肉食御曹司の独占愛で極甘懐妊しそうです

沖田弥子

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1巻

1-1

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    プロローグ 一つだけの願い事


 外資系ホテルの高階層にあるバーからは、きらめく夜景が見渡せる。
 甘いカクテルでほろ酔いになった私――吉岡よしおかさやかは、ほうと息をついた。
 臙脂えんじ色のソファの隣には、上司の久我凌河くがりょうがさんがロックグラスを傾けていた。
 仕事ができて、しかもイケメンの久我部長は、社長の息子――つまり御曹司でもある。仕事に厳しいところはあるけれど、いつも丁寧にフォローしてくれる。
 でも、仮に久我部長に言い寄られたとしても、恋はしない。
 私はとある理由で、恋愛と結婚への願望が抜け落ちているから。
 だけど、残りの願い――出産と子育てだけはどうしても叶えたかった。
 夜景に目を細めていた私に、久我部長がささやく。

「吉岡さんはとても仕事を頑張っているよね。そういう一生懸命な姿に惹かれたんだ」
「……仕事ですから、懸命にこなすのは当然です」

 少し酔った私は、ふわふわしながら返事をする。
 久我部長は妖艶ようえんな雰囲気をまとい、私を見つめた。

「ご褒美に、一つだけ願い事を叶えてあげよう」

 彼の魅力的な言葉が、脳内に染み込んでいく。
 一つだけ……一つだけなら、なんでも叶えてくれるの? 
 だとしたら、どうしても欲しいものがある。
 今の私が一人でどんなに頑張っても、得られないもの。
 久我部長を見ると、私たちの距離はとても近づいていて、キスできそうなほどだった。
 切れ長の双眸そうぼうが、私を覗き込む。
 ――まるで心の奥まで見透かされそう。
 息を吸い込んだ私は切なる願いを口にした。

「私に、あなたとの子どもをください!」




    一、肉食御曹司の甘い恋の罠


 給湯室に行こうとした私は、女性社員たちの華やかな声を耳にして、ぎくりと肩を強張らせる。
 ……まさか、あのことじゃないよね?
 誰かの彼氏自慢でありますように、と祈りながら給湯室のドアを開けると、数名の女性が雑談に花を咲かせていた。私はさりげなくその脇をすり抜ける。
 コーヒーをマグカップに注ごうとしたところで、同期の女性が、くるりとこちらを向いた。

「吉岡さんはどう? 今度の合コンに参加しない?」

 軽い調子で告げられたそれに、思わず頬を引きつらせる。
 彼女たちが話していたのは、私がもっとも遠ざけたい合コンのことであった。
 たまにこうして合コンの誘いをいただくのだが、あいにく一度も参加したことがない。

「そういうのにはあまり興味がなくて……」

 ぎこちなく笑みを浮かべて、私はやんわりと断りを入れる。
 すると、輪の中の一人が小首を傾げた。

「吉岡さん、もし彼氏がいても気にしなくていいと思うわよ? 黙ってればいいんだし」
「いえいえ、彼氏なんていませんよ」

 今まで生きてきた二十六年間、一度も恋人はできたことがない。しかも処女である。
 それならば、なおさら合コンでも行って相手を探すべきなのかもしれないが、とあるトラウマにより、恋愛と結婚に対する願望が抜け落ちている。それどころか男性との恋愛に不信感すらある。
 ただ会社ではそのことは誰にも話していないので、周囲は私を合コンに誘ってくれたりするのだ。
 そのとき、同僚の村木むらきさんが華やかな巻き毛を掻き上げ、楽しそうに言う。

「よしなさいよ。吉岡さんはきっとすごいハイスペックのイケメンと付き合ってるから、合コンに来る男なんて目に入らないのよ」

 村木さんの言葉のあと、あはは、と悪意まみれの笑いが起こった。
 私も一緒になって、あはは……と乾いた笑いをこぼす。
 美人ではない凡庸な私がハイスペックなイケメンと付き合えるわけがない、とわかっているからこそ、彼女たちは笑いものにしたのだ。
 だからと言って「いつかすごいイケメンをゲットしてやるんだからね!」などと奮起することはない。なにしろ恋愛への不信感でいっぱいなので。

「あ、あはは……それでは……」

 引きつった笑みを顔面に貼りつけたまま、私は手早くコーヒーを注いで給湯室を脱出した。


 デスクに戻り湯気の立ち上るマグカップを置いた私は、仕事を再開して目の前の作業に集中する。
 大手食品メーカーの商品企画部で働く、入社四年目の私は、シーズン毎の市場の動向や流行など様々な情報を分析して、新商品の企画やプレゼンをおこない、新しい食品を市場に生み出すのが主な仕事だ。
 そのほかにも、販売促進や宣伝方法などの販売戦略も平行して考えなければならない。
 クリエイティブで華やかな仕事と思われがちだが、市場調査や地道な企画立案など、地味な努力を積み重ねるのが実態だ。
 私は大学を卒業して、この業界に就職した。忙しい業界ではあるが、自分が企画に関わった商品がコンビニで売られているのを見たときは感激もひとしおである。
 今日も競合他社の動向についてネットで調べていると、フロアの向こうから低い声で呼ばれた。

「吉岡さん。ちょっと、いいかな」
「はい、なんでしょう。久我部長」

 すぐに立ち上がり、部長の席へ足を向ける。
 久我部長は半年前に昇進して、元いた地方の会社から、私が勤めている本社に勤務することになったエリートだ。
 二十九歳という若さで部長という役職に就いたのは、我が社の御曹司であることも加味されているだろう。
 初めこそ冷徹そうな部長に反発の声もあったけれど、仕事ができる上にリーダーシップもとれ、しかも次々と企画を会議で通しては新商品を市場に送り出す頼もしい姿に、社員たちは憧憬を込めて彼を見るようになった。
 なにより、部長はイケメンなのである。
 くっきりとした二重を描いた双眸そうぼうは切れ上がったまなじりが美麗で、すっと通った高い鼻梁、そして唇はやや薄くて形良く整っている。
 高身長で肩幅が広く、腰が細い。すらりとした足はモデル並みに長かった。
 そんな神が造形したかのような体躯を上質なスーツに包めば、美貌と貫禄が同居する神々しさがにじみ出る。
 その上、紳士的で、仕草に気品が満ちあふれていた。
 しかも低くて甘い美声である。女性社員は用もないのに話しかけては「用がないなら話しかけないでくれたまえ」と、部長の低い声音を聞き喜んでいる。
 独身で恋人もいないらしい……と給湯室では部長の話題でよく盛り上がっており、女性社員たちは虎視眈々こしたんたんと彼を射止めようと狙っているのだとか。
 私はそれらの話にはいっさい関わらないので、右から左に聞き流していたけれど。
 私にとって部長は、単に上司でしかない。
 上司として仕事の手腕に憧れはするけれど、別に恋愛としての憧れなんか……持ってはいない。
 だって恋愛不信なんだから。
 そんな私の心中など知らない部長は、デスクを挟んだ向かいにいる私に数枚の書類を差し出した。

「この企画書なんだが、もう少し練ってほしい」
「承知しました。具体的にはどの点を変更しましょうか?」

 そうたずねると、部長が綺麗な長い指で、すっと私を手招く。これは隣に来いという合図だ。
 書類をこちらに向けてくれれば済むのだが、どうやら同じ位置から説明したいらしい。
 仕方ないので私はデスクを回り込み、部長の隣に移動した。
 もちろん必要以上には近づかず、一定の距離を取る。

「ここなんだが、詰めが甘い。この説明ではどの顧客に向けての商品なのかがわかりにくい」
「なるほど……言われてみれば、その通りです」

 ところが、部長は書類を自身のほうに向けていた。距離をとっていることもあり、企画書の指摘箇所が見づらい。私は首を伸ばして、なんとか部長が指し示しているところを見ようとする。

「それから、ネーミングも。吉岡さんにしては安直だと思う」
「そうですか……」

 会話をするにつれ、書類がさらに私から遠ざかってしまう。私は懸命に今の場所から動かず、首を最大限に伸ばした。

「もっと冒険していいよ。特にこれなんか、他社の商品名を真似したのかと思われる」
「あの……すみません、久我部長」
「なにかな?」
「もう少し書類をこちらに向けていただいてもよろしいでしょうか。該当箇所がよく見えないので」
「きみがこちらに近寄ればいいだろう。なぜそんなに離れているんだい?」
「なぜと言われましても……」

 それならば、なぜそんなに書類を遠くに持って、しかもこちらに向けないのかと問いたい。
 とはいえそんなことを部長相手に言えるはずもなくまごついていると、椅子のキャスターを鳴らして、部長は私のすぐ傍に移動してきた。
 スカートに部長の長い足が触れそうな距離から真摯な双眸そうぼうで見上げられる。
 その澄みきった榛色はしばみいろの目に、心臓がどきりと跳ねる。

「仕事なんだから、きちんと聞いてほしいんだが」
「……申し訳ありません」

 今、どきっとしたのは、突然のことに驚いたからだ。そうに違いない。別に部長にときめいたりなんかしていない。
 平静を取り戻そうとしたけれど、なかなか胸の高鳴りは収まってくれない。
 少し部長の肩が動いて、私のカーディガンを揺らした。
 それだけのことなのに、くっと息を詰めてしまう。
 それからも少しだけ彼の説明は続いたが、やたらと長い時間に感じた。

「――以上だ。焦らなくていいので、もっと質を高めたものを見せてくれ」
「承知しました」

 ようやく説明が終わったので、私は心の中で安堵の息を吐いた。
 リテイクは残念だが、とにかくさっさと部長の傍から離れたい。
 部長が書類を渡そうとするので、私は彼の手に触れないよう、細心の注意を払って書類の上部を両手でまむ。妙な持ち方だというのは自覚している。
 だが私の作戦もむなしく、手を離した部長の指が私の手首に軽くぶつかった。その途端、触れた熱に私の心臓がまた強く跳ねる。

「ああ、失礼」
「いえ、すみません」

 私の頬が、かぁっと熱くなった。
 目を細めてそんな私を見た部長は、口角を上げてくすりと笑った。

「吉岡さんが妙な持ち方をするから」

 思わず私は頬を引きつらせた。
 ――私のせいですか!
 きっと私が慌てふためく姿を見て、楽しんでいるのだ。なんて意地悪な男なんだろう。
 書類を遠ざけたのも、渡すときにぶつかったのも、部長がわざとしたのかとも思えてきた。
 部署内での部長の人気は絶大だったが、こんなことが度々あって私は彼が苦手だった。リテイクとなった書類を手にして、心の中で溜息をつきつつデスクに戻る。
 企画書を完成させ企画を通すまでには、忍耐力が必要である。こんな意地悪な上司と付き合うのも、仕事のうちだ。
 はあ、と再び内心で溜息をついて資料の修正を始めようとしたそのとき、部長のデスクに電話が入った。
 受話器を手にした彼は珍しく喜びをあらわにして、目を輝かせている。

「そうか! それはすごい!」

 電話を終えた部長は、何事かと様子をうかがっている社員たちに笑みを見せた。

「みんな、喜んでくれ。我が商品企画部が生み出した『うんまいっ茶』が、今期の商品の中で最高の売上を記録した」

 室内に歓喜の声が響き渡る。
 あのペットボトル飲料の売り上げが好調だと把握はしていたけれど、まさかヒット商品になるとは思わなかった。
 次々に生み出される新商品の中で、ヒット商品になるものは一握りだ。
 ヒットを出したのは、やはり部長の手腕による結果だろう。
 彼の麗しい顔が、こちらに向いた。

「ネーミングは吉岡さんの発案だったな。会議では紛糾したが、あのネーミングにして当たりだったな」
「あ……そうでしたね。ヒットしてよかったです」

 そういえば、『うんまいっ茶』という名前は私が提出した案だった。ほかにも候補は多数あったのだが、最終的には部長が私の案を推してくれて、正式な商品名に決まったのだ。
 ただ、商品がヒットする要因はネーミングだけではなく、最終的には当然商品の味がよいことが大切だ。だから商品開発部の尽力があってこそだけれど、やはり自分の考えた商品名が埋もれることなくヒットしてくれたことは素直に嬉しい。

「今夜は祝賀会を開こう。終業後、いつもの居酒屋に集合してくれ」

 部長の台詞に歓喜の声が上がる。それに伴って私の気分も上昇した。
 ただ気になることがある。
 最近の会社の飲み会は、部長を狙う女性たちが彼の脇に陣取り、合コンの様相を呈している。あの華やかな雰囲気の中で放たれる女性たちの牽制がどうにも苦手だ。
 けれどせっかくの祝賀会なので、ぜひとも参加したい。しかも私がネーミングした商品を祝うためなのだから。
 もしかしたら、私が部長の隣に座ることになるかも……って、別にそんな期待はしていないけども!
 そう思っていたとき、村木さんが私のデスクへやってきた。彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げている。

「ごめんなさい、吉岡さん。開発部から調整してほしいって言われてた書類が間に合わなくて……。今日中に提出なんだけど、私、得意先から頼まれてる急ぎの仕事があるから、手伝ってもらえないかしら……?」
「わかりました。代わりにやっておきますよ」
「本当!? ありがとう。書類はこれだから、よろしくね」

 村木さんから渡された書類を一読する。
 今日中の提出だそうだが、けっこう時間がかかるかもしれない……
 だけど引き受けてしまったからには、「できません」と突っ返すわけにはいかない。村木さんも別の重要な仕事を抱えているようだし。
 私の企画書は今日中に修正する必要があるものではないのが幸いだ。
 それならば、まずは村木さんから頼まれた書類を完成させるのがいいだろう。
 私はすぐに開発部に連絡を取って、微調整が必要な箇所を確認しつつ、ひたすらパソコンでデータを修正していく。
 集中しながら作業を進めていると陽が傾き、やがて終業時間を迎えた。
 部署の人たちはこれから祝賀会があるからか残業はせず、次々に席を立ちデスクをあとにする。部署の人たちの背中を見ながら、私は残りの作業を進めようと気合を入れる。
 するとそこへ部長がやってきて、私のパソコンを覗き込んだ。

「これは村木さんが担当しているデータじゃないか?」
「はい。彼女に頼まれたので調整しているところです。もうすぐ終わります」

 なんだか距離が近い。彼の吐息が耳にかかり、ぞくりとする。
 ちらりと横に目を向けると、部長のシャープな顎のラインがすぐ傍にあった。
 彼は真剣な双眸そうぼうで画面に見入っている。

「ここは蛇足だからカットしたほうがいい。その代わりに次の表で補足を……」

 マウスを握る私の手に、大きな手が被さった。
 熱い体温を感じた瞬間、私は驚きのあまり「ひっ」と細い悲鳴を上げた。
 だが部長は意に介さず、私の手に手を重ねて、勝手にマウスを操作する。

「こうしたほうがいいと思うんだが。どうだろう、吉岡さん?」
「あ、はい。そうですね。部長のおっしゃる通りです……」

 終わったのなら手を離してほしいのに、部長はまだ私の手ごとマウスを握っている。
 どんどんと顔が熱くなっていく。
 そのとき、村木さんが巻き毛を掻き上げながら私のデスクにやってきた。彼女は、にこやかな笑みを浮かべて部長に声をかける。

「部長、そろそろ行きましょうよ。部長の名前で席を予約してるんです」
「しかし村木さん。吉岡さんが今作っているこの書類は、本来はきみの仕事ではないのか?」

 部長は不機嫌そうに眉をひそめる。
 気まずい空気にならないよう、私は慌てて取りなした。

「私が請け負ったわけですから、これは私の仕事です。もうすぐ終わりますので、お二人は先に行っててください」
「ですって。行きましょう、久我部長」

 村木さんは部長の腕を取ると、しなだれかかるように自分の腕を巻きつけた。それと同時に彼の手は私の手から強制的に剥がされる。私は、ほっとしたような寂しいような複雑な気持ちになった。
 だが部長はさりげなく村木さんの腕をほどき、鞄を脇に抱えた。まるで村木さんが腕を回せないようにガードしているみたいだ。

「それなら先に行っているが……吉岡さんもちゃんと来るように。きみが主役なのだから」
「わかりました。必ず行きますから、どうぞお先に」

 私は微笑を浮かべて答えると、すぐに作業へと戻る。
 部長がもう一度こちらを振り返ったのが視界の端に映ったが、村木さんに促されてフロアを出ていった。
 部長の言う通り祝賀会に参加するべく、私は必死にデータを修正した。よく見直してみると、先ほど部長が言っていたことが、非常に納得のいく指摘であるとわかる。
 少しだけ詰まっていた資料修正だったが、部長の指摘部分を直したことでスムーズに進み、無事に書類を開発部に提出することができた。
 開発部からの受領のメールを確認した私は、椅子の背もたれに背を預け脱力した。

「ふう……終わった。もうみんなは、けっこう呑んでる頃かな」

 パソコンをシャットダウンしてデスクを整頓し、鞄を持って退室する。
 会社の外に出ると、オフィス街は会社帰りのサラリーマンであふれていた。
 部署でよく利用している居酒屋は、徒歩十分ほどの場所にある。
 早足で向かった私は、店の縄暖簾なわのれんを掻き分ける。店内へ入ると、喧噪と炭の香りが漂ってきた。

「吉岡さーん、こっちですよ」

 カウンター席の向こうにある座敷席から、同期の高橋たかはしくんが呼びかけてきた。
 高橋くんはお酒はあまり得意ではないようで、テーブルに置いてあるビールはほとんど減っていない。
 彼の体格は華奢で中性的な雰囲気があり、ミステリアスなタイプだ。彼女いない歴は年齢と同じと公言しているので、私と似たもの同士だと密かに思っている。
 細長い座敷には、部署の二十名ほどが座っている。それぞれがジョッキを傾けながら談笑していた。

「遅れて申し訳ありません」
「どうぞ。ぼくの隣に座ってください。というか、ここしか空いてないです」

 彼の返答に苦笑しつつパンプスを脱いで座敷に上がり、末席の高橋くんの隣に腰を落ち着けた。
 遥か向こうの上座から、部長がこちらに軽く手を挙げたので、私は会釈して返す。
 部長の周囲を一瞥すると、もちろん村木さんをはじめとした女性たちが陣取っていて、料理を取り分けたり、笑顔で楽しげに部長に話しかけたりと、とても賑やかだ。
 店員に生ビールを注文した私は、ちょっとだけ残念な気持ちになりながら、おしぼりで手を拭く。すると、ネクタイを緩めた高橋くんがさりげなく話しかけてきた。

「Mさんから頼まれてた書類は、終わったんですか?」
「え? ええ、無事に提出しました」

 Mさんとは村木さんを指しているのだと思うが、なぜ匿名にするのだろうか。

「あれ、わざとですよ」
「えっ?」

 どういうことだろうと、目を瞬かせる。
 私が頼んだビールがやってきたのを見て、高橋くんは自分のジョッキを軽く掲げた。私もそれに倣ってジョッキを掲げて、一口呑む。
 ジョッキを触れ合わせたりしないところが、高橋くんの人との距離の取り方を表している。彼も人間不信なところがあるのだ。普段、彼と話していると、それがにじみ出ているのを感じる。
 私はお通しに箸をつけながら、高橋くんにたずねた。

「わざとって、なにがですか?」
「祝賀会が決まってから、Mさんは吉岡さんに仕事を頼んだじゃないですか。でも彼女はほかに急ぎの仕事なんてやってませんでしたよ。K部長の隣を確保するために、わざと吉岡さんを遅れさせるように仕向けたんです」

 もはやイニシャルにする意味はあるのか。
 高橋くんの真剣な考察を聞きながら、乾いた笑いを漏らしてしまう。
 確かに遅刻していなければ、ネーミングの発案者である私が主役として扱われて、部長の隣に座っていたかもしれない。
 そっと上座を見やると、どこか不機嫌そうな部長とは対照的に、彼を取り囲んだ女性たちは嬉々としていた。
 だけど、どこか牽制しあう女性たちから、見えない火花が散っている気がする。

「私は別に気にしてませんけどね。K部長の隣に座りたいわけでも……ありませんから」
「わかってないなぁ。吉岡さんはK部長のお気に入りだから、Mさんにああいう意地の悪い手口を使われるんですよ」
「お気に入り!? 私がですか?」

 大皿に盛られた鶏の唐揚げを小皿に取っているとそんなことを言われ、目を見開く。
 部長とは仕事の話しかしたことはないし、彼が特別私に目をかけているといったことはないはずだ。
 ところが高橋くんは大仰な溜息をついて、首を横に振る。

「見てればわかりますよ。通常、部長は極力誰にも触れないよう一定の距離を取ってるのに、吉岡さんにだけやたらと近づくじゃないですか。それに吉岡さんの手に重ねてマウスを動かす……って、好意がなきゃやらないですよ。ぼくなら他人の手なんて穢らわしくて、できません」

 私は呆然とした。
 部長は距離感が近すぎると思っていたけれど、それは私限定のことだったのだろうか。

「というか、高橋くんの考察に脱帽ですよ。よく見てますね」
「ぼくは繊細なので、いろんなことが気になるんですよね。吉岡さんが鈍感すぎて損をするのを見過ごせなかったので報告しました。今後の参考になれば幸いです」
「はあ……ありがとうございます」

 今後の参考になるのかは謎だ。
 なぜなら私は恋愛や結婚に興味がない。
 学生の頃は乙女らしく『恋愛・結婚・妊娠・出産』という四つの柱である女の幸せに憧れていた。
 だが、とあるトラウマにより、恋愛と結婚への憧れがすっかりなくなってしまったのだ。
 残る望みは、妊娠と出産。
 私は子どもが好きなので、どうしても自分の子どもが欲しい。
 自分の赤ちゃんを抱っこしたいし、よちよち歩きの我が子に「ママ」と呼ばれたい。
 だけどそのためには相手が必要だ。一人では妊娠できないのである。そして恋愛不信であるというところに立ち戻り、願いは絶望的だと理解する。
 ジョッキを少しだけ傾けた高橋くんは、遠くに向けていた視線をこちらに戻した。

「K部長は嫌がってそうですね。女性だけで盛り上がっている感じです。ところで吉岡さんはK部長に興味ないんですか?」

 私は、ぎくりと肩を震わせた。


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