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薄れやすい現実感
41. 何ごとも楽しめる人々
しおりを挟むソーンのミスが増えた。
心ここにあらずで手を滑らせ、カップを倒す。
備品の発注を間違える。
清掃後のチェックを失念する。
何かを壊したり、客に粗相をしたりという決定的なミスはない。とはいえ、その寸前までいくことが見るからに増えた。
「ソーン。最近、おまえらしくないな。どうやら体調が思わしくないようだから、しばらく休みなさい」
「ですが、坊ちゃま」
「おまえはよく尽くしてくれているから、疲れが溜まってしまったのだろう。しっかり休んで回復してから、また今までのように働いてくれ」
「……お心遣い、感謝いたします」
ウィルフレッドは問答無用で十日間の休暇を与えた。使用人に対する休日としては、異例の長さだ。
これは慈悲深い主人の対応だと世間の目には映る。だがその裏は、ソーンがそれほど休んでも、マディさえいればターナー家が充分に回るという現実を突きつけることにもなった。
もちろんその分、マディの負担は増えてしまう。ただターナーの館は、誰かが突発的に働けなくなっても支障がないよう、もともと使用人の数に余裕があった。
おまけに人を招くことがほとんどないので、朝から晩まで来客の対応に追われる心配もない。
自分がいなくても困らないという事実に、プライドの高い男は我慢できるだろうか。
さらに言うとソーンは通いではなく、住み込みで働く上級使用人だ。十日間何もせず、ただ館の中で住んでいろという命令は、慈悲よりも侮辱に感じることすらあるのではないか。
「おまえの負担を増やしてすまないが、あいつが僕の部屋の周辺に近付くことがないよう、それとなく目を光らせておいてくれ」
「負担などと、とんでもないことでございます。日頃から陰険な目で見張られておりましたので、逆の立場になるのは楽しゅうございますよ。ただ、わたくしだけでは限界があります。シャーロットの手も借りてよろしいでしょうか?」
「いいかな、オズワルド?」
「ああ。シャーロット、マディの手伝いをしてもらっていいか?」
「もちろんでございます。楽しそうですね」
女性二人は思いのほか乗り気だった。危険なことだけはしないでくれと念を押し、館の中限定でソーンの見張りを頼む。
初日、プライドの高い上級使用人は、ほとんど自室から出てこなかった。
何かをじっくり考え込んでいたのだろうか。
そして二日目になると外出をした。その直前、彼はどこかに電話をかけている。
「さて、我々も行くぞ」
「本気で行くのか」
「行かなくてどうするんだ? ティム、馬車を――」
「待てウィルフレッド、ターナーの馬車を使うな。辻馬車を拾え」
「そうだった。つい習慣で」
オズワルドはウィルフレッドに引きずられ、探偵の真似事をすることになった。
最近人気の小説で尾行シーンが出てきたので、絶対に自分もやってみたくなっただけだとオズワルドは確信している。
予想外というか幸いというか、たまたま拾った辻馬車の御者も、そういう小説が好きだったらしい。「密かにあの馬車を追ってくれ」という客の注文に、迷惑がるどころか目を輝かせていた。
(頼むからバレないでくれよ……)
そんな不安とは裏腹に、御者は尾行が巧みだった。
それに今日は、朝からうっすらと霧が立ち込めている。レッドフォードは霧が多く、身を隠したい者にはうってつけの環境かもしれない。
ソーンを乗せた馬車は、人通りの少ない場所で停まり、客を降ろして走り去った。
その後、ソーンは道の反対側に停まっている二頭立ての箱馬車に駆け寄り、周囲を確認することもなく乗り込む。
「不用心だな。焦りすぎだ」
ウィルフレッドのひとりごとは露骨に声が弾んでおり、オズワルドは素直に頷いていいものか迷った。
不用心という意見自体は正しいと思う。あれは明らかに貴族所有の馬車で、中で内密の話をしているのだ。
声はまったく聞こえない。通行人の少なさから、接近するとバレる可能性が高く、離れた場所から隠れて監視するしかなかった。
その後、何やら言い争う声が聞こえた。やはり内容はわからないが、その声は慌てた様子ですぐに抑えられた。
やがて、乗り込む前よりも暗い顔をしたソーンが姿を現す。
彼は再び辻馬車を拾い、書店街の方向に消えていった。
少しして、貴族の箱馬車も動き出す。進む先は書店街とは別方向だ。
「どうします、お客さん?」
「来た道を引き返してくれ」
今日はここまで、深追いはしないということだ。
おそらくウィルフレッドには、あの馬車の所有者に見当がついている。オズワルドも想像はつくが、こちらはただの勘だ。
御者は「えぇ……」と残念そうにしながらも、言われた通りに引き返した。
館が見えてくる手前で停めてもらい、ウィルフレッドが通常よりも多い乗車賃を渡す。
「ありがとう、助かったよ。わかっていると思うが、今日のことは秘密だ。また会った時は頼むぞ」
「へい! 是非またお会いしたいですね、旦那!」
御者はホクホク顔でそれを受け取った。
楽しい体験をした上に、いつもより懐が潤ったのだ。満面の笑みにもなろうというものである。
「おまえといい、レッドフォードにはあんな奴ばかりなのか……?」
「何を言っているんだ。だったらソーンだって愉快な性格になっていないとおかしいだろう? そんなことより降ってきそうだから、早く中に入ろう」
あっさり論破され、すごすごと館に足を向ける。
ちょうど門を通り抜けたあたりで、水滴が落ち始めた。
「お、降り始めたな。運が良かった」
「そうだな……」
玄関の前で、オズワルドは何故か振り返った。
館の庭を囲む壁。侵入防止というよりも、土地の境界線を示す意味合いが強く、高さはそこまでない。
門は白い塗料を塗られた、装飾性の高い鉄柵だ。これもやはり、家の『入り口』としての象徴として設けられている。
高級住宅地は警官がよく巡回しているため、治安が良く、基本的に用心棒などはいない。門番や個人の警備員を雇うのは、貴族ぐらいだ。
(寒い……)
雨のせいか。鳥肌が立つ。
「オズワルド、どうした?」
門の近くには花壇。今はロブの姿がない。
順調に育っている緑の葉。茎がかなり伸びている。
その緑を目で追っていると、鳥肌がすうと消えた。
「オズワルド! 降ってきたぞ!?」
「っ!」
帽子の上でぽたぽた弾ける音に我に返った。
慌てて玄関に駆け込むと、怪訝そうなウィルフレッドとシャーロットの顔がある。
「どうなさったのですか?」
「どうしたんだ?」
「いや……なんだろう」
うまく説明できずに、帽子とコートをシャーロットに預けながら顔を上げた。
玄関に飾られている黄色い花の絵がちょうど視界に入り、知らずホッと息をついた。
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