死の花

丸井竹

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12.現れた女

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 黒の館にフェスターの姿は無かった。
主不在の書斎に入り、レイシャはディーンに買ってもらった包みを机の上に置いた。

そこでようやく、フェスターが妻に命じたことは、結構酷いことなのではないかと気が付いた。
レイシャは、自分の体を痛めつける道具を、自分で買いに行かされたのだ。
ディーンに会いに行ける口実が出来たことがうれしくて、鞭を使われることに関してはあまり気にしていなかったのだ。

寡黙なフェスターの気持ちを知るためには良い機会なのかもしれないとディーンには言ったが、本心でいえば、自分を痛めつける凶器を歓迎できるわけがない。

そう思うが、フェスターが鞭を必要だと考える理由には心当たりがあり過ぎた。

人妻でありながら、一年間も娼館に通い続けたのだ。
さらに、いろいろ理由をこじつけ、夫ではないディーンと手まで繋いでしまった。

やはり妻としては至らない部類に入るのだろう。

もしかしたら、フェスターは口では男娼と遊んでも良いと言いながら、やきもちを焼いたのかもしれない。
フェスターの冷たい目を思いだし、レイシャはすぐにその考えを否定した。

そもそもフェスターはレイシャに関心がないのだ。
それならばなぜ急に鞭が必要だと考えたのか。
単にお仕置きをしたいだけということも考えられる。

フェスターならばあり得る話だと思いながら、レイシャは一階に下り、厨房に向かう。
フェスターは突然いなくなるが、同じように突然戻ってくる。

だから食事を作るときは常に二人分なのだ。
厨房に入ると、レイシャは手際よく朝食を作り始めた。
パン生地をこね、鍋でスープを作る。

全て完成すると、それを皿に盛りつけていく。
その時、玄関の方から物音がした。

すぐにレイシャは厨房を飛び出した。

玄関に行くと、フェスターが脱いだ外套を床に投げ捨てているところだった。
レイシャはほっとして、夫に駆け寄った。

「お帰りなさいませ!」

床に落ちているフェスターの外套を拾い上げ、頭を下げる。
フェスターはレイシャと目も合わせず、二階に上がっていく。
その背中をレイシャは追いかけた。

「あの、フェスター様、鞭を買っておきました。柔らかいものです」

前を歩いていたフェスターが急に足を止めた。
慌てて一歩さがり、レイシャは顔を上げる。

そこにいつにも増して冷やかなフェスターの顔があった。

「ほお。柔らかいものだと?躾けるためだと聞いていなかったのか?皮膚が裂けるほど丈夫なものではないと意味がない」

さすがにぞっとしてレイシャは黙り込んだ。
フェスターはさっさと階段を上がり、書斎のある通路に消えていく。
数秒おいて、レイシャはその後ろを追いかけた。

書斎に入ると、フェスターが包みを開けているところだった。
乱暴に紙を破いて中身を取り出し、柔らかくしなる鞭を数度虚空で振ると、レイシャの前に投げ出した。

「だめだな。もっと強い物を買って来い」

それを拾い上げながら、レイシャは悲しいため息をついた。

「私に不満があるのなら鞭など使わず口で言ってください。鞭を使われる前に自分の行いぐらい正せます。
フェスター様は、もしかして、私が娼館に通ったことを怒っているのではないですか?
その、やきもちをやいているとか……だとしたら」

フェスターはレイシャに近づくと、片手で喉を押さえつけた。
息を詰まらせ、逃げようと暴れるレイシャの顎を掴み、上を向かせる。

「こういう時に鞭が欲しい。俺は夫に口答えをする妻が嫌いだ」

「会話は必要だと思います……」

苦痛に顔を歪めながらも、かすかな声でレイシャは訴えた。

「鞭を買って来い。皮膚が裂けるものだ。既に伝えたはずだが、お前は仕事の道具だ。夫婦の形をとったのは都合がいいからだ。外で遊びたいなら好きにしろ」

フェスターの手が離れ、レイシャは床に崩れ落ちた。
大きく咳き込み、両手で喉を押さえると、逃げるように部屋を出る。

少しもうまくいかない夫との関係に、落ち込みかけたレイシャは、厨房のパンを思いだした。
焼きたてのパンは、誰が食べても美味しいはずだ。
さっそく、レイシャは厨房に向かう。

フェスタ―と夫婦になった日のことをレイシャははっきり覚えていた。

いつか脱走してやろうと決めていたその日に、偽家族に腕を縛られ馬車に乗せられた。
下ろされた先は教会で、そこに神官とフェスターが立っていた。
冷たい目をしたフェスターは、かなり年上に見えたが、見た目は最高に良かった。
整った顔立ちで、すらりと背が高く、黒いローブから覗く白い手の先まで芸術作品のように美しかったのだ。
ぽかんと口を開け、逃げようと思っていたことなどすっかり忘れ、いそいそと近づいた。

結婚の宣誓を繰り返し、最後に名前を告げた。
夫は寡黙で冷たい印象ではあったが、見た目は素敵だったし、愛のない結婚でも、努力次第では愛や情が芽生えるのではないかと期待したのだ。

その時の気持ちを思い出し、レイシャは焼きたてのパンを添えた朝食を書斎に運んだ。

ところが、昼食を運んだ時、朝食はそのままテーブルに残されていた。
またもや心が折れそうになったが、レイシャは唇を噛みしめ、それを片付けた。

夕食はなんとかテーブルについてくれたが、レイシャが何を話しかけても、フェスターは無言だった。
それでもめげず、寝支度を整えたレイシャは、フェスターに寝る前の挨拶をしに行った。

「もう寝ます」

レイシャは書斎の戸口からそう告げて、しばらく待ったが、やはり夫からの言葉はなかった。
痛くても良いから、夫から誘ってくれないだろうかと思っていたレイシャは、大きくため息をつき、書斎を後にした。
がたがた揺れる階段を上り、尖塔の部屋に戻ったレイシャは、寝台に横たわり、夫との関係を良くするにはどうしたらいいのだろうかと、真剣に考えた。



 翌日、フェスターは、またもや忽然と屋敷から消えていた。
探せる場所を全部探し、やはりいないことを確認すると、レイシャは昨夜の硬くなったパンをかごに詰め、皮の財布をぶら下げて町に向かった。

娼館通り沿いにある小さなベンチに腰掛け、硬くなったパンを朝食替わりに食べながら、憂鬱な気持ちでディーンを待つ。
やがて、女性客に別れを告げるディーンの声が聞こえてきた。

レイシャは幸せそうに微笑む女性客の姿を見て、自分と夫の関係を考え、また重いため息をついた。
昨日のように、ディーンはすぐにレイシャに気づき、駆け寄ってくる。

「レイシャ、会えてうれしいよ」

その眩しい笑顔に、レイシャはうっとりしながら微笑んだ。

「私も、ディーンに会えてうれしい。また、そのお願いしたくて……」

フェスタ―に渡された財布を取り出し、レイシャはディーンに差し出した。

「皮膚が裂けるものじゃないとだめだと言われたの」

ディーンは顔を強張らせた。
その脳裏に、恐ろしい考えが浮かぶ。
もしかすると、これは妻が懇意にしている男娼への忠告ではないだろうか。
これ以上関係を続ければ妻に罰を与える必要があると、ディーンを脅しているのかもしれない。

あるいは、それを口実に罰を受けるレイシャを見て楽しむ気なのかもしれない。
そうした加虐思考の客も確かに存在しているのだ。

だとしても、ディーンにはどうすることもできない。
出来ることがあるとすれば、今更ながら、レイシャに会わないようにすることだけだ。

「頼める?」

レイシャから財布を受け取ると、ディーンは黙って頷いた。

娼館に戻ると、ディーンは店主から直接いくつか鞭を見せてもらい、憂鬱な気持ちで固そうなものを選んだ。
そこに、客の見送りを終えたアレンが近づいてきた。

「やっかいな客か?治療薬は安くない。足が出ないように気をつけろよ」

客の中には、どの鞭で打たれたいかと、男娼自身に選ばせる残忍な客もいる。
アレンはそうした客に、ディーンが鞭を買わされているのではないかと心配した。
金払いが良ければいいが、もし悪ければ、治療費の方がかさむことになる。

ディーンはアレンに手短に事情を話した。
アレンも、夫からの警告ではないかというディーンの考えに同意したが、もう一つの可能性も示唆した。

「試されているのは彼女の方だという可能性もある。男を買うのも夫の許可があってのことだと感謝と服従を促している可能性だ」

軽く振っただけで、刃で切ったかのような傷が出来る固い鞭を握りしめ、ディーンはやはりこれは渡せないと考えた。
店主に話し、二番目に威力のある鞭を購入する。

「それでも出血は免れない、痛みの強いものだ」

店主の説明に、ディーンの表情は苦痛に歪んだ。

「ディーン、客の事情にはあまり深入りしないことだ。お前も知っているだろう?振り回されても良いことはない。所詮は買われる側だ」

アレンが忠告する。
客にのめり込み、男娼の方が貢いでしまうこともある。

しかしレイシャとディーンの関係は、そうしたものでもない。
裕福で自分よりずっと恵まれた境遇にある女性だと妬んだこともあるが、今はそんな風には思えない。
 
ディーンは包みを持ってレイシャのところへ向かいながら、ベンチで一人待つレイシャの姿を見つめた。

かごを抱えるその手は、柔らかく温かな手だが、決して苦労をしていない手ではなかった。

レイシャが戻ってくるディーンに気づき、微笑んだ。
ディーンも微笑み返し、やはり躊躇いがちに包みを渡した。

「今度は痛みもあるし、傷も出来る……」

心からほっとしたようにレイシャは頷いた。

「嫌なことを頼んでごめんなさい。助かったわ。私はすぐに夫に口答えするから、苛つかせてしまうの。なんとか使われないように頑張るわ」

鞭の代金を引いてもたっぷり残った重たい財布を、ディーンはレイシャに返した。

レイシャはいらないのにと言いかけたが、黙って受け取り、かごにしまった。
ベンチから立ち上がろうとするレイシャに、ディーンが手を差し出した。

「送って行くよ」

朝の通りは空いている。
手を引いてもらわなくても迷子になる心配はないし、危ない道でもない。
手を繋ぐ理由を思いつくことが出来ないまま、レイシャはディーンの手をとった。

自分をひっぱる頼もしい手に導かれ、レイシャはディーンと歩き出した。
少し前をディーンが進み、その半歩後ろを手を引かれ、レイシャがついていく。
ディーンは真っすぐ前を向いていた。
見つめ合い、微笑みあうようなことはしなかった。

まるで、道案内をしているだけだと言い訳でもしているかのように、表情を硬くして歩き続ける。
裏門を出ると、森の入り口でテントを張っていた人たちが、町の警備兵たちに追い払われていた。

邪魔にならないように迂回し、森の小道に入ろうとしたとき、突然テントを畳んでいた一団の中から一人の女性が走ってきた。

先に気づいたのはレイシャで、ディーンはレイシャに腕を引っ張られて足を止めた。

「ディーンのお客さんじゃない?」

レイシャが指さす方に視線を向けたディーンは、亡霊を見たかのように青ざめた。
若くもない女が満面の笑みを湛え、ディーンに向かって走ってくる。

「ディーン?ディーンではない?」

なれなれしく名前を呼び、近づいてくる女を見て、レイシャはそばを離れようとした。

逃げようとするレイシャの手をディーンが強く握りしめた。
痛いぐらいの力に驚き、レイシャはディーンを見上げた。
ディーンは表情がくっきりと見えるほど近づいてきている女性を、人違いであって欲しいと願うように目を細めて睨んでいる。

「まさか、アンナか?」

低く発せられたディーンの声は、少し震えていた。

初めて聞くディーンのそんな声に、レイシャは注意深く二人を見比べる。
名前を呼ばれた女は、ディーンの前で足を止め、うれしそうに頷いた。


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