瘡蓋(かさぶた)【完結】

イアン

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瘡蓋 #15

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体の体温が一気に冷めていく感覚がした。
まるで頭の上から水をかぶったかのように。

淳宏は、じっと私の目を見て逸さない。

「…どうするつもり、も何も。教授は教授で、私は生徒で。陶芸の授業ももう終わったし…今後接点はないよ。」

「教授と生徒?本当に?」

なるべく冷静を装い返答したが、彼は嘲笑うかのようにふっ、と口から息を漏らし、吐き捨てた。
どうしてそんなに関係が気になるのだろうか?
私は、これ以上話をしてもキリがないと思い、鞄の中から鍵を取り出すとドアをガチャリと回し開ける。

「…もう、話すことは何もないから帰って。」

「まだ、話は終わってないから。」

身を入れてドアを閉じようとすると、足が割り込まれ、ドアが無理矢理こじ開けられる。
押し返そうにも女性と男性の力の差では叶わず、そのまま淳宏は部屋の中に滑り込んできて、私を玄関の壁に押しやった。

「ちょっ…、どういうつもり?」

「だから、教授とどういう関係なのかを聞いてるんだよ。俺の目を誤魔化せると思ってるわけ?」

手首をおもむろに掴まれ、壁に強く押しつけられる。鈍い痛みが走った。
持っていた鞄がグシャリと音を立てて床に落ち、中の手帳や書類などが床に散らばっていく。
怒りと悲しさと苦しさを色々な色が混じった目で、淳宏は私を見下した。

「だから、教授とは、何もないっ…、ん!」

再度否定の言葉を伝えると、急に唇を押し付けられる。
相手の事を思い遣る気持ちなどないその冷たい口付け。

体を押して反抗するものの、びくりともしないその体。
私は、唇と歯に強く力を込めた。

「って…。」

唇と手を離し後退りした彼の唇には、時間差で血がじわりと滲む。
自分が噛んだというのに、いざ血を目の当たりにすると申し訳ない気持ちが込み上げてきた。

「本当に、何もなくて。」


「何で、俺のことは、見てくれなかったんだよ。

教授に、愛しいものを見るような目で微笑んで。

俺にはあんな顔なんて見せたことなんて、ないじゃん。

他の人とヤッて、他の人と付き合えば、

なっちゃんは自分を引き止めてくれて、苦しんでくれるんじゃないかと思ってた。

でも、最後の最後まで自分のことなんて1つも見てくれなかったじゃん。」

目の前で、どんどん顔を赤くして言葉を並べる淳宏。




…あぁ、これは、過去の私だ。

悲しさが怒りに変わり、羨望が妬みに変わり。
相手を愛しむ気持ちなどもうそこにはなくて。
自分に向けられないもの、自分に得られなかったものが他の人にはある。
それが、ただ、憎いのだ。

「なっちゃんは、空っぽだったじゃん。

意思がないからこそ、何も拒まない。

なのに、何でそんなに俺のことを拒むんだよ。」


「…馬鹿に、しないでよ。」


グツグツと、心の奥から怒りが込み上げてくる。
もう彼には私を思い遣る気持ちなど、微塵もないのだ。
こんなに怒りの感情に支配されることなど、あっただろうか。


「私のことを見てなかったのは、淳宏だってそうだよ。

あなたの言う通り、確かに私は空っぽだった。

何も意思もなく、のほほんと生きてきた。

でも、ある人に出会ってから…

自分で物事を選択して積み重ねていくということが

どういう事かを教わったの。

もう、あなたと付き合っていた頃の市川菜々は、

どこにもいない。

だから、もう二度とここには来ないで。」


私にしては珍しいくらいの、ありったけの言葉を全部吐き出す。

淳宏は唖然とする表情でこちらを見た後に下を向いて、ぐしゃぐしゃと自分の髪を触りながらドアの方に足を向けた。

「…なっちゃんがこんなに感情を出してるところ…初めて見たよ。ある人、ねぇ。わかった。」

ガチャリ、とドアが開く金属音がして、彼は踵まで通していない靴を引きずりながら去っていった。
横のモニター画面を見て、姿が見えなくなったのを確認してドアに鍵をかけると、途端に疲労感が押し寄せてくる。
ずるずると、私はその場にしゃがみ込んだ。

声が、聞きたい。

真っ先に浮かんだのは、教授の顔。
自然とスマホに手が伸びる。
でも、教授の連絡先など知らなくて。

咄嗟にひらめき、部屋の本棚に駆け寄る。
専攻科目の分厚いカリキュラムを引っ張り出してページを捲ると、各研究室の部屋に設置してある、固定電話の番号が書いてあった。

一行一行、指でなぞりながら、降りていく。

は、ひ、ふ。
あった…、古屋晴一。
今日は打ち上げだったし、流石にもう研究室にはいないだろうか。

恐る恐る番号を入力し通話のボタンを押す。
プルルル… プルルル…
何度かのコールの後に、聞き慣れた声が聞こえてきた。







『はい、もしもし。』

「あ…。あの…。夜分遅くにすみません。市川です。」

『…菜々さん?何かありましたか?』

穏やかな声が、心配そうな声に変わる。
電話という機械を通してなのに、教授の声はどこか温かく、私の耳をざわざわと撫でているような感覚になった。

「いえ。何もないんですが…。ちょっと声を聞きたいと思いまして。」

『…何か、あったんですね。』

どうしてこうも教授は私の心をいつも見透かすのだろうか。
話を、したい。でも、なんと伝えたら良いのか。
今更淳宏の話を伝えていいのだろうか。




頭の中でぐるぐると考えて、少しの間の後に口を開こうとすると、妙な違和感があった。
耳を研ぎ澄ませ、電話の音量を最大にする。
すると、微かにスマホから別の女性の声が聞こえてきたのだ。
途切れ途切れだが、一部、はっきりと聞き取ることができた。

「…晴一、パンツ、履かせてよー…」

ずきん、と胸が痛くなる。
あの、モデルの女性の声。
一体2人は何をしているというのだろうか。




教授が何かを言う声がしたが、私は反射的に電話を切ってしまった。
ツーツー、と無機質な音が響く。




急に部屋の酸素が失われたかのような息苦しさに、自然と眉間に皺がよる。立て続けに起こった出来事に脳みその中がパンクしそうで、自然と目から涙が溢れ落ちていた。

心が、張り裂けてしまいそうだ。

私はその日、子供のように声をあげて、泣き続けた。





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