精霊の森に魅入られて

丸井竹

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64.愛を知った獣と開いた蕾

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専属世話人として真面目に仕事をしたゼインのおかげで、一年経たず、アルノは無事に身ごもった。

おかげでノーラ山に留まることが可能になったが、全てがアルノの思い通りに進んだわけでもなかった。
なんとか出産までこぎつけたが、子育てを丸投げすることは出来なかったのだ。

子供の面倒をみてくれるはずのハンナやニルド達は、張り切ってアルノの世話を焼きにきた。
母性の欠片も育たなかったアルノは、子供を押し付けられ、授乳の仕方を教わることになった。

さらにゼインは仕事が二倍に増え、聖騎士の隊服をすっかり脱いで衣装棚に片付けてしまった。
クシールは小姑のように、あれが危険だ、これが必要だと椅子に座り、子供を抱きながら指示を出すばかりだった。

人嫌いのアルノは、押しかけて来る人達から逃げるように時々森に消えた。
ゼインは逃げる場所もなく、いつまでもやってくる人たちに囲まれることになった。

それは主に城で働くロタ村の元住人たちだったが、一番子育てに協力的だったのはニルドだった。
助かることではあったが、少々迷惑なことでもあった。

まるで父親のようにアルノの息子と遊んだが、ゼインが楽をしようとすると、必ず何か事件を起こし、ゼインの仕事を増やすことになったのだ。

ある日、耐えかねたゼインが家出をした。
大騒ぎをする人々の声を後ろに、ゼインは森に逃げ込み、アルノのもとに向かった。

折れた古木の洞の中で、アルノは宣誓液を作っていた。
心を無にし、淫らな妄想さえ抱かずに、今度こそ純粋な祈りのみを唱えながら作業を進め、朝方になって、やっと瓶一本分の宣誓液を完成させた。

仮眠でもしようと後ろを向くと、そこには体を丸めて眠り込むゼインの姿があった。
聖騎士の清潔な装いからかけ離れた、汚れた服を身に着け、寒そうに手足を丸め、心なしか苦悶の表情を浮かべている。

アルノはその頬にそっと触れた。

ぱっと目を開け、ゼインはアルノの首をとらえて胸に引き寄せた。
大人しくゼインの腕の中に身をゆだねたアルノは、ゼインの少しやつれた顔を見上げた。

「いつからいたの?」

「昨夜からだ。もうへとへとだ。こんなことなら戦場にいた方がましだ」

「逃げても良いのよ……」

迷いのないアルノの目を見返して、ゼインはその頬に手をかけ、耳元から落ちてきた髪を指でかきあげた。

「いいや。これでいい。ここが、俺の居場所だ」

ゼインは自分を甘やかそうとするアルノの言葉に、闘志を燃やす。

「いいの?」

未知の領域に踏み出すには勇気が必要だ。
さらに覚悟を決めるには時間もかかる。

今以上に強い男になるためには、未熟な自分を叩きのめし、子供時代の呪縛を切り捨てなければならない。

唇を重ね、ゼインはアルノのスカートをまくり上げた。
下着の上からやわらかな窪みを撫で、そのまま胸の方までその手を潜り込ませる。

「ゼイン……」

アルノが大きく足を開くと、その間にゼインが膝をつく。
その時、外から騒がしい物音が聞こえてきた。

「アルノ!アルノ!大変だ!」

ゼインががっくりと肩を落とす。

それはニルドの声だった。
がさつな足音が近づいてきたかと思ったら、洞の入り口からニルドの顔が現れた。

「ゼイン様!こちらでしたか」

ニルドの背中で小さな息子がぎゃあぎゃあ泣いている。
それを気にした様子もなく、ニルドが腹ばいになって洞の中に身を乗り出す。
まるで外に聞かれることを恐れるように、両手を筒にして口にあてる。

「アルノ、大変だ!クシール様が、本を持って来た!」

「本?それの何が大変なの?」

「すごい分厚い本で、赤ん坊に全部覚えさせるために読み聞かせるらしい。思い出したんだ。竹鞭を持った、あの怖いばあさんにアルノが覚えさせられていた、あの本だ」

「精霊書?!」

契約師になるには、全てを丸暗記する必要がある。さらに、複雑な文様も覚えないといけないし、それこそ血のにじむような努力が必要だ。

「まだ字も読めない赤ん坊だぞ!」

ニルドは本気で怒っていた。
師匠にアルノが打たれていた時、ニルドは助けようと、そこに飛び込んだことがあった。
ところが、まだ子供だったため、アルノの師匠に捕まり、同じように並ばされて尻を殴られることになった。

それは、アルノがニルドに恋した瞬間でもあった。
そんな出来事を思い出し、アルノはまさか、ニルドがこんな風に成長するとは思いもしなかったと、遠い目をした。

ゼインは二人の間にそんな思い出があることを知らなかったが、違う意味で嫌な顔をした。

「まて。その書物の字が読めるのは、俺とクシール、それからアルノしかいないじゃないか。俺が子供に読み聞かせるだと?冗談じゃない」

子供の存在に慣れるだけでも大変なのに、さらなる試練がやってきたのだ。
ゼインは、口元を不満そうに歪める。

「待って。どっちが問題?」

子供に契約師の本を読みきかせることなのか、それとも子供に本を読んでやらないといけないことなのか、どちらもアルノにはよくわからない問題だ。

「あ、それと、ふもとの詰め所から伝令があった。刺客が山に入った形跡があったらしい。用心してくれ」

ゼインのこめかみがぴくぴくと動く。

「どの問題から対処するべき?」

アルノはもう考えるのも面倒だとばかりに、洞の奥に引き返す。

「俺は刺客の相手をしている方が楽だから、そっちを探す。ニルド、子供はクシールにでも預けてこい。本はあとでこっそり隠しておく。アルノ、俺達には他に隠れ家が必要だ」

「そうね……」

宣誓液を入れたかごを手に、洞から出てきたアルノに、ニルドが手を貸した。

「ゼイン、お城の方の部屋で仕事をするから」

ノーラ山に刺客が入り込んだ日は、用心のために城に行くことになっている。
軽く頷き、ゼインは日頃の鬱憤を発散するかのように、張り切って森の中を走っていく。

ニルドは護衛らしくアルノを抱き上げた。
その背中では、泣きつかれた子供が眠っている。

「まずは城だな」

ニルドが走り出すと、アルノはニルドの首にしがみつく。

「どっちが良いと思う?」

「何がだ?」

巨漢のニルドは、さすがに慣れた足取りで、あっという間に岩場を駆け上がる。

「この子の将来よ。騎士になるか、契約師になるか」

「どちらになるにしろ、お前の家にある竹鞭は全部、暖炉の火にくべてしまう方が良い。なんであれを捨てないのか、俺はずっと不満だった」

「忘れていただけよ。じゃあ、そうしておいてちょうだい」

全くのんきなものだと、ニルドは渋い顔をしたが、足を止めたりはしなかった。
物騒な気配に包まれた森を抜け、城が近づいた。
整備された道をラドン騎士団の仲間達が上がってくる。

「ニルド!表から入れ!」

彼らが上がってきたということは、ふもとには既に応援の騎士団が到着しているのだ。

頼もしい騎士達の姿に安堵し、アルノはニルドに抱き着いたまま、目を閉じようとした。
その視界に、ニルドに背負われている、子供の寝顔が飛び込んできた。

まるで、小さなゼインを見ているようだと思った瞬間、アルノの心に未知の感情が沸き上がった。

それは春先の枝についた大きなつぼみが、一夜にして見たこともない花を咲かせたような、新鮮な驚きだった。

やわらかな赤ん坊の頬に指でそっと触れ、アルノはその溢れる感情のままに、まるで母親のように微笑んだ。




アルノにどんな心境の変化があったのか、それは傍目には、わからなかった。
ただ、周りからはアルノが少し成長し、気性も穏やかになったように見えていた。

たいした事件もなく、平穏に一年が過ぎた。

城で働き、アルノと子供の世話をする周囲の人々は、ばたばたと忙しかったが、アルノは自分のペースを崩すことなく仕事を続け、どこか他人事のように周りを見ていた。

それはアルノが優秀な契約師であることを望むクシールにとっては理想的なことだったが、専属世話人のゼインにとっては不安が募るような日々だった。

そして前触れもなく、アルノは突然森から出てこなくなった。





一カ月ほどアルノの不在が続いたある日、秋晴れの空の下、クシールがロタ村の家を訪ねて来た。
契約紙を作る時、アルノは危険が無い限り、ロタ村の家を使っている。

つまり、宣誓液を作り終えたアルノは、まずこの家に帰ってくるはずだった。
ゼインに迎えられ、家に入ったクシールは、室内を見渡し肩を落とした。

「まだ森から戻らないのか?」

前回来た時もアルノは不在だった。
ゼインに外套を脱いで渡すと、クシールは重い鞄を床に下ろした。
中から専用のファイルを取り出し、窓辺に向かう。

運んできた白紙を引き出しに入れ、空になったファイルを鞄に戻す。

「ああ……」

外套を壁にかけたゼインは、みるからに元気のない様子で台所に向かう。

それを横目に、クシールは暖炉前に移動し、椅子に座ってブーツの紐を緩めた。
すっきりとした部屋には生活感がまるでなく、アルノの私物も見当たらない。

アーダン国から戻ったアルノは、前にも増して仕事熱心になり、森に入るとなかなか出てこなくなった。
それは妊娠、出産後も変わらず、ゼインは宣誓液を作っている洞に迎えに行ったり、もう少し早く戻ってほしいとアルノに訴えて来ていたが、改善されることはなく、その周期は少しずつ伸びていた。

台所で作業を始めたゼインに聞こえるように、クシールが話しだした。

「契約師とは、人と精霊の中間に位置する者だ。森に取り込まれたら人の世界から消えてしまう存在だ。
人嫌いも多い。それ故、肉体的な快楽で我らのもとに引き止める。契約師はだいたい、普通の人、それから変わり者、そして囚われ人に分類される。アルノの師匠であるカトリーナは普通の人だ。
弱く、愚かで、与えられる贅沢な待遇にしがみついた。
変わり者は自分の仕事にしか関心がないため管理する上では有難い存在だが、あまり精霊に好かれないのか、技術の向上といった面ではあまり期待できない。
囚われ人は最も厄介だ。信じられないほど高度な契約紙を作り上げるが、人と馴染まない。彼らは心の半分を森に奪われている。
人の世界を簡単に手放せると考えているため、こちらの説教に耳を貸さない」

「アルノは、普通の契約師だったはずだ」

子供時代はクシールと同じ教育を受けてきたとしても、途中から聖騎士団に入ったゼインには学んでいないこともたくさんある。
クシールはテーブルの上で両手を組んだ。

「彼女は普通の幸せを望み、普通の暮らしに憧れていた。囚われ人でありながら、人の世界に執着してくれる逸材だった。
欲望も人並みにあり、大金も欲しがった。しかし、聖なる山で一年引きこもっている間に気づいてしまったのだろう。自分が本当に望む場所が人の世界にはないことに。
彼女は精霊の森に選ばれた契約師。
精霊の森に居る間は精霊たちの世界に所属している。それから、お前の存在を思い出し、人の世界に戻るために森から出てくる」

台所から戻ってきたゼインは、テーブルにハーツ鳥の煮物と温かいお茶を並べた。
アルノがいつ帰って来ても良いように用意しておいたものだった。

暖炉前を離れ、クシールは食卓についた。

「彼女は精霊の森を一番に愛している。だからここに戻ってきた。二番はお前だ」

「彼女が囚われ人になったというなら、俺にはもう機会がないということか?」

「そういうことだ。囚われ人は精霊に魅入られた者だ。専属世話人が必要な理由はまさにそこだ。そうした契約師を引き止めるために、世話人になるための学校は存在し、長い歴史の中で集められた情報を研究している学者までいる。月に一度開かれる会合で集められた情報も一つ残らず記録され、検証されている。それでも、姿の見えない精霊達に契約師を奪われてしまうことがある」

クシールは湯気の立つお茶の入ったカップを慎重に口元で傾けた。

「審査会上位に入る契約師を見たことがあるか?なぜ彼らにだけ結婚が許されていたか。質素な暮らしは彼らにとって当たり前だ。彼らは贅沢を望んでいない。上位に入る契約師を担当する世話人達は相当優秀でなければならない。
ゼイン、覚悟を決めておいた方が良い。優れた契約師はいつか森に飲まれてしまう。珍しくない話だ。
それが精霊の意思であり、彼女の意思でもある」

薄情にも聞こえるクシールの言葉に、ゼインは込み上げる感情を堪えるように拳を握った。
もしアルノが戻らなければ、それはゼインの失敗だ。
専属世話人がいたにも関わらず、契約師を一人、森に奪われたということになる。

クシールは黙り込んだゼインの前で、食事を平らげるとあっさり席を立った。

「さすがに疲れた。私は先に休む。それから、酒は止めたのか?」

森からなかなか出てこなくなったアルノを探しにいくため、ゼインは酒を断ち、聖職者として相応しいとされる生活を心がけていた。精霊に愛される方法もまた、はっきりとは分からないが、知られている方法を試すしかなかった。

「もしアルノが一カ月以上戻らなければ、ユアンジール様に連絡を取る」

「な、なぜ!」

「一年近く、アルノは聖なる山にこもっていた。その間もユアンジール様は彼女が居る場所をご存じだったようだ。元気そうだとわかった上で様子を見ていた。
さすが精霊王の血筋と言われるだけのことはある。ユアンジール様であれば、精霊の森に隠れたアルノを見つけられるはずだ。それでも出て来なければ諦める」

クシールは壁から外套を取り上げ、さっさと身に着けるとまた鞄を持ち上げた。
扉に手をかけ、ショックを受けたように立ち尽くしているゼインを振り返る。

「ゼイン、彼女が戻ってきたら呼びに来てくれ」

敷地内にクシールのための寝室が建てられている。
励ますでも、助言をするでもなく、ただそれだけ告げると、クシールは家を出て行った。

扉が閉まると、ゼインは崩れるように椅子に座り込んだ。

以前であれば、アルノが不在の間、クシールと体を重ねることもあったが、アルノをユアンジール王太子に譲ってからは、誰ともそうした関係になろうとは思えなくなっていた。

それが愛故なのか、まだ確信はない。
しかしもう一度ユアンジールにアルノを譲ろうとは思わなかった。

窓の外はまだ明るく、視界も良好だ。
やはりこのまま待っていることも出来ず、ゼインは外套を掴み取り外に出た。

その瞬間、ゼインはぞっとするような光景を目にし、引きつった顔で固まった。


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