白熊皇帝と伝説の妃

沖田弥子

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襲撃

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 夜更けまでアイスダンスを楽しんだふたりは、ようやく氷上を後にした。
 極北の大地は夜でも明るいが気温は下がるので、防寒具に覆われていない頬は凍りついたように強張る。

「寒くないか。別荘はすぐそこだ。さあ、行こう」

 レオニートは結羽の頬に手を宛てて顔を覗き込むと、ずっとそうしていたように手を繫いで歩き出した。
 アイスダンスを踊っていたので身体は冷えていない。それにレオニートが傍にいるので、身体も心も温かなものに満ちていた。

 馬車はユリアンを乗せて返してしまったので徒歩で別荘へむかう。
 レオニートによれば、皇族の所有する別荘が村外れにあるので、遠出などで帰りが遅くなるときは無理をして丘の上の城に戻らず、別荘に泊まるらしい。城と同じように召使いがいるため、いつ寄っても食材や暖房が整えられているとのことだ。
 白樺の佇む路を通れば、ふたりが雪を踏みしめる音だけが樹陰に響き渡る。
 夜の森は静寂に沈んでいて、どこか恐ろしさを覚えた。
 ヒュウ、と一陣の風が吹き抜けた。結羽はぶるりと背を震わせる。
 震えが伝わったのか、振り向いたレオニートは繫いだ手を引き寄せた。

「結羽、怖いのか? もっとこちらへ……」
「レオニート!」

 光る双眸が木陰からこちらを睨み据えていることに気づく。
グルル……と猛獣が放つ低い呻り声が響いた。
 身構えたレオニートの背に庇われる。
 声の主は、星明かりの下にゆっくりと姿を現した。
 斑模様の毛並み、口許から覗く鋭い牙、しなやかな身体は敏捷性に優れている。
 雪豹だ。
 肉食の獰猛な獣はまるで敵に対するように、警戒を露わにしている。

「この雪豹は獣人ではない。森に巣くう獣のようだな」

 ということは、獣型に変化したときの獣人とは違い、話が通じない。皇帝であるレオニートに牙を剥いていることからも、森を荒らしに来た敵だと判断しているようだった。
 突如、雪豹は咆哮を上げて跳躍した。
 前脚を振り上げ、鋭い爪が一閃を描く。

「……くっ」

 血飛沫が、真っ白な雪に散る。
 立ちはだかったレオニートは雪豹の攻撃を片腕で受け止めた。

「レオニート、血が……!」
「平気だ。かすり傷だ。結羽、君は逃げるのだ。私が雪豹を食い止める」

 なぜ、雪豹の爪を受けたのだ。
 レオニートが身を翻せば、雪豹の一撃を躱せたはず。
 結羽は呆然として純白の雪を染め上げる真紅の雫に見入った。
 僕が、後ろにいたからだ……。
 結羽のために、レオニートは怪我を覚悟してまで雪豹に対峙した。本来なら結羽が皇帝であるレオニートを守るべきなのに。

「僕だけ逃げるなんて、そんなことできません。僕が雪豹の注意を引いている隙に、レオニートは別荘まで走ってください」

 レオニートに怪我を負わせてしまったのは、自分の責任だ。
 結羽は前へ出ると、両手を広げ、毅然として雪豹に立ち向かう。
 雪豹がどんなに獰猛で危険な動物なのかは問題じゃない。結羽では太刀打ちできないかもしれない。けれど、レオニートを守りたい。その一心だった。

「やめるんだ、結羽! 食い殺されてしまうぞ、下がれ!」

 必死に叫ぶレオニートの声にも、動じなかった。
 僕は、レオニートに命も捧げると誓った。
 だからここで雪豹に殺されて命を落とそうとも、それは自らの望んだことなのだ。
 どんなにレオニートが結羽を退かそうとしても、脚を踏ん張り、歯を食いしばり、決して動こうとはしない。
 雪豹は姿勢を低くして、再び脚を蹴り上げた。
 結羽の首許をめがけて、鋭い爪が繰り出される。
 そのとき、背後で殺気を帯びた気配が走った。
 迫る雪豹の爪が細い首筋を捉える。結羽は、ぎゅっと目を閉じた。
 一瞬の後、悲鳴を上げた獣の身体が雪上に転がる。

「えっ……?」

 結羽の眼前にあるのは、高貴な純白の獣毛。
 それは王者の風格を漂わせた、大きな白熊だった。

「まさか……レオニート?」

 一度だけ夢うつつの中で白熊に温められたが、これがレオニートの獣型なのか。
 なんという気高さ、そして漲る皇帝の品格。
 白熊はまさに、この極北の王なのだ。
 轟く咆哮を上げた白熊は雪豹に襲いかかる。身を引いた雪豹はしばし応戦したが、すぐに地を蹴って逃げ出した。
 呆然として両者の戦いを見守っていた結羽は、ふと背後に赤いものを見つけて手を伸ばす。レオニートの血と、その隣には彼の着ていた服が脱ぎ捨てられていた。
 振り向いたときにはもう、白熊の姿はどこにもなく、裸のレオニートが静かな眼差しで結羽を見据えていた。

「……できれば、獣型に変化したくはなかった。結羽に、怖がられたくないからな」

 最強の白熊皇帝ともあろう人が、人間の結羽に怖がられるのを恐れるだなんて、なんだか可笑しくて、結羽はくすりと笑みを零した。

「驚いたけど、怖くはないですよ。でも服を着ないと風邪を引いてしまいますね」

 裸のレオニートに赤い上着を着せかける。釣られたようにレオニートも笑みを浮かべた。

「私の身体は丈夫なのだ。多少のことで伏せることはない」
「血が出ています。怪我の手当てをしないと……」
「言ったろう。かすり傷だから心配ない。けれど消毒くらいはしておこうか。結羽が手当てしてくれるか?」
「もちろんです。僕の肩に掴まってください」
「それはありがたい」

 脱ぎ捨てた服を身につけたレオニートは、結羽の肩を抱きかかえるようにして別荘への道のりを歩いた。
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