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瘡蓋 #16
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打ち上げが終わると、時刻は20時半を過ぎたところだった。
お酒が入り顔を赤らめた彼女は、無事に家に帰れただろうか。送っていくべきだっただろうか。
とはいえ立場上この場を抜ける訳にもいかず。どうにも、ソワソワする。アトリエの後片付けをしながら、そんなことを思っていた。
「古屋教授、伊月さんがいらっしゃったようですが。研究室で待ってる、と仰っています。」
『伊月?なんでこんな時間に。今日はデッサンのお願いしてないはずだけれど。』
陶芸専攻の院生の1人が、声をかけてきた。
今日はデッサンモデルもお願いしていないはずだったが、何の用事だろうか。
『申し訳ないけど、残りの片付けお願いしていいですか。研究室で伊月と打ち合わせしてきます。』
「はい、お疲れ様でした!」
研究室のフロアに着くと、一番奥の研究室の前に黒いコートを着た伊月が立っていた。
姿を見るなりひらひらと手を振り、にこやかに目尻に皺を寄せて笑いかけてくる。
「晴一!ごめん、急に押しかけちゃって。ちょっと見て欲しいものがあって。」
『急に来るからびっくりしましたよ。ひとまず今鍵開けるから、中に入って。』
鍵を開けて、中の椅子に座らせる。
いつものように彼女は鞄の中からゴソゴソと煙草を取り出すと、それに火をつけた。
戸棚に置いてある灰皿を目の前に差し出すと、それを受け取って煙を吐き出す。
『今日発表会で打ち上げをしてて、ビールが余ったんだけど、飲みます?』
「お、いいね。飲む飲む!」
下から持ってきた冷えたビールをあけて、少し酔いの醒めてきた体に流し込む。彼女もゴクゴクと喉を鳴らしてそれを飲むと、鞄の横の紙袋を机の上に置き、中から次々と物をひっぱり出した。
「見て欲しいって言ったのがね、下着のデザインの事でさ。アポ取ってないけど気になっちゃって。試作品見て欲しくて。」
彼女はモデルの仕事もしているが、本業はランジェリーデザイナーをしている。
今年は下着を身につけた女性の像をテーマに作品作りをしているため、デザインを個別に依頼していたところだった。
既に何度か彼女からデザインを見せてもらっていて、
そういえば以前市川さんが研究室に来た際に、机の下に下着が散らばったままにもなっていたな、とふと記憶が蘇る。
黒のレースのもの、白の花柄のもの、紺色のものなど、様々なデザインの下着が机の上に並べられた。
『おぉ、素晴らしい出来栄え。』
一つ一つデザインを確認し、修正イメージを伝えていく。長年モデルとしてやりとりをしている事もあって、彼女はいつも自分の制作意図をよく汲み取ってくれる。
私にとって伊月は、同じ大学を卒業した戦友であり、同志であり、古い友人なのだ。
「ちょっと、実際一着着てみようかな。」
『え?伊月まさか、酔ってる?まぁ、別にいいけれども。』
彼女の体は裸体をデッサンしていることもあって、
見慣れているから今更身構えることもないのだが、
急にこうも目の前で服を脱がれると、別の意味で心配にもなる。これは、少し飲ませすぎただろうか。
彼女がゴソゴソと着替えていると、この時間にしては珍しく、固定電話が鳴った。
この電話に連絡してくるのは、大体他の研究室の教授か、外部からの取材などに関する電話はほとんど。
咳払いを一つして、受話器を手に取った。
『はい、もしもし。』
「あ…。あの…。夜分遅くにすみません。市川です。」
予想外の人物からの電話に、心臓がどくりと高鳴る。ふぅ、とひとつ息を吐き平静を装った。
なぜこの電話の番号を知っているのだろうか。
そして、心なしか声のトーンがいつもより低い気がするのは気のせいだろうか。
『…菜々さん?何かありましたか?』
「いえ。何もないんですが…。ちょっと声を聞きたいと思いまして。」
そう答える彼女の声はか細く、今にも消え入りそうで。
『…何か、あったんですね。』
そう伝えると、電話の向こうからは鼻を啜る声が聞こえた。打ち上げの後に、何かあったのだろうか。
何も答えない彼女の息遣いに耳を傾けていると、机の近くで着替えている伊月が、手を振って何やら訴えてくる。
「晴一、やばい。ちょっと引っかかった。パンツ履かせてよ。」
慌てて受話器口を手で押さえ伊月のほうに体を向けると、酔って手元がよく見えないのか、ヒールの部分に下着が引っかかった状態だった。
『今電話中だから、それが終わったらにしてください。』
すぐに受話器を耳に寄せると、既に電話は切れていて、機械音のみが何度も木霊していた。
電波が悪かったのだろうか。
いずれにせよ、彼女に何かがあったに違いない。
もう一度きちんと折り返しの電話をかけて、話を聞こう。
受話器を電話機に戻すと、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、伊月に差し出した。
『伊月、申し訳ないんだけど、用事ができたから続きはまた別日にして貰ってもいいかな。』
「そうだよね、ごめん!急に押しかけて。でも、修正点もわかったから、また次回持ってくる。」
脱いだ服を、今度は順に着ていく彼女。
その間に机に散らばった下着を片付けよう。
順に畳んでは袋に入れていくと、最後の1枚のところで妙な視線を感じ、顔をあげた。
研究室の小窓の奥に、男性の姿が見える。
『伊月、もう出れますよね?ちょっと来客。』
「うん、もう私は出る。」
恐る恐るドアを少しだけ開けると、芸術専攻では見ないような、爽やかな装いの青年が立っていた。
一礼すると、その青年は初対面にも関わらず、ふ、と鼻で笑うような素振りを見せて口を開いた。
「古屋晴一教授ですよね?」
『はい、そうですが。こんな時間に何のご用でしょうか?』
「経済学科の高木淳宏といいます。
単刀直入に言いますが、こんな研究室に女性を連れ込むご趣味があるのに、
市川さんにも手を出すというのは、
教員としてどうなんでしょうか?」
…なるほど。
恐らく、この事で彼女にも何かがあったのだろう。
頭の中がすーっと冷静になっていく。
『…こんなところで立話をするのもよくありませんから、どうぞ、中に入ってください。』
ゆっくりと、研究室のドアを開けた。
お酒が入り顔を赤らめた彼女は、無事に家に帰れただろうか。送っていくべきだっただろうか。
とはいえ立場上この場を抜ける訳にもいかず。どうにも、ソワソワする。アトリエの後片付けをしながら、そんなことを思っていた。
「古屋教授、伊月さんがいらっしゃったようですが。研究室で待ってる、と仰っています。」
『伊月?なんでこんな時間に。今日はデッサンのお願いしてないはずだけれど。』
陶芸専攻の院生の1人が、声をかけてきた。
今日はデッサンモデルもお願いしていないはずだったが、何の用事だろうか。
『申し訳ないけど、残りの片付けお願いしていいですか。研究室で伊月と打ち合わせしてきます。』
「はい、お疲れ様でした!」
研究室のフロアに着くと、一番奥の研究室の前に黒いコートを着た伊月が立っていた。
姿を見るなりひらひらと手を振り、にこやかに目尻に皺を寄せて笑いかけてくる。
「晴一!ごめん、急に押しかけちゃって。ちょっと見て欲しいものがあって。」
『急に来るからびっくりしましたよ。ひとまず今鍵開けるから、中に入って。』
鍵を開けて、中の椅子に座らせる。
いつものように彼女は鞄の中からゴソゴソと煙草を取り出すと、それに火をつけた。
戸棚に置いてある灰皿を目の前に差し出すと、それを受け取って煙を吐き出す。
『今日発表会で打ち上げをしてて、ビールが余ったんだけど、飲みます?』
「お、いいね。飲む飲む!」
下から持ってきた冷えたビールをあけて、少し酔いの醒めてきた体に流し込む。彼女もゴクゴクと喉を鳴らしてそれを飲むと、鞄の横の紙袋を机の上に置き、中から次々と物をひっぱり出した。
「見て欲しいって言ったのがね、下着のデザインの事でさ。アポ取ってないけど気になっちゃって。試作品見て欲しくて。」
彼女はモデルの仕事もしているが、本業はランジェリーデザイナーをしている。
今年は下着を身につけた女性の像をテーマに作品作りをしているため、デザインを個別に依頼していたところだった。
既に何度か彼女からデザインを見せてもらっていて、
そういえば以前市川さんが研究室に来た際に、机の下に下着が散らばったままにもなっていたな、とふと記憶が蘇る。
黒のレースのもの、白の花柄のもの、紺色のものなど、様々なデザインの下着が机の上に並べられた。
『おぉ、素晴らしい出来栄え。』
一つ一つデザインを確認し、修正イメージを伝えていく。長年モデルとしてやりとりをしている事もあって、彼女はいつも自分の制作意図をよく汲み取ってくれる。
私にとって伊月は、同じ大学を卒業した戦友であり、同志であり、古い友人なのだ。
「ちょっと、実際一着着てみようかな。」
『え?伊月まさか、酔ってる?まぁ、別にいいけれども。』
彼女の体は裸体をデッサンしていることもあって、
見慣れているから今更身構えることもないのだが、
急にこうも目の前で服を脱がれると、別の意味で心配にもなる。これは、少し飲ませすぎただろうか。
彼女がゴソゴソと着替えていると、この時間にしては珍しく、固定電話が鳴った。
この電話に連絡してくるのは、大体他の研究室の教授か、外部からの取材などに関する電話はほとんど。
咳払いを一つして、受話器を手に取った。
『はい、もしもし。』
「あ…。あの…。夜分遅くにすみません。市川です。」
予想外の人物からの電話に、心臓がどくりと高鳴る。ふぅ、とひとつ息を吐き平静を装った。
なぜこの電話の番号を知っているのだろうか。
そして、心なしか声のトーンがいつもより低い気がするのは気のせいだろうか。
『…菜々さん?何かありましたか?』
「いえ。何もないんですが…。ちょっと声を聞きたいと思いまして。」
そう答える彼女の声はか細く、今にも消え入りそうで。
『…何か、あったんですね。』
そう伝えると、電話の向こうからは鼻を啜る声が聞こえた。打ち上げの後に、何かあったのだろうか。
何も答えない彼女の息遣いに耳を傾けていると、机の近くで着替えている伊月が、手を振って何やら訴えてくる。
「晴一、やばい。ちょっと引っかかった。パンツ履かせてよ。」
慌てて受話器口を手で押さえ伊月のほうに体を向けると、酔って手元がよく見えないのか、ヒールの部分に下着が引っかかった状態だった。
『今電話中だから、それが終わったらにしてください。』
すぐに受話器を耳に寄せると、既に電話は切れていて、機械音のみが何度も木霊していた。
電波が悪かったのだろうか。
いずれにせよ、彼女に何かがあったに違いない。
もう一度きちんと折り返しの電話をかけて、話を聞こう。
受話器を電話機に戻すと、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、伊月に差し出した。
『伊月、申し訳ないんだけど、用事ができたから続きはまた別日にして貰ってもいいかな。』
「そうだよね、ごめん!急に押しかけて。でも、修正点もわかったから、また次回持ってくる。」
脱いだ服を、今度は順に着ていく彼女。
その間に机に散らばった下着を片付けよう。
順に畳んでは袋に入れていくと、最後の1枚のところで妙な視線を感じ、顔をあげた。
研究室の小窓の奥に、男性の姿が見える。
『伊月、もう出れますよね?ちょっと来客。』
「うん、もう私は出る。」
恐る恐るドアを少しだけ開けると、芸術専攻では見ないような、爽やかな装いの青年が立っていた。
一礼すると、その青年は初対面にも関わらず、ふ、と鼻で笑うような素振りを見せて口を開いた。
「古屋晴一教授ですよね?」
『はい、そうですが。こんな時間に何のご用でしょうか?』
「経済学科の高木淳宏といいます。
単刀直入に言いますが、こんな研究室に女性を連れ込むご趣味があるのに、
市川さんにも手を出すというのは、
教員としてどうなんでしょうか?」
…なるほど。
恐らく、この事で彼女にも何かがあったのだろう。
頭の中がすーっと冷静になっていく。
『…こんなところで立話をするのもよくありませんから、どうぞ、中に入ってください。』
ゆっくりと、研究室のドアを開けた。
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