微笑

原口源太郎

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第一章

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 車をぼろぼろにされてから、ちょうど一週間後の月曜日の朝だった。
 雅彦が食卓で新聞を読んでいると、長女の有希が悲鳴を上げて部屋に飛び込んできた。
「チーポが、チーポが」
 震えながら話す有希の声を聞き、雅彦の体が強張った。チーポは雅彦の家で飼っているコリー犬で、犬の一般的な名前だったポチをひっくり返した名前だった。
 涙を流して混乱し、「チーポ、チーポ」とうわごとのように繰り返す有希を、妙子は何とか落ち着かせようとした。雅彦は犬小屋へと向かった。
 一歳になったばかりの血統書付きの立派なコリー犬は柵の中に横たわっていた。ふさふさした毛並みのチーポだったが、今は血の海の中でのたうち回ったためか、乾きかけのどす黒い色になった血が体中にまとわり付いている。
 チーポには足が無かった。四本の足は付け根から切り取られている。口にはタオルがぐるぐる巻きに巻き付けてあった。カッと見開いた目が遠い空を睨んでいるようだった。
 背後で何かが雅彦にしがみ付いた。あまりのことに、その場に佇んでいた雅彦はびくっとして振り返った。翔太だった。翔太は雅彦の足にしがみ付き、哀れなコリー犬を見つめていた。
「もういい。見なくていい。行こう」
 雅彦に押され、家へ向かう翔太が庭の隅の芝生の上を指差した。
 切り取られたチーポの足が転がっていた。翔太は青い顔で別の場所を指差す。そこにも血まみれの足が一本。
 雅彦は翔太を抱えるようにして家の中に入った。
 ダイニングルームで泣きじゃくる有希を抱きしめている妙子が不安げな目を雅彦に向けた。雅彦は無言で目をつぶり、首を横に振ることしかできなかった。
 雅彦と妙子は苦労して有希と翔太を小学校と保育園に送り出した。
 雅彦はその日、半日休むことにした。妙子と真剣に話し合いをしなければならない。
 妙子は警察に頼み、本格的な捜査をしてもらうしかないと言い張った。雅彦は中村と藤森の二人の刑事とは顔を合わせたくなかった。しかし飼い犬を殺されるということは、物を壊されるのとはまた違う。法律のことは雅彦によくわからないが、警察を呼んでできるかぎりのことをしてもらった方がいい。この次にどんなことを、訳の分からない奴にされるかわからない。
 妙子が警察に電話をし、雅彦は警察が来る前にもう一度、犬の死骸を見るために表へ出た。
 『チーポ』と書いてある鉄柵に括り付けられた木の札が曲がっている。
 チーポは哀れな姿だった。鳴き声を出させないために巻かれたらしい口を塞ぐためのタオルも、半分ほど血に染まっている。見開かれて濁った眼は、その時の苦痛を物語っているようだ。どす黒くなった血溜まりの中で芋虫のようになって死んでいるチーポは惨めだった。切り取られた足の切り口の赤黒い肉と白い骨を見て、雅彦は吐き気を覚えた。
 庭に転がっている二本の足は後ろ足だった。前足もそこら辺にないかと雅彦がキョロキョロしていると、道に面した塀の上に小さな顔がちょこんと乗っていて、雅彦をじっと見ているのに気が付いてギョッとした。目が合うと小さな顔は引っ込んで見えなくなった。
 雅彦は表の通りへ走り出た。長い髪の少女の駆けていく後ろ姿があった。もう追い付けそうにない。
 どこかで見たことのある娘だ。雅彦は路上で考え込み、すぐに思い出した。隣の家の火事の時、野次馬の最前列で燃え盛る炎を見つめていた娘だ。近所で見かけたことのない娘で、近くに親らしき人物の姿が見当たらずに、その時はどこの娘だろうかと思ったことを思い出した。
 塀の下に、雅彦の家の庭を覗くために少女が上っていたらしい生ごみ用のバケツがあった。
 
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