聖なる衣

丸井竹

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6.台無しになった夕食

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 全身に雪を張り付けて入ってきた女は、フードを落とし、男物の上着を脱いだ。
雪の塊がばらばらと床に落ち、あっという間に小さな水たまりになって床板に染みこむように消えていった。
壁際に上着をかけ、髪先から滴る水を軽く手で払うと、女はテーブルに目を向けた。

三人分の夕食が並び、その傍らに息子が立っていた。

「あ……おかえりなさい……」

その声は小さくすぼみ、先ほどまでの高揚感は嘘のように消えていた。
死んだような顔で女はいつもの席に座り、誰を待つこともなく息子が準備した食事を食べ始める。

躊躇いながら、息子は右側の椅子に座った。
父親の席はまだ空いている。
三人で食べることになっているため、息子は食事に手を付けずに待っていた。
ちらりと扉を見て、両手をひざの上で重ね合わせる。

うなるような風の音は続いており、カーテン越しに、雪が窓に叩きつけられるかすかな音が聞こえてくる。

「父さんが……厩舎の様子を見に行っているから」

話し出した声はまたしても小さくなって消えてしまった。
うつむいた息子は、目だけを上げて生みの母親をちらりと見た。

父親とうまく話しが出来るようになり、少し自信のついた息子は、思い切って口を開いた。

「あの……母さん……」

その瞬間、女の腕がテーブルの上を薙ぎ払った。
大きな物音と共に、皿が壁に叩きつけられ、スープが飛び散った。
そんな乱暴な行為を間近で見たことのない息子は、恐怖に駆られ、椅子を滑り降りて壁際に逃げた。

その時、扉が開き、雪混じりの強い風が室内に吹き込んだ。
ランプの炎が揺れ、天井や壁に大きな影が伸びる。

「どうした?」

影が急速に萎み、扉が閉まると風も止んだ。
飛び込んできたのは、扉越しにちょうど物音を聞いた男だった。
室内の状況を素早く確認する。

テーブルを正面に、女が背中を向けて立っている。
その左の壁には野菜くずが張り付き、液体が滴っている。
女の左袖には食事を薙ぎ払った時に出来た汚れが付着していた。

床には割れた皿やパンが散らばっている。
反対側に息子がいた。
完全に怯えた表情で、背中を壁に押し付け両手を強く握っている。

「と、父さん……」

父親がどちらの味方をするのかわからず、息子の声は不安で震えていた。
二人を見比べ、男は息子に駆け寄った。
ほっとしたように表情を緩め、息子は泣きながら父親の胸に抱き着いた。

恐怖に支配され、言葉も出ない息子の背中を撫で、男は素早く告げた。

「部屋に行っていろ」

「僕、何も、何もして……ない」

涙声でなんとか訴えた息子に、男はかすかに微笑み頷いた。
息子は奥の部屋に走って消えた。
男は女を振り返る。

「エリン、怪我はないか?何が気に障った?」

一日の大半を息子と過ごしている男は、息子が物に当たるような子供ではないとわかっている。
食事の用意をした後に、息子が気に障ることを言ったのかもしれないと考えた。
女は無言だった。凍てついた表情でテーブルに残された二人分の食事をじっと見つめる。

湯気のたつスープと温められたパンが皿に乗っている。
それを、女は突然もう一度左腕で払いのけた。
大きな物音と共に食事が床に散らばった。
皿が割れる音が響き、割れなかったカップがテーブルの下で回転し始める。

部屋に戻った息子が怯えていないか気に掛けながら、男は女の体をテーブルから引き離した。

「エリン、食事が気に入らないのか?」

黙っている女を男は後ろから抱きしめた。
肘を後ろに突き出し、女は強い力で男を跳ねのけた。
その力に歯向かうことはせず、男はすぐに手を離したが、女の傍に留まった。

「以前は……もっと口をきいてくれたはずだ。名前も教えてくれた。何が気に入らないのか教えてくれ。俺は……やり直したいんだ」

愛はなかったとはいえ、子供が出来た。
その現実に立ち向かうこともせず、逃げ出したせいで、娘を手放すことになった。

取り戻せない過ちを思い出すたびに、体の一部を引きちぎられるような痛みを感じる。
子供が出来た現実から逃げることなく耐え抜いた女と家庭を築き、その償いをしたいのだ。

まだ幼い息子にもまだ家族は必要だ。
両親から愛されて育った男は、今度こそ理想とする家庭を作りたかった。

ゆっくりと女が顔を上げた。
感情の無い凍てついた表情で、口を開く。

「やり直せない。もう……絶対に」

久しぶりに耳にした女の声は冷やかで、その言葉は容赦のないものだった。
咄嗟に返す言葉もなく、男は奥歯を噛みしめた。
一方の思いだけでは、家庭を作ることはできない。

男の腕をすり抜け、女は壁にかけてある上着をとりあげた。
鋭い風の音がまだ外から聞こえている。

「ま、まて!まだ外は吹雪だ。厩舎の扉を打ち付けてきたばかりだ。外は危険だ」

雪風が吹きこみ、女の髪が舞い上がる。
閉まりかけた扉を押さえ、男は女を追って外に出た。
真っ暗闇に風だけが吹きつける。

足の裏の感触を頼りに歩きだすが、方向を見失えば一瞬で遭難してしまう。

「エリン!待て!」

吹き付ける雪風を片腕で防ぎながら顔を上げた時、作業小屋の窓からこぼれる灯りが見えた。
そこを目掛けて進み、扉を開けて中に入る。

女は小刀を手に棺桶を削っていた。その手元には、火の入ったランプがある。
まるで何事も無かったかのように、女は真剣な顔つきで、手元の刃先を見つめている。

遺体を置くことがあるため、作業場は常に寒く、白い息が闇に浮かび上がる。
木を削る音が淡々と響きだし、男は会話を断念した。
灰のたまった暖炉を軽く掃除し、薪を積み上げ火をつける。

暖炉の炎が勢いよく燃え始め、作業小屋全体が温かな光に包まれた。

木を削る音が続く中、男は作業を邪魔しないように静かに外に出て、今度は住居の灯りを頼りに風の中を進み、小屋に入った。
汚れた壁と床はそのままで、台所のランプが食堂の一部を照らし出している。
廊下から小さな足音がして、不安そうな少年が顔を出した。

男は息子に近づき、その細い体を抱きしめた。

「怖い思いをさせてすまなかった。何があったか教えてくれるか?」

震える声で息子は、先ほど起きたことを説明し、男はそれを黙って聞いた。

「役に立とうと思ったんだ……」

家族のために夕食を準備して、母親に話しかけた。
それが女の気に障ったのだ。

「彼女の傍から、まだ幼いお前を連れ去ったのは俺だ」

「どうして?」

世話をしていないように見えたからだとは言えなかった。
通常の母親のように子供を育てられるとは思えなかった。
それでも、引き離すことなく、見守るべきだったのかもしれない。
母親になろうとしていた彼女から子供を取り上げたのに、今更母親に戻れとは言えない。

男は息子の頭を優しく撫でた。

「俺が間違えた判断をした。彼女はきっと俺に腹を立てている。お前のせいじゃない」

男は食堂を振り返り、散らばったお皿や食事を見回し、掃除道具を取りに向かった。

「部屋に行っていろ。用意が出来たら呼んでやる」

ところが、息子は男についてきた。

「掃除は教会でもやっているし、厩舎の片付けも出来る。僕も手伝えるよ」

二人は食堂の床を協力して片付けた。
吹雪の音は夜中続き、女は朝まで戻ってこなかった。


 翌朝、いつの間にか吹雪は止み、息子は自分の部屋の寝台でぐっすり眠った。
男は眠ることが出来ず、朝方毛布を持って作業小屋に向かった。
真っ白になった地面を、足で踏んで道を付け、雪の張り付いた扉を開けた。

弱々しい朝の光が差し込む作業小屋に、息をのむほど美しい彫刻が完成していた。
棺桶の蓋に描かれたその美しい景色には、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる女神がいた。
王族でもこんな棺桶に眠ることは出来ないだろうと思われるほどの見事な仕上がりだった。

その棺桶の傍らに、女が膝を抱えた状態で壁に背を付け眠っていた。
男はそっと近づき、毛布で女の体を巻いた。
その時、女の指先が血まみれであることに気が付いた。

固くなったタコが寒さで割れ、荒れた手は、さらに痛々しく傷ついている。
血のにじむ包帯が巻かれている指もあった。
なんとなく、男は眠る女の隣に座り、体を寄せた。

冷え切った女の体が少しずつ男の体の熱を受けて、温かくなってくる。
口元から白い息が出ているが、その呼吸は落ち着いている。

「エリン……俺を恨んでいるのか?」

小さな声で男は問いかけた。
その声は寒さのなかでひんやりと消えていった。

 それから少しの間、三人は張り詰めた緊張感の中で過ごした。
男は息子と女がふたりきりにならないように気を付け、息子は男の帰りが遅ければ自室で待つようになった。

息子から笑顔が消えてしまうのではないかと男は心配だったが、息子は家の外に出て教会で学び、男の仕事を手伝っているうちに、落ち着きを取り戻し、家でも怯えずに三人で食事がとれるようになった。

やはり、家以外に居場所があることが良い気晴らしになったのだ。
息子は勉強のついでに神官長のロベルとたわいもないおしゃべりをしたし、父親と二人になれば、おしゃべりはさらに止まらず、店に行けば従業員たちとも楽しく過ごした。

教会の祈りの間に行くのも息子の楽しみの一つで、父親と祭壇前に並び、教会で習った祈りの言葉を得意げに唱えた。
大抵、神官長のロベルが傍におり、帰り際に息子が上手に祈れたことを褒め、優しく微笑みかけた。

 厳しい寒さの続く中、男は三人の生活がうまくいくように努めたが、女の態度は頑なであり、息子は完全に母親に歩み寄ることを諦め、目も合わせようとしなかった。
 
 凍てついた空気が少しだけ和らいできたある夜、男は息子とエリンが眠ったのを見届け、教会へ向かった。

その日、寝ずの番で祭壇横の椅子に座っていた神官長のロベルは、戸口から吹き込んできた風に身を震わせ、うたた寝から目を覚ました。

扉を入ってくる男を見ると、ロベルは温かく微笑んだ。

「ロベル様、教えて欲しいことがあります」

祈りの間の祭壇近くまで進み出て、男はそう切り出した。

「エリンの家族についてです。彼女は子供の育て方をまるで知らないように見えます。
でも、最初からうまく育てられる人はいないでしょう。俺は彼女に必要な手助けをせず、乱暴な方法をとってしまった。それを後悔しているのです。彼女の育った環境について教えてもらえませんか?」

温厚なロベルの表情にわずかな陰りが生じた。
それは一瞬で、男はロベルの表情に過った深い闇に気づくことができなかった。
祭壇の淡い蝋燭の光の中に立ち、視線を合わせた時には、ロベルはもういつもの温厚な表情に戻っていた。



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