。
――こやつは情緒不安定になっているに過ぎん。闘争のレベルが上がって心の奥底に眠る本性が顔を出しておるのだ。無理もない、ここしばらくの変化はあまりに急だった。
そう、魔法が成立しないことを恐れたのではない。それ以上の何かが彼の詠唱を押し止めたのだ。
「なるほど。ノインは変革に意味はないと考える。そういうことだな?」
「何度も言わせないでよ。あたしたち個人の問題と亜人族とか全体の問題はべつだって言ってるの。この意味わからないの?」
ノインが口にしたのは、個人の問題は個人で解決すべきという、政治に興味をもたない学生が好んだ論法だ。むろんそれは、情緒不安定になった自分を隠す方便に過ぎない。
「いいであろ」
アドルフは論争的にはなじみ深い主張を受けとめ、ひと息吐いてから反撃をくわえた。
「その主張を半分は認めよう。けれどお前は、大変なのはみんな一緒だ、とも言ったな。だとすれば、お前個人は変革を信じなくても自由だが、この場におる諸君はどうであろ? 我の意見に賛同する者もきっとおるはずだ。お前はそれさえも、みんな一緒だと言って否定してしまうのかね?」
「そんなことまでは言ってない」
「よろしい、ならばこう言い換えよう。お前は自分を変える小さな変革は支持しながら、辺境の諸人種による大いなる変革の追求は否定しないということだな? それならそれで方針は変わってくるし、全体の問題に個人、つまりこの我が介入せねばならない時は必然訪れる。人々の意志を託された指導者の義務として」
ここまでアドルフは息詰まる論戦をノインとくり広げる形だったが、それを眺める聴衆は置いてきぼりを食らったわけではなかった。むしろ議論の激しさが増すにつれ、人々のしゃべり声があちこちで騒がしく聞こえた。どうやらアドルフの提示する世界観を受け止め、その是非についてべつの議論を交わしはじめていたように思われる。
たとえノインが反発してみせても、一度生み出された大きな流れは止まらなかったわけだ。彼女の示す無関心をよそに、聴衆は自分たちなりに議論を検討しながら、次第により広範な支持を形成しようとしているようだった。
その結果はすぐに明瞭となる。アドルフが求めているのは辺境に住む人々を含む全体の幸福だ、という考えが浸透したのだろう。ふいに聴衆の一部が彼にむけて指笛を鳴らした。その音はたちまち広場全体に伝播していき、聴衆の気持ちはアドルフ支持だと疑う余地がなくなった。
それでもノインは彼らの態度に眼をむけず、自分の考えをなおも強硬に押し出すのだった。
「アドルフのやろうとしているのは良いことなのかもしれない。だけどもう存在しないニミッツ家の事情に多くの人を巻き込むのは違うと思う。その気持ちは変わらないから」
感情を限界まで昂らせていたのか、ノインは言い終えると肩で大きく息を吸った。とはいえアドルフは、これ以上議論の余地はないと判じ、視線をノインからそらした。
演説の目的には優先順位がある。きっかけこそ元従者の賠償だが、それを通して全体の利益を追求する姿勢を示し、それをヒト族に信じさせること。くわえて彼らの支持を踏み台に、確実な味方を一〇人程度増やし、それを一種の支持基盤にすることが成功条件とアドルフは思っていた。
逆にいえば、それ以外のことは二の次である。ノインの説得は、当初の目的のうちに入ってすらいない。ゆえに心のわだかまりは残るが、ここは決然と前に進むべきときだった。
「ではこうしよう」
アドルフはすでに既定路線となっていた具体案を広場全体を見渡しながら提示する。
「我々は有志を募って上訴状を送りつけ、魔人族の統治機関、ビュクシに設置された行政府にしかるべき賠償を求める。そこで我らが辺境人マクロの命の対価を要求する。この任務は少数精鋭で執り行っていく。ノインはそのようなやり方を拒みはしたが、マクロの名誉の回復までは拒めないはずだ。我はお前を真に思えばこそ、このたびの行動を決断する。現実に立ち向かう辺境の者たちが妥協を知らぬ民であることを魔人族に理解させねばならない。その行動の成果でもって、本日ここに集まってくれた諸君らの弔意及び熱意に応えていくつもりだ、以上」
最後に拳を握り締めると、聴衆から喝采が巻き起こった。万雷の拍手を浴びながら、アドルフが壇上をおりていくと、ひと塊の聴衆が我先にアドルフのもとへ集まってきた。
「良いことをいってくれた」
「そういう言葉を聞きたかった」
「気持ちを代弁してくれてありがとう」
「死んだやつの仇をとってくれ」
口々に発せられるのは感謝と期待の台詞だ。むろんそれらは参列者のほんの一部ではあるが、「一匹のネズミを見たら一〇匹のネズミがいると思え」の格言どおり、熱意をぶつけてくる人間の向こうには同じ気持ちをもつ一〇倍、いやそれ以上の人々がいる。これは彼が前世の大衆煽動で学んだセオリーである。
民衆の多くは模様眺めで、結果待ちの、受動的存在だ。彼らを変えるには、現実を変えてやらねばならない。けれど初期に必要なのはひと握りの熱狂的支援者と、望ましき結果を期待する中間層だ。それらを掘り起こした感触は頼もしいほどあった。
したがってアドルフはトルナバの四〇〇人にみずからの意志を伝え、植えつけるという仕事に合格点をつけた。儀式はこれにてお開きで、残されたプログラムは式の後片付けと翌日の埋葬だ。遺体をおさめた棺を教会に預け、共同墓地に埋め、そこでようやく遺族のやるべきことはなくなる。数日の喪が明けたら、新たな戦いが幕を開ける。
残念ながらそれまでにつけるはずの道筋は、ノインの反対により全員一致を得られなかった。参列者を出口へと送り出す通路に立ち、求められる握手を返しながら、アドルフは密かに失望を隠せなかった。
ノインの抵抗はたとえ正論であったにしても、何もしないのは泣き寝入りと同じである。そんな容易いことをわからぬ彼女ではないと信じていたが、向けられた頑さに説得を逃した心残りは深い。
会場に残るのが関係者だけとなったとき、アドルフはもう一度ノインと話をしたかった。けれど彼女は、アドルフが近寄ると露骨にその体を避け、「あんた、あたしの気持ち、全然わかってない」と言い残し、憤然と広場の出口に向かって行ってしまった。
途方に暮れたくなるが焦っても仕方がない。不満に駆られる気持ちを抑え込んだアドルフは、大局的な勝利が不可欠との思いを胸に、広場を取り囲む照明を目に焼きつけた。
――ヒト族の支持が得られた以上、最初の壁は突破したも同然である。
このとき彼の頭に浮かんだのは、トルナバという町を完全に陥れるための策謀だ。
〈遵守〉の発揮する計り知れない魔導効果を思い知ったアドルフは、早速明日から次なる障壁をぶち破ってみせようと、ひとり静かな覚悟を固めていくのだった。
「さあ、お前の出番だ」
「…………」
彼女は無言で立ち上がった。覇気のある声もなければ凛々しい起立でもない。元従者の死を正面から受けとめ、塞ぎ込んだ様子のノインは、同じように感情を押し込めた顔でアドルフのほうを見た。その奥に眠る悲しみと怒りを引き出すべく、演説は佳境にさしかかる。
「ノインよ、答えて貰いたい。我らが属する連邦国家は魔人族による独裁制を敷いてきたが、その代償として繁栄を謳歌してきた過去がある。ところが亜人族が収容されておる間に景気は悪化の一途をたどり、いまや失業者の増大が危惧される始末だ。そのことについてどう思うか?」
アドルフの問いかけは勇ましいが、内容は単純だ。受け入れがたい現状を勢いよく〈拒否〉すればいいだけであった。
なのにノインは、ここで彼の願望に反することを言った。
「――べつに」
返事は、恐ろしくそっけなかった。ほとんど無視したのと変わらない。
「では、つぎの質問だ」
アドルフは気を取り直して咳払いをし、こう続ける。
「魔人族の支配によって忘れ去られてきたのは全体の幸福だ。富める者はより豊かとなれるかもしれんが、こぼれ落ちる者はより貧しくなる。本来だれもが輝けるはずの世界で幸福の量が等しく分配されておらん状況をお前はどう思うか?」
どう見ても許しがたい現状に〈拒絶〉を表明して欲しい。それがアドルフの企みであったが、段取りを失念したかのような反応をノインは示した。
「――べつに」
まただ。会話が噛み合ない。アドルフは不安を呼び覚まされ、続けざまに言った。
「我々が収容されておるあいだ、景気はつるべ落としのごとく地の底へ落ちた。それでも王統府を牛耳る魔人族は無為無策であった。そのことをどう考える?」
「べつに。仕方ないんじゃないかな」
彼はこのとき一瞬、自分がノインに何を期待したのか忘れそうになった。演説の論点や展開は全部頭に叩き込んであったが、感情のぶれがそれを妨げたのだ。
アドルフはノインが、元従者に人並みはずれた思い入れをもっていると思っていた。それゆえマクロを救えなかった後悔を打ち破り、精神の足枷から解放されたいと願っている、そんなふうに考えていた。
確かにノインは個人主義なところがあった。先日行った食堂での会話でも、彼女は魔人族と争うことに躊躇を見せ、優先すべきは生活基盤の安定、言い換えれば個人の幸福を大事にすることだと口にした。
しかしそれが、同胞意識を否定するものとまでは感じなかった。正確に言えば、筋金入りの国家主義者だったアドルフは、人は個人的利害を超え、全体の幸福を求める存在だという考えの持ち主である。そのため自分と同じ感情がわずかでもノインの心にも眠っていると決めつけていたのだ。
けれど段取りを無視したノインの反応を目の当たりにして、徐々に理解が追いついてくる。自分の認識は明らかな誤解だったのかもしれない。不満分子はフリーデではなくノインだった。つまりアドルフは、配慮をきかすべき相手を間違えてしまっていたのだ。
こうなると彼はギアを上げるしかない。彼女を口説き落とすことに猛然と意識を集中する。
「なぁ、ノインよ、思い出してほしい。魔人族は辺境でも豊かな土地、優れた産業を占有し、支配者ヅラしておる。お前の両親がそうだったように、他人種の富すら奪い、飽くことなく肥え太ろうともしてきた。勇敢なる開拓者であった辺境人を丸裸にするような所業。辺境はこの連邦を覆い尽くしている不調和の縮図に他ならん!」
思い返せば、第一次大戦後のワイマール共和国が、不当なヴェルサイユ体制を甘受したように、調和を失った仕組みがこの異世界を覆っているとアドルフは見なしていた。
同じ国家に属する限り、政治家も貧民も同じ権利を有するのが本来のあり方だ。しかし現実は魔人族が富と権力を牛耳り、残りの多数は生命さえ弄ばれる。
アドルフはそんな現実を隠すベールをはぎとりたい。現状は歪められているという事実に数多の民衆を覚醒させたい。もし同じ意識を共有していなかったのなら、真っ先にノインを目覚めさせたい。その滾るような一心で彼は喉を嗄しながら言った。
「不正に塗り固められた世界を直視し、いまこそ正しいことをする時だ。我は今回の喪主であるノインに、正当な訴えをする機会をつくってやりたいと思う。そしてそれを全力で支えたいと思う。受け入れてくれるか?」
干上がった地面に水を注ぎ込んだ気分だが、それは熱情をさます冷や水として頭上からざぶんと降ってきた。
「ねぇ、そんなことして意味あるの? あたし、全然後悔していないし、マクロの死も受け入れてる。あんたが言ってるの、空回りだよ。それに大変なのはみんな一緒だし」
あたしだけ特別なわけじゃない、と言い添え、ノインは小さく顔を伏せた。
雑然とした広場の空気が騒然としてくる。彼の念入りなプランでは、ノインは自責の念を魔人族にたいする怒りへ転嫁させ、あるべき世界の姿に気づくはずだった。
そういうと卑劣だが、アドルフは被害者意識を煽るのが得意だ。プロだといってもいい。だがこの噛み合なさはノインが魔人族は敵だと単純には見なさなかったことを意味する。
ひょっとして無力感に押し潰されてしまったのか。だから個人の幸福を追及することしかできないと、困難から逃げてしまったのか。空虚きわまるノインの反応は、そうと考えることなくしては理解の及ばぬものであった。
アドルフにはしかし、絶対的な手段があった。対立するヒト族すらも仲間の列に並べさせた魔法〈遵守〉をノインにたいして行使することである。
だが一瞬の迷いのなかで、アドルフはその選択を却下した。ほとんど無意識の選択として彼はノインの自由を奪うことを避けたのだ。
――こやつは情緒不安定になっているに過ぎん。闘争のレベルが上がって心の奥底に眠る本性が顔を出しておるのだ。無理もない、ここしばらくの変化はあまりに急だった。
そう、魔法が成立しないことを恐れたのではない。それ以上の何かが彼の詠唱を押し止めたのだ。
「なるほど。ノインは変革に意味はないと考える。そういうことだな?」
「何度も言わせないでよ。あたしたち個人の問題と亜人族とか全体の問題はべつだって言ってるの。この意味わからないの?」
ノインが口にしたのは、個人の問題は個人で解決すべきという、政治に興味をもたない学生が好んだ論法だ。むろんそれは、情緒不安定になった自分を隠す方便に過ぎない。
「いいであろ」
アドルフは論争的にはなじみ深い主張を受けとめ、ひと息吐いてから反撃をくわえた。
「その主張を半分は認めよう。けれどお前は、大変なのはみんな一緒だ、とも言ったな。だとすれば、お前個人は変革を信じなくても自由だが、この場におる諸君はどうであろ? 我の意見に賛同する者もきっとおるはずだ。お前はそれさえも、みんな一緒だと言って否定してしまうのかね?」
「そんなことまでは言ってない」
「よろしい、ならばこう言い換えよう。お前は自分を変える小さな変革は支持しながら、辺境の諸人種による大いなる変革の追求は否定しないということだな? それならそれで方針は変わってくるし、全体の問題に個人、つまりこの我が介入せねばならない時は必然訪れる。人々の意志を託された指導者の義務として」
ここまでアドルフは息詰まる論戦をノインとくり広げる形だったが、それを眺める聴衆は置いてきぼりを食らったわけではなかった。むしろ議論の激しさが増すにつれ、人々のしゃべり声があちこちで騒がしく聞こえた。どうやらアドルフの提示する世界観を受け止め、その是非についてべつの議論を交わしはじめていたように思われる。
たとえノインが反発してみせても、一度生み出された大きな流れは止まらなかったわけだ。彼女の示す無関心をよそに、聴衆は自分たちなりに議論を検討しながら、次第により広範な支持を形成しようとしているようだった。
その結果はすぐに明瞭となる。アドルフが求めているのは辺境に住む人々を含む全体の幸福だ、という考えが浸透したのだろう。ふいに聴衆の一部が彼にむけて指笛を鳴らした。その音はたちまち広場全体に伝播していき、聴衆の気持ちはアドルフ支持だと疑う余地がなくなった。
それでもノインは彼らの態度に眼をむけず、自分の考えをなおも強硬に押し出すのだった。
「アドルフのやろうとしているのは良いことなのかもしれない。だけどもう存在しないニミッツ家の事情に多くの人を巻き込むのは違うと思う。その気持ちは変わらないから」
感情を限界まで昂らせていたのか、ノインは言い終えると肩で大きく息を吸った。とはいえアドルフは、これ以上議論の余地はないと判じ、視線をノインからそらした。
演説の目的には優先順位がある。きっかけこそ元従者の賠償だが、それを通して全体の利益を追求する姿勢を示し、それをヒト族に信じさせること。くわえて彼らの支持を踏み台に、確実な味方を一〇人程度増やし、それを一種の支持基盤にすることが成功条件とアドルフは思っていた。
逆にいえば、それ以外のことは二の次である。ノインの説得は、当初の目的のうちに入ってすらいない。ゆえに心のわだかまりは残るが、ここは決然と前に進むべきときだった。
「ではこうしよう」
アドルフはすでに既定路線となっていた具体案を広場全体を見渡しながら提示する。
「我々は有志を募って上訴状を送りつけ、魔人族の統治機関、ビュクシに設置された行政府にしかるべき賠償を求める。そこで我らが辺境人マクロの命の対価を要求する。この任務は少数精鋭で執り行っていく。ノインはそのようなやり方を拒みはしたが、マクロの名誉の回復までは拒めないはずだ。我はお前を真に思えばこそ、このたびの行動を決断する。現実に立ち向かう辺境の者たちが妥協を知らぬ民であることを魔人族に理解させねばならない。その行動の成果でもって、本日ここに集まってくれた諸君らの弔意及び熱意に応えていくつもりだ、以上」
最後に拳を握り締めると、聴衆から喝采が巻き起こった。万雷の拍手を浴びながら、アドルフが壇上をおりていくと、ひと塊の聴衆が我先にアドルフのもとへ集まってきた。
「良いことをいってくれた」
「そういう言葉を聞きたかった」
「気持ちを代弁してくれてありがとう」
「死んだやつの仇をとってくれ」
口々に発せられるのは感謝と期待の台詞だ。むろんそれらは参列者のほんの一部ではあるが、「一匹のネズミを見たら一〇匹のネズミがいると思え」の格言どおり、熱意をぶつけてくる人間の向こうには同じ気持ちをもつ一〇倍、いやそれ以上の人々がいる。これは彼が前世の大衆煽動で学んだセオリーである。
民衆の多くは模様眺めで、結果待ちの、受動的存在だ。彼らを変えるには、現実を変えてやらねばならない。けれど初期に必要なのはひと握りの熱狂的支援者と、望ましき結果を期待する中間層だ。それらを掘り起こした感触は頼もしいほどあった。
したがってアドルフはトルナバの四〇〇人にみずからの意志を伝え、植えつけるという仕事に合格点をつけた。儀式はこれにてお開きで、残されたプログラムは式の後片付けと翌日の埋葬だ。遺体をおさめた棺を教会に預け、共同墓地に埋め、そこでようやく遺族のやるべきことはなくなる。数日の喪が明けたら、新たな戦いが幕を開ける。
残念ながらそれまでにつけるはずの道筋は、ノインの反対により全員一致を得られなかった。参列者を出口へと送り出す通路に立ち、求められる握手を返しながら、アドルフは密かに失望を隠せなかった。
ノインの抵抗はたとえ正論であったにしても、何もしないのは泣き寝入りと同じである。そんな容易いことをわからぬ彼女ではないと信じていたが、向けられた頑さに説得を逃した心残りは深い。
会場に残るのが関係者だけとなったとき、アドルフはもう一度ノインと話をしたかった。けれど彼女は、アドルフが近寄ると露骨にその体を避け、「あんた、あたしの気持ち、全然わかってない」と言い残し、憤然と広場の出口に向かって行ってしまった。
途方に暮れたくなるが焦っても仕方がない。不満に駆られる気持ちを抑え込んだアドルフは、大局的な勝利が不可欠との思いを胸に、広場を取り囲む照明を目に焼きつけた。
――ヒト族の支持が得られた以上、最初の壁は突破したも同然である。
このとき彼の頭に浮かんだのは、トルナバという町を完全に陥れるための策謀だ。
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