白熊皇帝と伝説の妃

沖田弥子

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別荘の一夜 1

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 辿り着いた皇家の別荘は明かりが灯っており、それだけで安堵することができた。暖炉に火が点されているので、室内はとても暖かい。
 けれど別荘内に人の気配はなく、しんと静まり返っている。無人であることに首を捻りながら、結羽は救急箱を探し出した。

「誰もいないみたいですね。この火はどなたが入れたんでしょう?」

 暖炉の前で上着を脱ぎ、裸の胸と傷ついた腕を晒したレオニートの顔色は悪くない。血の気は失われていないようなので、本当に平気なようだ。

「別荘は通いの召使いのみなのだ。私たちが泊まると伝えておいたので準備だけを済ませて、夜は帰っていく」

 ということは、今夜、この別荘には、レオニートと結羽のふたりきり。
 とくりと胸が甘く高鳴ってしまうが、慌ててかぶりを振る。まずはレオニートの怪我の手当てをしなければ。

「裂傷ができていますね。痛くありませんか?」
「痛いぞ。消毒薬が染みる」
「その余裕があれば大丈夫ですね」

 けれど油断は禁物だ。結羽は心配げにレオニートの傷と顔色を代わる代わる観察しながら、傷の手当てをして最後に包帯を巻いた。

「僕を庇って……申し訳ありません」
「気にすることはない。君を庇うのは、当然のことなのだ」
「え……なぜです?」

 疑問を口にしてから、とあることに思い当たり得心する。
 結羽は以前、ユリアンが車に轢かれそうになったところを助けた。結羽は弟の恩人だから、その恩を返すとレオニートは言っているのだ。
 けれどレオニートは熱を孕んだ瞳で、結羽をまっすぐに見つめた。彼の紺碧の瞳は暖炉の灯火を映して、黄金に煌めいている。

「君が、好きだからだ」

 その言葉の意味を理解するまで、結羽は長い時間を要した。
 好き。レオニートが、僕を、好き。
 けれどそれは、友人として信頼しているという意味かもしれない。
 そう解釈するにはレオニートはあまりにも真摯な双眸で、緊張を漲らせながら、結羽の心の底を攫おうと目を凝らしていた。

「……あの、それは……僕も、好きです。レオニートはとても賢明な皇帝だと思っていますし、そんなあなたを尊敬しています」
「結羽……私の言う、好きという意味は立場を慮った上での好意ではないのだ。君をひとりの人として愛しいと、私の心が訴えてやまない。君を抱きたい。私のものにしたいのだ」

 熱烈な告白に、息を呑む。
 力強い腕に抱き込まれた華奢な身体は、すっぽりとレオニートの腕の中に収められた。
 レオニートがそんなふうに思っていたなんて、全く気づかなかった。
 違う。気づかないふりをしていたのだ。
 彼は結羽に、アイスダンスのパートナーになってほしいと懇願した。雪豹に襲われそうになって、怪我も顧みず助けてくれた。それよりも前から、もしかして靴をプレゼントしてくれたときから、彼の中での結羽は特別な存在だったのだろうか。
 そのすべてのできごとは、ふたりで過ごした時間の積み重ねであり、結羽も同じ気持ちだった。共に過ごして彼の瞳を見て、言葉を交わすたびにレオニートへの恋心を募らせていった。
 
 結羽もレオニートが好きだ。狂おしいほどに。
 深い色をした紺碧の瞳がこちらにむけられ、銀色の髪が風になびくたびに想いは募り、心の泉から溢れんばかりに膨れ上がっている。
 それだけでもたまらないのに、彼の熱い体温にほんの少し触れられただけで、鼓動は早鐘のように鳴り響く。
 今も、レオニートの胸に抱き込まれているから、心臓が打つ音が聞こえてしまわないかと思うくらいだ。

「レオニート……僕は、僕は……」

 けれど、自らの想いを正直に打ち明けることはできない。
 レオニートには、アナスタシヤという妃になる人がいるのだ。
 絶滅が危惧されている純血の白熊種。隣国の幼なじみ。皇帝と姫。誰もが認める、結ばれるべき婚姻だ。
 そこに結羽のような異世界からやってきた平民の人間が、入り込む余地などない。
 唇を震わせる結羽の背を、レオニートは大きな手のひらで優しく撫で下ろした。

「結羽の、本心を聞かせてほしい」
「それは……言えません」
「今の私は、皇帝ではない。結羽の前では、ただのひとりの男なのだ。……私は幼い頃から皇位継承者として周りに傅かれてきた。皇帝に即位した八年前、ユリアンを産んだ母と病に倒れた父が相次いで亡くなったとき、私という男は消滅したと思った」
「え……なぜです?」

 地位にも美貌にも恵まれて不幸などとは縁遠いと思われるレオニートだが、両親を相次いで亡くしたのだ。その絶望は同じ経験をした結羽にも覚えのある想いだった。
 けれど自身が消滅するとは、どういうことだろう。
 レオニートは遠い目をして言葉を紡ぐ。

「皆が望んでいるのは、皇帝という肩書きを持った私だ。私が皇帝でなくなれば名前も分からないくらい、レオニートという男は浅薄な存在なのだ。それを即位したときに痛感した。人々は皇帝という服を着た私にしか興味がないと。私は己を殺し、よき皇帝として振る舞ってきた。……だが、結羽は違う。君は私を皇帝として見ない。ひとりの男として見てくれる。私の心にそっと触れてくる。それはとても新鮮な感覚で、私の消滅しかけていた心の奥底を疼かせた」

 彼は、孤独なのだ。
 皇帝という役目を全うするため、自分の心を犠牲にしてきた。
 レオニートの心の奥深くに潜む孤独には、誰も気づくことができなかったのだろう。
 結羽は腕を回して、レオニートの背を抱きしめる。
 逞しい身体の中には、繊細な心が仕舞われている。
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