僕のかわい子ちゃん

原口源太郎

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僕のかわい子ちゃん

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 母はどちらかというと、陽気な人だった。
 天然だったのか、それとも色々考えていたのかわからないけれど、よく面白い言葉や、かわいい言葉を口にした。
 例えば、私が冬の凍てつく日に外から帰ってくる。
 母が尋ねる。
「外は寒い?」
「凄く寒いよ」
「キャー!!」
 これから出かけなければならない母の返事がこれだ。
 私だったら「ええー」とか「嫌だなあ」と言うのがせいぜい。どう考えても「キャー!!」などという返事は出てこない。
 きっと頭の作りが、私と母とでは全く違うのだろう。
 とにかく、娘の私が見ても、そんな母の言葉や仕草はかわいらしく見えた。
 残念ながら私は、武骨で無口な父に似てお世辞にもおしゃべりとはいえない人間だ。
 そこへいくと、弟はぱっちりした目と丸い幼顔が母そっくりで、いつでもどこでも面白くないこと、どうでもいいこと何でもよくしゃべった。そのしゃべくり度は母以上で、無口な父との間に生まれた子とはとても信じられないほどで、もしかしたら母は一時の過ちを犯してしまったのではないかと勘繰りたくなるくらいだった。
 私は性格だけでなく、見た目も父に似ていて、母親似の弟を見るたびに、お互いに父と母の遺伝子を半分ずつ受け継いでいるとは信じ難く、私の80%は父の遺伝子で、弟の80%が母の遺伝子だと言われても驚かない自信があった。

「私がお父さんを拾ってあげなきゃ、お父さんは一生結婚なんてできなかったのよ」
 時々母が自慢げに言った。
 まあ、確かに父は堅物で、不愛想な人間だから、母が父を好きになり、母が父に交際を申し込み、母が父にポロポーズさせたというのも頷ける。
 でも、娘の私がひいき目なしに見ても、父はとても二枚目だ。母が言い寄らなくても、他の誰かが父を拾い上げたに違いない。

 陽気で無邪気で幼い子供のような母は、私が幼かった時、何度か私に愚痴をこぼしたことがある。
「私たちが付き合いだした頃や、結婚したばかりの頃、お母さんはよくね、お父さんに私のことを愛してる? て訊いたり、私のことを好きって言ってっておねだりしたことがあるの。でも、お父さんはああゆう人だし、照れくさい言葉はもっと言えない人だから、ちゃんと応えてくれたことは一度もないの」
 幼心にも、私は父の気持ちがわかるような気がした。それよりも父にそんなことを要求する母がすごいと思った。
「だからね、お父さんは私のことを本当に好きなのかどうか、未だにさっぱりわからないの。あんた、結婚するなら、はっきり自分の気持ちを口に出せる人を選びなさいよ」
 おいおい、今の私に言うのならわかるけれど、十年以上も前の、子供だった私に言う言葉かい。

 そんな会話を今でも覚えている。
 だけど、もうそんな会話はできない。
 かわいらしい返事を聞くことも、子供のような笑顔を見ることもない。
 昨日、担当医から、長くてあと二、三日だと告げられた。
 今、病室のベッドに横たわる母は眠ったまま。目を開くこともない。もう二度と意識を取り戻すことはないだろうというのが医師の見立てだった。
 父はベッドの横の椅子に座って、母を見たままでいる。時折見舞いに訪れる人には、私か弟が応対した。
 いつも明るかった母は、きっと幸せな人生を送ったのだと思う。
 ただ、ずっと聞きたいと願っていた、父からの愛しているという言葉を聞くことはできなかった。
 それが残念だとか、そんなことを考えることもなく、母は逝ってしまうのだろう。

「…ぬな」
 かすれたようなつぶやきが聞こえた。
「死ぬな」
 わずかに聞き取れるような声を発したのは、それまでずっと黙り込んでいた父だった。
「死ぬな、僕のかわい子ちゃん」
 小さな声だったが、はっきりとそう言うのが聞こえた。
 父は何かをこらえるかのように、両ひざに乗せた手をぎゅっと握りしめた。
 その時、私ははっきりとわかった。
 父はずっと母のことを愛していたんだ。
 ずっとずっと前から。
 その時から、父は決して口には出さなかったけれど、心の中で母のことを、いつもそう呼んでいたんだ。
『僕のかわい子ちゃん』と。

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