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62.精霊の森に魅入られて
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冬の気配が迫る森の中を、アルノは一人で歩いていた。
足の下で積もった落ち葉がさくさくと音を立てている。
いくらも行かないうちに、さっそくマカの実が見つかった。
持ち上げたスカートにそれらを収穫する。
そのままなんとなく歩き続け、精霊に導かれるように空き地に到着すると、裏側の斜面の下には上部の折れた大木が立っていた。
太い根に囲まれた洞も以前のままだ。
洞の周辺だけ、落ち葉がきれいに掃き寄せられている。
低い斜面を下り、落ち葉の山を崩さないように、洞の中を覗き込む。
湿った土と木の香りを吸い込み、アルノはうっすらと微笑んだ。
逸る気持ちを堪えきれず、洞の中に足を下ろす。
暗がりを進み、淡い光の降り注ぐ部屋の真ん中までくると、冷たい地面に腰を下ろした。
荷物を片隅に置いて、壁際に並んだ道具を確かめる。
と、背後からさらさらと落ち葉が落ちてくる音がした。
手を止めて後ろを振り返る。
薄闇に、暗い目をしたゼインの姿があった。
壁際に身を寄せて片膝をついている。
入ってきた時に崩したせいか、落ち葉がはらはらと洞の底に落ちていた。
アルノは少し驚いた表情になったが、すぐに道具の方に向き直る。
マカの実を木の器に移し、道具を組み立てていく。
宣誓液を作る工程は複雑で、作業は繊細だ。
一年ぶりだというのに、そこにあった道具は新品同様に磨き上げられ、すぐにでも使える状態になっていた。
体に染みついた動きで、黙々と作業を進めるアルノの頭上から、一片の雪が降って来た。
凍てついた風までが吹き込み、外からは吹雪の音まで聞こえてくる。
広くもない洞の中で、アルノは作業に没頭し、ゼインは息を潜め、入り口付近で剣を抱いたまま座っていた。
薄闇は深まり、夜が訪れた。
音もなく、大きな雪狼がのそりと現れた。
ゼインが道をあけると、雪狼はアルノの傍らに横たわり、尻尾を丸めた。
アルノはちょうど、一本目の小瓶に宣誓液を注いでいるところだった。
一滴もこぼさず、慎重に小瓶に移し替えると、丁寧に蓋を嵌めこむ。
ほっと一息つき、アルノはかごを引き寄せて、その中に出来たばかりの宣誓液の小瓶をそっと置いた。
もう一度息を吐き出し、アルノはゆっくり後ろを向いた。
ゼインはアルノの方を見ていた。
視線を合わせると、ゼインはすぐに顔を逸らし、無言で洞を出ていく。
その背中に促されるように、アルノもゼインを追って外に出た。
いつの間にか吹雪は収まり、地面を覆う落ち葉の上には、うっすらと雪が積もっている。
斜面をのぼり空き地に出ると、地面に積もった雪が、遮るもののない月明かりを反射し、そこをひときわ明るい場所に変えていた。
森にぽっかりと出来たその光溢れる空間に、ゼインが後ろを向いて立っていた。
その向こうには、葉を落としきった木々が連なる黒々とした森が広がっている。
アルノは懐かしい空き地を見渡し、倒れている丸太の上に腰を下ろした。
後ろを向いていたゼインが、その気配を察したようにアルノの正面に移動する。
ざくざくとした雪を踏む音と、その下にある土と枯れ葉が地面に沈む音が、しんとした夜闇に響く。
音が止むと、アルノが口を開いた。
「どうして……私達の結婚が、契約結婚だとユアンジール殿下に話したの?あれは本物の結婚だったでしょう?」
「君の、幸せのためだとでも言われたいのか?俺の為だ。俺は……結婚をやめたかった」
「そう。じゃあ、子種だけもらう」
「何を言っている。お前には、ユアンジール様がいるだろう。アーダン国の王太子だ。あの方は時期国王だぞ?しかも精霊王の血筋とも言われている。なぜ戻ってきた?」
「駄目だったの……」
「何が駄目だった?あの方は、優しい方だったはずだ」
歓迎会の時に、ゼインはユアンジール王太子と言葉を交わしている。
精霊の加護を受けたとすぐにわかるほどの、神聖な気配を身にまとっていた。
アルノを傷つけるような男ではないと、ゼインは確信したのだ。
「彼は……毒殺されかけて、大変なおもいをして国を取り戻した人だったのだけど……。あまりにも良い人だったのよ。私みたいにひねくれていなかったの。
人望もあって、部下に慕われていて、友人もいて、仲の良い家族までもいるの。
わかるでしょう?息が詰まっちゃうのよ。
私は……誰かを本当に好きになったことがないし、近づいてくる人が全員敵に見えてしまう。誰も信じられない私が、人に慕われる場所に立てるわけがないでしょう?」
アルノは靴先で地面の雪を払いのけ、落ち葉の下を掘り返した。
「クシールみたいに、上手に仮面を被れたら良かったのだけど、それは難しくて……。もっと居心地が良い場所を知っていたら、逃げたくなっちゃうのよ」
「逃げて来たのか?」
とんでもないことをしてくれると、ゼインは小さく舌打ちをした。
「アーダン国と関係が悪くなったら、どうするつもりだ」
「ユアンジール様が良い方だと知っているでしょう?」
「しかし……」
月明りを背にしているため、ゼインの顔は見えない。
アルノはつま先で地面を掘って遊びながら、顔をあげた。
「ゼイン、あなたを雇って良い?私、ここの契約師に戻るの」
「俺の仕事はクシールが決めている」
「うそよ。二人は対等でしょう?子供からも、私からも逃げるの?」
両脇に下ろされていたゼインの手の影が拳になった。
「俺は幸福なんて夢見たことはない。家族も子供もいらない。そんなものに魂を売り飛ばす気はない」
「でも私達は結婚した。あなたが告白してくれたのよ」
「それは……」
「私達、似た者同士よ。ひねくれていて、人間不信。だけど、ゼインは私よりずっとまし。
私は妄想の世界に逃げ続けたけれど、あなたは、逃げることなく自分の運命に立ち向かって来た。
だから、あなたが好きなの。その背中を見ていると、私でも少しはましな人になれる気がするから。
諦めることなく戦ってきた傷だらけの背中に……私はきっと恋をしている。あなたが苦手なこと、面倒なことは私が全部引き受けるから。それに、人にも頼る」
黙り込んだ影を見上げ、アルノは込み上げてくる苦痛を飲み込んだ。
ゼインの影が微かに動いた。
「あの時は……君を欲しいと思った。だけど……君の望むことがわからなくなった」
性的な欲求を満たすことだけ考えていられたら楽だった。
「クシールとのことは目をつぶる。私達には異なる過去がある。人のものばかり羨ましく思ってきたけれど、私には私の幸せがあると気がついたの。だから、そのままのあなたを受け入れる」
ゼインの影がアルノに一歩近づいた。
「一体……この一年で何があった?何が君を変えた?」
幾分緊張しているかのような硬いゼインの声を聞きながら、アルノは勇気を振り絞った。
「一人で……精霊の山に登ったの。誰にも会わず、何か月もそこにいた。
今までの人生と完全に切り離されたその場所は、本当に居心地がよくて、とても幸せだった。
心穏やかでいられたし、このまま山を下りずに生きていくことさえ考えた。
それで良いと思ったのよ……。だけど、あなたのことを思い出した。
初めて体を重ねた時、私はあなたの強さに圧倒された。
クシールに何度も説教されたし、師匠にも打たれて怒鳴られてきた。
周りに何を言われても、誰の言葉も私の心には響かなかった。
だけど……あの時、あなたは確かに私の心に触れた。
あなたは、理不尽な世界に正面から立ち向かい、逃げずに戦った。
苦しみの中で、血を流しながら前を向き続けた。
その強さと残忍さはまるで……森で生きる野生の獣のようだった。
命が尽きるまで、瀕死であっても絶対に諦めないしぶといぐらいの強さ。
私は未熟なところばかりで、すぐに逃げ出してしまう。
だけど、あなたと一緒なら、こんな私でも少しは成長出来る気がするの。
私もあなたが望むものを全てあげられるわけじゃないけど、あなただって、私の全てを満たせない。
私は……どうしても一人の時間が必要だし、人嫌いも治らない。
きっと、あなたからも逃げたくなるし、森に隠れてしまう。
だから、お互い様にしない?私は今、あなたの傍にいたい」
ゼインは理不尽に体を奪われてきた分、それ以上の凶暴さで誰かを抱いて鬱憤を晴らす必要がある。
いつの日か、心の内に居る凶悪な獣が鎮まり、穏やかな愛を望む日が来るかもしれない。
だけどそれはいつかであって、今ではない。
「そのままの、あなたが好きなの。だから、あなたの妻でいたい」
ひねくれもののアルノとは思えないような言葉に、ゼインは絶句し、ただ拳を握りしめて立っていた。
やがて、ゼインの影が大きく動いた。
「考えさせてくれ」
村の方を向き、ゼインは空き地を出て行く。
黒々とした木立の中にゼインの影が消えてしまうと、アルノはこぼれ落ちてきた涙を拭い、頭上を見た。
精霊の山にいた時よりも遠くなった銀色の月が、冷やかに夜空に浮かんでいる。
精霊たちもまた、人間達のつまらないいざこざを冷めた目で見ているのだ。
美しく見えても、自然は残酷だ。
残念ながら、アルノは甘く優しい世界より、その残酷な世界に惹かれるのだ。
いつの間にか、大きな雪狼が隣に立っていた。
その首の下に手を入れ、やさしく撫でてやりながら、アルノはそっと頭をよりかからせた。
「これで失恋したら、今度こそ独り者ね。師匠と同じように、おばあさんになるまで一人ぼっちよ。でも……お墓を作ってくれる人ぐらいはいるかもしれない」
アルノは城で働いてくれているロタ村の住人たちのことを思い浮かべた。
クレンとカーラも会いに来てくれるかもしれない。
そうでなかったとしても構わない。
アルノの目的は人ではない。
「結局……私を仕事に縛り付けようとしてきたクシールに感謝することになりそうね」
アルノは雪狼の首に抱き着き、唇を寄せると立ち上がった。
月に背を向け、また古木の洞に向かう。
月が出ているうちが一番良い宣誓液が出来ると言われている。
迷信かもしれないが、迷信じゃない可能性だってある。
天井から落ちてくる月明りの下に座り込み、アルノは再び残ったマカの実を石臼の中に並べ始めた。
足先に感じた冷たさに、アルノは膝を引き寄せ、目を開けた。
濡れた落ち葉が、すぐ傍まで落ちてきている。
さらにざらざらと音を立て、土や葉が落ちてきた。
何事かと首を起こすと、洞の口からニルドの顔が現れた。
「いつまでここにいるつもりだ?知っているか?もう五日目だぞ」
「もうそんなに経ったの?」
洞の中で宣誓液を作り始めると、時が経つのを忘れてしまう。
一本完成するたびに仮眠をとり、クスリの実を齧っては、また作り始める。
気紛れにやってくる雪狼に温めてもらいながら、それを繰り返し、いつの間にか宣誓液の瓶が五本もかごに並んでいた。
こんなことだから、ゼインに浮気をされてしまうのだ。
洞の底で丸まっていたアルノは、やっと体を起こすと、全身についた土汚れを叩いて落とす。
「それで、子供はまだ出来ないのか?」
「は?!五日で出来ると思うの?それどころか……」
ゼインとうまくいくかもわからないのに、何を言っているのかとアルノはニルドをじろりと睨む。
「皆が、楽しみにしているぞ。交代で子守をすることにした。あと、母乳はどうする?」
「母乳?!子供も出来ていないのに、どうしてそんなに先走るの?!だいたい……ゼインとだってまだ……」
ニルドの先走りは今に始まったことではないことを思い出し、アルノはまたため息をついた。
「責任者にしたのは間違いだったかも」
「もう遅いぞ。早く、種をもらって来いよ」
「強姦魔に言われたくない!」
ぴしゃりと言って、アルノは心にあった怒りや苛立ちが消えていることに気が付いた。
ニルドのしたことには多少もやもやするが、それ以外の負の感情は見当たらない。
やっと大人になれた気分で、アルノは得意げな顔をあげた。
「そういえば、ニルドも仕事があるでしょう?五日もここにいるの?どうして?」
「え?だって、お前がここに戻るということは、また護衛が必要だろう?クシール様に正式に要請されたぞ。騎士団には連絡がいっているし、俺はお前の護衛で、またこの森の周辺を見回ることになる。お前のおかげでまた故郷で働ける」
「まだ契約師は狙われているの?」
「精霊の力を失った国にとっては脅威になる存在だ。仕方がない。最近では誘拐が流行りだ」
「流行りって……」
犯罪にも時代の流れがあるのかと、アルノは変に感心してしまう。
「まぁ、私には関係ない話ね。私は自分の仕事をするだけだから。一度、マカの実を見つけられなくなったことがあったのよ」
「え?!まずくないか?」
驚いたニルドが、飛び上がるような動きをして、頭を入り口の天井にぶつけた。
鈍い音がして、顔を歪める。
頭を押さえながら、ニルドが外に出ていくと、背後から明るい光が差し込んだ。
昼夜の区別もなく働いたアルノは、昼間の明るさに眩しそうに腕をかざす。
「でも、対処方法が出来たの。アーダン国の精霊の木の雫を飲めば、見つけられるように戻るみたい。だから、もうそんな心配は不要よ」
「クシール様が喜ぶな」
「少ない燃料で温かいお風呂に入り続けたい王国の高貴な方々に朗報でしょう?」
光に目を慣らし、アルノはかごを抱いて、洞から這い出した。
ニルドが自然に手を貸し、アルノを洞からひっぱりあげる。
服についた土を払いながらアルノは斜面を登りだす。
空き地に足を踏み入れた途端、さらに眩しい光が溢れ出た。
「うわっ……」
腕をかざし、アルノは目を細めた。
空き地を埋め尽くす落ち葉の上に、雪が積もっている。
月明りと違い、照り返される光も強い。
「ずいぶん降ったの?」
「昨夜だけだ。すぐに消えるさ」
本格的な冬が来るまでには、まだ一カ月近くもある。
「帰るだろう?」
ニルドは当然のようにロタ村の方に歩き出す。
「そうね」
知り合いに会うのも嫌だし、今更誰かと仲良くなる気も全くない。
それをわかっているかのように、前を歩くニルドの背中を、アルノは機嫌よく追いかけた。
静かな森の中を二人分の足音が響く。
アルノは少し歩調を遅らせ、ニルドから距離をとった。
不思議なものだと考える。
人の居ない世界が一番心地が良いとわかっているのに、山を下りてしまった。
多少の窮屈さは感じているが、後悔はしていない。
これからも面倒なことばかり起きるだろう。
見知らぬ敵に殺されかけるかもしれないし、ゼインの愛人用の部屋が増えるかもしれない。
マカの実がとれなくなることもあるかもしれないし、逃げたくなることもあるだろう。
それでも、この森に帰って来たかったのだ。
遠くなった空の下、雪を乗せた煌めく木々の間を歩きながら、アルノは懐かしい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
足の下で積もった落ち葉がさくさくと音を立てている。
いくらも行かないうちに、さっそくマカの実が見つかった。
持ち上げたスカートにそれらを収穫する。
そのままなんとなく歩き続け、精霊に導かれるように空き地に到着すると、裏側の斜面の下には上部の折れた大木が立っていた。
太い根に囲まれた洞も以前のままだ。
洞の周辺だけ、落ち葉がきれいに掃き寄せられている。
低い斜面を下り、落ち葉の山を崩さないように、洞の中を覗き込む。
湿った土と木の香りを吸い込み、アルノはうっすらと微笑んだ。
逸る気持ちを堪えきれず、洞の中に足を下ろす。
暗がりを進み、淡い光の降り注ぐ部屋の真ん中までくると、冷たい地面に腰を下ろした。
荷物を片隅に置いて、壁際に並んだ道具を確かめる。
と、背後からさらさらと落ち葉が落ちてくる音がした。
手を止めて後ろを振り返る。
薄闇に、暗い目をしたゼインの姿があった。
壁際に身を寄せて片膝をついている。
入ってきた時に崩したせいか、落ち葉がはらはらと洞の底に落ちていた。
アルノは少し驚いた表情になったが、すぐに道具の方に向き直る。
マカの実を木の器に移し、道具を組み立てていく。
宣誓液を作る工程は複雑で、作業は繊細だ。
一年ぶりだというのに、そこにあった道具は新品同様に磨き上げられ、すぐにでも使える状態になっていた。
体に染みついた動きで、黙々と作業を進めるアルノの頭上から、一片の雪が降って来た。
凍てついた風までが吹き込み、外からは吹雪の音まで聞こえてくる。
広くもない洞の中で、アルノは作業に没頭し、ゼインは息を潜め、入り口付近で剣を抱いたまま座っていた。
薄闇は深まり、夜が訪れた。
音もなく、大きな雪狼がのそりと現れた。
ゼインが道をあけると、雪狼はアルノの傍らに横たわり、尻尾を丸めた。
アルノはちょうど、一本目の小瓶に宣誓液を注いでいるところだった。
一滴もこぼさず、慎重に小瓶に移し替えると、丁寧に蓋を嵌めこむ。
ほっと一息つき、アルノはかごを引き寄せて、その中に出来たばかりの宣誓液の小瓶をそっと置いた。
もう一度息を吐き出し、アルノはゆっくり後ろを向いた。
ゼインはアルノの方を見ていた。
視線を合わせると、ゼインはすぐに顔を逸らし、無言で洞を出ていく。
その背中に促されるように、アルノもゼインを追って外に出た。
いつの間にか吹雪は収まり、地面を覆う落ち葉の上には、うっすらと雪が積もっている。
斜面をのぼり空き地に出ると、地面に積もった雪が、遮るもののない月明かりを反射し、そこをひときわ明るい場所に変えていた。
森にぽっかりと出来たその光溢れる空間に、ゼインが後ろを向いて立っていた。
その向こうには、葉を落としきった木々が連なる黒々とした森が広がっている。
アルノは懐かしい空き地を見渡し、倒れている丸太の上に腰を下ろした。
後ろを向いていたゼインが、その気配を察したようにアルノの正面に移動する。
ざくざくとした雪を踏む音と、その下にある土と枯れ葉が地面に沈む音が、しんとした夜闇に響く。
音が止むと、アルノが口を開いた。
「どうして……私達の結婚が、契約結婚だとユアンジール殿下に話したの?あれは本物の結婚だったでしょう?」
「君の、幸せのためだとでも言われたいのか?俺の為だ。俺は……結婚をやめたかった」
「そう。じゃあ、子種だけもらう」
「何を言っている。お前には、ユアンジール様がいるだろう。アーダン国の王太子だ。あの方は時期国王だぞ?しかも精霊王の血筋とも言われている。なぜ戻ってきた?」
「駄目だったの……」
「何が駄目だった?あの方は、優しい方だったはずだ」
歓迎会の時に、ゼインはユアンジール王太子と言葉を交わしている。
精霊の加護を受けたとすぐにわかるほどの、神聖な気配を身にまとっていた。
アルノを傷つけるような男ではないと、ゼインは確信したのだ。
「彼は……毒殺されかけて、大変なおもいをして国を取り戻した人だったのだけど……。あまりにも良い人だったのよ。私みたいにひねくれていなかったの。
人望もあって、部下に慕われていて、友人もいて、仲の良い家族までもいるの。
わかるでしょう?息が詰まっちゃうのよ。
私は……誰かを本当に好きになったことがないし、近づいてくる人が全員敵に見えてしまう。誰も信じられない私が、人に慕われる場所に立てるわけがないでしょう?」
アルノは靴先で地面の雪を払いのけ、落ち葉の下を掘り返した。
「クシールみたいに、上手に仮面を被れたら良かったのだけど、それは難しくて……。もっと居心地が良い場所を知っていたら、逃げたくなっちゃうのよ」
「逃げて来たのか?」
とんでもないことをしてくれると、ゼインは小さく舌打ちをした。
「アーダン国と関係が悪くなったら、どうするつもりだ」
「ユアンジール様が良い方だと知っているでしょう?」
「しかし……」
月明りを背にしているため、ゼインの顔は見えない。
アルノはつま先で地面を掘って遊びながら、顔をあげた。
「ゼイン、あなたを雇って良い?私、ここの契約師に戻るの」
「俺の仕事はクシールが決めている」
「うそよ。二人は対等でしょう?子供からも、私からも逃げるの?」
両脇に下ろされていたゼインの手の影が拳になった。
「俺は幸福なんて夢見たことはない。家族も子供もいらない。そんなものに魂を売り飛ばす気はない」
「でも私達は結婚した。あなたが告白してくれたのよ」
「それは……」
「私達、似た者同士よ。ひねくれていて、人間不信。だけど、ゼインは私よりずっとまし。
私は妄想の世界に逃げ続けたけれど、あなたは、逃げることなく自分の運命に立ち向かって来た。
だから、あなたが好きなの。その背中を見ていると、私でも少しはましな人になれる気がするから。
諦めることなく戦ってきた傷だらけの背中に……私はきっと恋をしている。あなたが苦手なこと、面倒なことは私が全部引き受けるから。それに、人にも頼る」
黙り込んだ影を見上げ、アルノは込み上げてくる苦痛を飲み込んだ。
ゼインの影が微かに動いた。
「あの時は……君を欲しいと思った。だけど……君の望むことがわからなくなった」
性的な欲求を満たすことだけ考えていられたら楽だった。
「クシールとのことは目をつぶる。私達には異なる過去がある。人のものばかり羨ましく思ってきたけれど、私には私の幸せがあると気がついたの。だから、そのままのあなたを受け入れる」
ゼインの影がアルノに一歩近づいた。
「一体……この一年で何があった?何が君を変えた?」
幾分緊張しているかのような硬いゼインの声を聞きながら、アルノは勇気を振り絞った。
「一人で……精霊の山に登ったの。誰にも会わず、何か月もそこにいた。
今までの人生と完全に切り離されたその場所は、本当に居心地がよくて、とても幸せだった。
心穏やかでいられたし、このまま山を下りずに生きていくことさえ考えた。
それで良いと思ったのよ……。だけど、あなたのことを思い出した。
初めて体を重ねた時、私はあなたの強さに圧倒された。
クシールに何度も説教されたし、師匠にも打たれて怒鳴られてきた。
周りに何を言われても、誰の言葉も私の心には響かなかった。
だけど……あの時、あなたは確かに私の心に触れた。
あなたは、理不尽な世界に正面から立ち向かい、逃げずに戦った。
苦しみの中で、血を流しながら前を向き続けた。
その強さと残忍さはまるで……森で生きる野生の獣のようだった。
命が尽きるまで、瀕死であっても絶対に諦めないしぶといぐらいの強さ。
私は未熟なところばかりで、すぐに逃げ出してしまう。
だけど、あなたと一緒なら、こんな私でも少しは成長出来る気がするの。
私もあなたが望むものを全てあげられるわけじゃないけど、あなただって、私の全てを満たせない。
私は……どうしても一人の時間が必要だし、人嫌いも治らない。
きっと、あなたからも逃げたくなるし、森に隠れてしまう。
だから、お互い様にしない?私は今、あなたの傍にいたい」
ゼインは理不尽に体を奪われてきた分、それ以上の凶暴さで誰かを抱いて鬱憤を晴らす必要がある。
いつの日か、心の内に居る凶悪な獣が鎮まり、穏やかな愛を望む日が来るかもしれない。
だけどそれはいつかであって、今ではない。
「そのままの、あなたが好きなの。だから、あなたの妻でいたい」
ひねくれもののアルノとは思えないような言葉に、ゼインは絶句し、ただ拳を握りしめて立っていた。
やがて、ゼインの影が大きく動いた。
「考えさせてくれ」
村の方を向き、ゼインは空き地を出て行く。
黒々とした木立の中にゼインの影が消えてしまうと、アルノはこぼれ落ちてきた涙を拭い、頭上を見た。
精霊の山にいた時よりも遠くなった銀色の月が、冷やかに夜空に浮かんでいる。
精霊たちもまた、人間達のつまらないいざこざを冷めた目で見ているのだ。
美しく見えても、自然は残酷だ。
残念ながら、アルノは甘く優しい世界より、その残酷な世界に惹かれるのだ。
いつの間にか、大きな雪狼が隣に立っていた。
その首の下に手を入れ、やさしく撫でてやりながら、アルノはそっと頭をよりかからせた。
「これで失恋したら、今度こそ独り者ね。師匠と同じように、おばあさんになるまで一人ぼっちよ。でも……お墓を作ってくれる人ぐらいはいるかもしれない」
アルノは城で働いてくれているロタ村の住人たちのことを思い浮かべた。
クレンとカーラも会いに来てくれるかもしれない。
そうでなかったとしても構わない。
アルノの目的は人ではない。
「結局……私を仕事に縛り付けようとしてきたクシールに感謝することになりそうね」
アルノは雪狼の首に抱き着き、唇を寄せると立ち上がった。
月に背を向け、また古木の洞に向かう。
月が出ているうちが一番良い宣誓液が出来ると言われている。
迷信かもしれないが、迷信じゃない可能性だってある。
天井から落ちてくる月明りの下に座り込み、アルノは再び残ったマカの実を石臼の中に並べ始めた。
足先に感じた冷たさに、アルノは膝を引き寄せ、目を開けた。
濡れた落ち葉が、すぐ傍まで落ちてきている。
さらにざらざらと音を立て、土や葉が落ちてきた。
何事かと首を起こすと、洞の口からニルドの顔が現れた。
「いつまでここにいるつもりだ?知っているか?もう五日目だぞ」
「もうそんなに経ったの?」
洞の中で宣誓液を作り始めると、時が経つのを忘れてしまう。
一本完成するたびに仮眠をとり、クスリの実を齧っては、また作り始める。
気紛れにやってくる雪狼に温めてもらいながら、それを繰り返し、いつの間にか宣誓液の瓶が五本もかごに並んでいた。
こんなことだから、ゼインに浮気をされてしまうのだ。
洞の底で丸まっていたアルノは、やっと体を起こすと、全身についた土汚れを叩いて落とす。
「それで、子供はまだ出来ないのか?」
「は?!五日で出来ると思うの?それどころか……」
ゼインとうまくいくかもわからないのに、何を言っているのかとアルノはニルドをじろりと睨む。
「皆が、楽しみにしているぞ。交代で子守をすることにした。あと、母乳はどうする?」
「母乳?!子供も出来ていないのに、どうしてそんなに先走るの?!だいたい……ゼインとだってまだ……」
ニルドの先走りは今に始まったことではないことを思い出し、アルノはまたため息をついた。
「責任者にしたのは間違いだったかも」
「もう遅いぞ。早く、種をもらって来いよ」
「強姦魔に言われたくない!」
ぴしゃりと言って、アルノは心にあった怒りや苛立ちが消えていることに気が付いた。
ニルドのしたことには多少もやもやするが、それ以外の負の感情は見当たらない。
やっと大人になれた気分で、アルノは得意げな顔をあげた。
「そういえば、ニルドも仕事があるでしょう?五日もここにいるの?どうして?」
「え?だって、お前がここに戻るということは、また護衛が必要だろう?クシール様に正式に要請されたぞ。騎士団には連絡がいっているし、俺はお前の護衛で、またこの森の周辺を見回ることになる。お前のおかげでまた故郷で働ける」
「まだ契約師は狙われているの?」
「精霊の力を失った国にとっては脅威になる存在だ。仕方がない。最近では誘拐が流行りだ」
「流行りって……」
犯罪にも時代の流れがあるのかと、アルノは変に感心してしまう。
「まぁ、私には関係ない話ね。私は自分の仕事をするだけだから。一度、マカの実を見つけられなくなったことがあったのよ」
「え?!まずくないか?」
驚いたニルドが、飛び上がるような動きをして、頭を入り口の天井にぶつけた。
鈍い音がして、顔を歪める。
頭を押さえながら、ニルドが外に出ていくと、背後から明るい光が差し込んだ。
昼夜の区別もなく働いたアルノは、昼間の明るさに眩しそうに腕をかざす。
「でも、対処方法が出来たの。アーダン国の精霊の木の雫を飲めば、見つけられるように戻るみたい。だから、もうそんな心配は不要よ」
「クシール様が喜ぶな」
「少ない燃料で温かいお風呂に入り続けたい王国の高貴な方々に朗報でしょう?」
光に目を慣らし、アルノはかごを抱いて、洞から這い出した。
ニルドが自然に手を貸し、アルノを洞からひっぱりあげる。
服についた土を払いながらアルノは斜面を登りだす。
空き地に足を踏み入れた途端、さらに眩しい光が溢れ出た。
「うわっ……」
腕をかざし、アルノは目を細めた。
空き地を埋め尽くす落ち葉の上に、雪が積もっている。
月明りと違い、照り返される光も強い。
「ずいぶん降ったの?」
「昨夜だけだ。すぐに消えるさ」
本格的な冬が来るまでには、まだ一カ月近くもある。
「帰るだろう?」
ニルドは当然のようにロタ村の方に歩き出す。
「そうね」
知り合いに会うのも嫌だし、今更誰かと仲良くなる気も全くない。
それをわかっているかのように、前を歩くニルドの背中を、アルノは機嫌よく追いかけた。
静かな森の中を二人分の足音が響く。
アルノは少し歩調を遅らせ、ニルドから距離をとった。
不思議なものだと考える。
人の居ない世界が一番心地が良いとわかっているのに、山を下りてしまった。
多少の窮屈さは感じているが、後悔はしていない。
これからも面倒なことばかり起きるだろう。
見知らぬ敵に殺されかけるかもしれないし、ゼインの愛人用の部屋が増えるかもしれない。
マカの実がとれなくなることもあるかもしれないし、逃げたくなることもあるだろう。
それでも、この森に帰って来たかったのだ。
遠くなった空の下、雪を乗せた煌めく木々の間を歩きながら、アルノは懐かしい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
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