微笑

原口源太郎

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第三章

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 雅彦は最近、めまいに襲われるようになった。秋のぽかぽかした日差しの下を歩いていると、不意に平衡感覚が失われて、くるくる回りながら倒れそうになる。座っていて立ち上がると、目の前が真っ暗になり、どこかに落ちてゆくような錯覚に捕らわれる。
 頭痛は一層ひどくなり、物事に集中する事が難しくなった。全て毎日二、三時間しか眠れない睡眠時間のせいだろうと思った。十分な睡眠を取らなければいけないと思うが、夜の夢はまだ恐ろしい。妙子や有希ばかりでなく、雅彦自身まで壊れてしまいそうだった。
 救いなのは、雅彦の精神がまだしっかりしているということだった。妙子と有希を元に戻せるように、最大の努力をしなければならない。

 警官殺しから、慌ただしく一週間が過ぎた。のっぺらぼうの男とすれ違った日から一カ月が経っていた。あの日からの事は一瞬の出来事のようで、嘘のようだった。
 日曜日に雅彦は有希を説得しようと試みた。何とか学校に行かせようと思った。家の中に籠ってばかりではよくない。ますます自分を自分の中に閉じこめてしまう。以前の生活に戻し、少しずつでも自分を取り戻させなければ。
 有希はほとんどの時を自分の部屋で過ごしている。部屋の外に出るのは食事とトイレと風呂の時だけだ。部屋の中で有希は毎日何をしているのかわからなかった。
 昼の食事の後、雅彦は有希を追うように部屋に行った。
 ドアをノックすると、すぐに有希が顔を出した。
「何をしているの?」
 雅彦はできるだけ明るく言った。
 有希は無言で雅彦をじっと見つめるだけだった。もう何日間も声を聞いていない。
「お父さんも仕事に行っていないから、あまり強くは言えないんだけど、有希は学生なんだから、やっぱり学校に行った方がいいと思うんだ」
 できるだけ優しく、わざとらしくならないように言った。
「お父さんが車で送り迎えしてあげるから。色々あって辛いと思うけれど、いつまでも逃げていちゃ駄目だ」
 有希は雅彦がまだ話そうとするのを無視してドアをバタンと閉めた。
「有希、有希」
 雅彦は優しく呼びかけたが、返事は無かった。
 それでもいいと思った。焦らなくてもいい。妙子も有希も、ゆっくりと立ち直らせていく。そしていつか、二人が自分を取り戻す時が来る。その時が、雅彦も頭痛から解放される時だと信じた。

 日曜日の夕暮れがやって来た。雅彦をはじめ、三人は不安な一夜を過ごさなければならない。しかし、警官殺し以来、この家の警護は厳重を極めている。犯人が再び家の中に忍び込んで何かすることは不可能といえた。それでも三人は不安だった。
 そんな三人を嘲笑うかのように何事も無く夜は去っていった。
 雅彦にとって、また気怠い一日の始まりだった。夜の悪夢に苦しめられるように、目覚めていても激しい頭痛に苦しめられて、意識のある時間さえも恐ろしい時になった。
 妙子はまだ眠っている。朝の食事の支度をしなくなり、子供たちを送り出す準備の必要が無くなったので、妙子の朝はルーズになった。
 雅彦はベッドを出て有希の部屋のドアをノックした。もう一度有希を説得してみようと思った。
 有希はすでに起きていた。ドアが開き、雅彦が言葉を発する前に有希が口を開いた。
「おはよう、パパ」
 雅彦はびっくりして何も言えなかった。久しぶりに聞く有希の声は可愛かった。
「今日は学校に行かない」
「ああ、おはよう。うん、そうか。お父さんはね、いつか有希には学校に行ってもらいたいと思っているんだ。有希にとってそれはとても大切なことだと思う」
「わかってる。明日から行こうと思う。今日はまだ、心の準備とかしなきゃ」
 そんな風に明るく言われて雅彦は戸惑った。有希は頭が良くて、ませているのは承知しているつもりだったが、もっと、雅彦が思っている以上に大人に近付きつつあるようだ。
「じゃ、明日からお父さんが送り迎えをしてあげるから」
「いいよ。自分で行ける」
「色々とあるからね。それともパトカーで送ってもらう?」
「パパに送ってもらう」
「よし、じゃ、約束だぞ」
「パパも早くお仕事に行きなさいよ」
「そうだね。お父さんもいつまでもさぼってちゃいけないね」
 有希は何週間ぶりかの笑顔を見せた。
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