淫神の孕み贄

沖田弥子

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出立 1

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 召使いの捧げた柄杓を手にしたラシードは、水盆から水を掬い上げる。
 セナが両手を重ね合わせて掲げると、傾けた柄杓からそこに聖なる水が注がれた。
 掌に注がれた聖水を迷いなく飲み干す。
 すると、居並ぶ人々は一斉に平伏した。

「イルハーム神のご加護があらんことを」

 皆の唱和が蒼穹を突き抜ける。
 王が差し出した聖水をその身に取り込んだセナは、王命を聞き届ける責任を負ったのだ。
 この瞬間に、セナの地位は神の贄となった。
 豊穣と繁栄、そして快楽を司るイルハーム神の下僕として、神馬の儀において快楽を捧げなければならない。それは、淫紋を再び動かす任務を背負ったということだ。
 顔を上げたセナは、凜として宣言した。

「王命を承ります。イルハーム神に仕え、必ずや神馬の儀を遂行いたします」
「帰還した暁には、永遠なる神の末裔のつがいの地位を再び授ける。我が期待に応えよ。イルハーム神の加護は、そなたの頭上にある」
「御意にございます、我が王」

 セナが答えると、皆から拍手が湧いた。ラシードの傍らに控えた大神官と宰相のファルゼフは深く頭を下げる。
 祭典は無事に終了した。練習した台詞が上手く言えたことに、セナはほっと胸を撫で下ろして立ち上がる。
 門の外には馬車や馬たちが連なっている。出立の準備が始められ、辺りはにわかに騒がしくなった。見送りに訪れた騎士団の家族たちが、息子と別れを惜しんでいる。父母たちは一様に、誇らしい表情の息子の身を案じていた。
 その光景を目にしたセナは、無事に儀式を終え、晴れやかな顔で彼らとここに戻ってこようと固く決意する。
 ふと、ラシードに目を向ければ、心なしか彼の漆黒の瞳は沈んでいた。
 隣には、乳母に付き添われているアルとイスカが泣き出しそうな顔でセナを見つめている。

「アル……イスカ……」

 名を呼べば、アルとイスカは乳母の手を振り切って駆け出した。
 どしん、とセナにぶつかり、ぎゅうと抱きつく。

「うえぇ……かあさまぁ……」

 アルはもう泣き出していた。イスカもセナの胸に顔を埋めながら、掠れた声を絞り出す。

「おれはへいきだぞ! でも、かあさま、早く帰ってくるんだぞ!」

 子どもたちと別れるのは、胸を引き裂かれそうなほど辛い。
 たったの二週間程度だけれど、セナが子どもたちの傍を離れて遠くへ旅したことはないので、四歳のふたりにとっては初めての酷な経験といえた。
 けれどセナまで泣き出してしまったら、ふたりの哀しみはさらに増してしまうだろう。
 セナは小さな王子たちを、ぎゅっと抱きしめて、明るい声を出した。

「かあさまは、お役目を果たしたらすぐに帰ってくるんですよ。ふたりはラシードさまと一緒に、いい子にして待っていてくださいね」

 ぐすぐすと泣きじゃくりながらだけれど、ふたりは頷いてくれた。
 リガラ城砦へ赴くにあたって、ラシードは王宮に残るので安心だ。それにたくさんの召使いたちや乳母がいるので、王子たちの世話は任せておける。
 ふたりの乳母がやんわりと王子たちを、セナから離す。
 歩み寄ってきたラシードが、セナの手を掬い上げて立たせてくれた。

「あっ……」

 ふわりと、セナの体はラシードの胸に抱き込まれていた。
 寝室などではいつもセナを抱き竦めるラシードだけれど、公の場でこういった行為をするなんて。
 意外に思っていると、頤を掬い上げられて、くちづけられた。

「ん……ラシー……」

 出立前の賑わいの中で、そこだけが空間を切り取ったように静謐だった。
 王に愛される神の贄という絵画のような光景を目にした人々は言葉を失い、ただ眼前で繰り広げられる歴史の一幕を見つめた。 
 唇を離したラシードの漆黒の双眸が、間近に迫っている。
 兄さま……離れたくない……
 翡翠色の瞳に想いが込められてしまいそうで、セナは唇を震わせる。
 ふたりは熱を帯びた視線を絡ませ合う。

「そなたを愛している。たとえイルハーム神に身を捧げようとも、そなたは永久に私のつがいだ」
「はい……」
「王子たちのことは任せよ。儀式についてはファルゼフに一任している。ハリルもいることだ。彼らがそなたを守ってくれるだろう。そして、これも」

 ラシードは懐から首飾りのようなものを取り出した。
 鎖の付いたそれをセナの首に回す。

「これは……?」

 舞踏会で身につけた首飾りとは異なり、高価な宝玉などは飾られていない。代わりに白金の鎖の先端に付けられているのは、漆黒のペンダントトップだ。
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