上 下
9 / 10

描き込めない瞳

しおりを挟む
 私が初めて描いた人物画は、もう完成間近だった。ただ、その瞳を描き込むことが、どうしてもできなかった。

 その日もパレットに色を乗せたが、絵筆でキャンバスに触れることすらできずに、筆を置いた。
 そんな時に私のアトリエを二人の男が訪ねてきた。
 男たちは刑事だと私に告げた。
「原口惠梨香さんをご存知だと思いますが」
 一人の刑事が言った。
「はい、もちろん知っています」
「実は三日前から連絡が取れなくなっていまして。昨日、親族から捜索願が出されました」
「えっ、そうなのですか?」
 私は驚いて聞き返した。
「何かトラブルに巻き込まれたかもしれないという申し出がありましたので、捜査をすることになりました。申し訳ありませんが、いくつか質問をさせていただきます」
「はい」
「あなたと惠梨香さんとのご関係は?」
「惠梨香にはモデルをしてもらっています。モデルといっても、絵のモデルですが」
「それが惠梨香さん?」
 刑事がイーゼルに乗せてある五十号のキャンバスを見て言った。
「そうです。まだ完成していませんが」
「惠梨香さんと最後に会ったのはいつですか?」
「えっと、四日前です。ここに来ました。私はこの絵のチェックを兼ねて、もう一度彼女の絵を描きました。簡単なデッサンを一枚と、スケッチを三枚ほど」
「その後は?」
「仕事が終わると惠梨香は帰りました。お互いに仕事だけの関係で、プライベートなところまでは立ち入らないようにしています」
「最近、悩んでいるとか、いつもと様子が違うとか、そんなことはありませんでしたか?」
「特別そんな風には見えませんでした」
「そうですか。ありがとうございました。またお話を聞きに来るかもしれません」
 そう言って刑事たちは帰っていった。

 私は画家で、静物画を専門に描いてきた。
 学生の頃から付き合いのある画商が私のことを買っていてくれて、美大を卒業するとすぐに個展を開いてくれたし、顧客も何人か紹介してくれた。パトロンとなった数人の顧客は私の新作を欲しがったし、また、別の何人かのコレクターも私の絵を手に入れたがっていた。
 ということで、私の絵はかなり良い値で売れた。私は画家としては恵まれているといえた。
 しかし、私自身はどこかで限界を感じていた。今まで描いてきたものは学生時代からの延長でしかなかった。もう少し違った面から絵を描いてみたい。そんな欲求が私の中に芽生え、徐々に大きくなっていった。
 そこで思い付いたのが、人物画だった。
 人は常に動いている。顔の表情も体の色も形もすぐに変わる。それに人は心を持っている。内面には感情も思惑もある。人物画でそんなものを表すことができるようになれば、私の描く静物画も、もっと奥の深い、人の心に染み入るようなものが表現できるように変わるのではないかと思った。
 そして何人かのモデルでデッサンとスケッチを重ねているうちに惠梨香と出会った。
 惠梨香はモデルたちの中でも飛びぬけて美人というわけではなかった。しかし、私には惠梨香は特別に見えた。朗らかな性格で、内にある華やかさは格別だった。
 私はたちまち惠梨香に引き込まれた。人の内面を表現する方法を探りたいと思っていた私にぴったりのモデルだった。
 そう思うと、私はほかの者に惠梨香の絵を描いてもらいたくないと考えた。私はまだ、どのような方法で人の内面を描き出そうかというはっきりしたイメージを持っていなかった。他の者が描いた惠梨香の絵に影響されたくないと思った。まっさらなイメージのままで惠梨香を描いてみたい。私だけが私のイメージだけで惠梨香を描きたい。
 そんな考えから、私は惠梨香と専属契約を結んだ。私以外の人間に対して絵のモデルにならないという契約をした。私にはそれを行えるだけの財力があった。

 私は惠梨香をモデルにして何枚もデッサンをし、スケッチを描いて色を乗せた。そして十分惠梨香のイメージを掴んだ上で、油絵の製作に取り掛かった。何枚か惠梨香の油絵を描いているうちに、惠梨香の内面まで描くことができるようになるだろうと考えていた。
 始めの一枚は習作といっていい作品だったから、完成されたものでなくてもいい。そう思って色を重ねていったが、惠梨香の瞳だけはどうしても描き入れることができなかった。何度か瞳を入れてみたが、イメージに合わず、すぐに布でぬぐい取った。
 そんなことを何度か繰り返しているうちに、惠梨香の瞳以外の部分はほとんど完成したのに、目だけはどうしても入れることができなかった。
 習作なのだからと、無理に描けないことはない。だが、イメージのない瞳を描き入れてみても、その絵はただの人形を描いただけか、魂のない写真を張り付けただけに思えた。
 いくら習作とはいえ、私はそんな絵を描きたくなかった。
 でもなぜ惠梨香の瞳がイメージできないのかわからなかった。イメージさえできれば、この絵は完成することができるのに。

 一週間前だった。
 私は思い悩んだ末、岡田のアトリエを訪ねた。
 岡田は私と違って、静物も人物も風景も描く。人物を多く描いていたが、どんな種類の絵も、明るい色の原色を多用して、筆のタッチの残る描き方をする、私とは全く違うタイプの画家だった。
 岡田は、私が惠梨香と専属の契約を結ぶ前はよく惠梨香の絵を描いていた。自分の気に入った作品は自分の手元に置いておきたい人間だったので、きっと惠梨香の絵もあるだろうと思った。
 岡田の描いた惠梨香の絵を見れば何かヒントが掴めるかもしれないと思ったし、もしかしたら、私が惠梨香の絵を完成できない理由もわかるかもしれないと思った。
 ウェーブした長い髪の毛を持つ、自身が描く絵と同じような華やかさをまとった岡田は、快くアトリエに招き入れてくれた。
「絵で悩んでいる? 天才の君が?」
「天才が悩むかよ」
「じゃ、君も凡才だったってわけか」
 そう言いながら岡田はアトリエの隅に並んだキャンバスの中から一枚を選んで持ってきた。
 それは百号の大作だった。私はその絵を見て、激しく心臓が躍った。
 派手やかな色使いだけではない。岡田は惠梨香の華やかさを見事に表現していた。
「どうだ? 結構気に入っているんだ。もう原口を描くことはできなくなったけれどね」
 私の心臓の高まりは止まなかった。
 なぜだろう。なぜ岡田はこんなにも惠梨香の内なるものを描き出すことができるのだろうか。
「まあ、惠梨香も人間だからね。何を描きたいかにもよるけれど、その人の内面まで表現したいと考えているようなら、その内面まで曝け出せるような仲にならないとだね」
 岡田はそう言った。

 刑事たちが帰った後のアトリエで私は考えていた。
 岡田はつまり、自分と惠梨香との仲を言いたかったのだ。モデルの仕事は私の時だけしかしない。しかしプライベートでは惠梨香は岡田のものだった。
 私は惠梨香に私にも心を開いてもらおうとした。しかし惠梨香は仕事以外、私には全く興味を示そうとしなかった。
 いくら惠梨香を描いてみても、惠梨香が私に心を開いてくれない限り、本当の惠梨香を描くことはできない。
 多分、永遠にそんな時は来ないのだろう。
 私は一度仕舞った絵具箱を開け、他よりも大きなチューブの白い絵の具を取り出し、パレットに絞り出した。
 太い絵筆で白い絵の具を取ると、未完成の惠梨香の絵の端から塗りつぶしていった。
 もう二度と惠梨香の絵を描くことはないだろう。
 惠梨香の瞳のない顔が白い絵の具の下に消えていく様が、三日前に見た記憶と重なった。
 穴の中に横たわる惠梨香。
 被せた土に、徐々に隠れていくその美しい顔。

しおりを挟む

処理中です...