紅蓮に燃ゆる、赤虎の剣

沖田弥子

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 ふいに掌を放した影虎は、廊下を踏み鳴らして奥の間へと向かう。木刀を二本持ち出し、雪駄を突っ掛けて庭へ出た。

「まずは、こいつでだ。俺を掠めることができたら、真剣で打ってもいいぜ」
「望むところです」

 放られた木刀を受け取った雪之丞は青眼に構えた。
 ほの淡い月明りのもと、赤い髪が不気味に映える。影虎は片手で斜に構えている。雪之丞など相手にならないと、見くびっているのだ。
 絶対に当ててやる。
 短く気合を発して正面に打ち込んだ。軽く跳ね上げられ、今度は篭手を狙う。まるで赤子を払うように簡単に跳ね返されてしまう。身体が大きいので当てるのは容易いと思ったが、どこにも隙はなかった。
 静かな夜に、木刀の打ち合いが木霊する。
 やがて月が西の空に傾く。数刻後、雪之丞はがくりと膝を折った。
 臓腑が口から出そうなほど咳き込み、四肢は痙攣していた。
 一太刀も届かなかった。影虎は仁王立ちになったままで、打ち込んでくることすらしなかった。
 肩で息をしながら地に伏せる負け犬に、影虎は無情なひとことを投げかけた。

「おまえが斬りたいのは、非力な己の魂だ」

 眦から涙が溢れて滴り、土を濡らした。
 影虎には、全て見透かされていた。悔しくてたまらない。もっと、強くなりたいのに。

「うう……」
「じゃあな。夜更かししないで、さっさと寝ろよ」

 影虎は肩に木刀を担ぐと、障子を開けて部屋へ入っていった。
 丹田に力を込めて立ち上がろうとしたが、意思に反して掌から木刀が滑り落ちる。

「くそ……、くそっ……」

 暁の頃まで、雪之丞は長く慟哭していた。



 初冬の陽射しが目に痛い。朝方降りた霜は、きらりと滴を残して天へ帰っていったようだ。
 ふたりは昨晩のことなど何もなかったかのように、朝餉の膳に箸を付けていた。
 椀を差し出したおきよから叱責が飛ぶ。

「まったく旦那さまはしょうがないですね。酔っ払って玄関の戸を壊すなんて。お酒をやめさせようにも、旦那さまからお酒を取り上げたら何も残らないじゃありませんか」

 玄関の破壊された戸を発見したおきよは朝一番に悲鳴を上げた。
 影虎が戸を蹴り倒したのは事実である。雪之丞は深く頷いた。

「そのとおりですね。影虎さんにも困ったものです」
「……くそ。あとで直しといてやるよ」
「当たり前ですよ。旦那さまが壊したんですから。今後はお酒も程々にしてくださいね」
「くそ……。わかったわかった」

 苦虫を潰したような渋面で、影虎は飯を掻き込む。
 朝餉のあと、影虎が戸を修復している姿を見届けると、雪之丞は外出した。
 以前住んでいた屋敷のある、馬喰町へ向かう。
 影虎とまともに戦って勝つのは難しい。下手人として認めさせるには高柳の言うとおり、証しが必要だ。凶行の場となった波江家へ行けば、何か見つかるかもしれない。
 広小路を左に曲がり少し進むと、庭木の欅が眼に入る。込み上げてきた懐かしさを喉元で抑えていると、庭から響く不審な物音に足が止まった。
 屋敷には、もう誰もいないはずだ。
 生垣の隙間からそっと中を覗く。見知らぬ男が鶴嘴を振るい、庭の土を掘り返していた。

「何をしている?」

 声をかけると、町人風の男は驚いて飛び退った。腕に罪人の入墨が彫られており、左頬に刀傷がみえる。善良な町人ではないようだ。
 鶴嘴を放り出した男は、生垣を越えて瞬く間に逃げていった。

「おい、待て!」

 走って一町ほど追いかけたが、見失ってしまう。急いで踵を返し、屋敷を検めると、部屋の中は整然としていた。侵入された形跡は見当たらない。
 雪之丞は脳裏に湧き上がった既視感に双眸を眇める。
 父が殺されたあと、荒らされた部屋を片付けていて、あることに気がついた。
 金品が盗まれていないのだ。
 父の財布も箪笥に入っていた僅かな貯蓄も、着物と一緒に散乱していた。賊ならば、まず金を盗むのではないだろうか。先ほどの男もなぜ、庭土など掘り返しているのだ。
 影虎は確かに大酒呑みだが、身形に構わず妾を囲ってもいないので、金が要りようには見えない。金が欲しいから賊に入るはずなのに、説明がつかない。
 掘り返されて小山ができた庭を歩きながら考えを巡らせる。ふと、白い小石のようなものが目に留まった。

「これは……」

 盛り土の上に転がっていたのは、ふたつの賽。
 先ほどの男が落としていったものだろうか。
 賊の目的は金じゃない。父上は、何か理由があって殺されたんだ……。
 雪之丞は拾い上げた賽を、きつく握りしめた。
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