幼い日の記憶

原口源太郎

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 父はお茶の入った湯飲みを二つテーブルに置くと、僕とテーブルを挟んだ向かい側に座った。
「何もなくて申し訳ないが」
「いえ」
 僕は熱いお茶を一口飲んだ。
「どうしてもあなたに訊いておきたいことがあってここに来ました」
 少しの沈黙ののち、僕は話しだした。
 父は黙ったまま、湯飲みを見つめている。
「なぜ母を殺したのです?」
 僕は単刀直入に尋ねた。
 しばらく固まったように動かなかった父が顔を上げてちらりと僕を見た。くりくりとした目にしわの刻まれた丸い顔。短く切りそろえられた髪は白い。
 僕は父と似ていないことに気が付いた。
 もしかしたら父が母を刺したのは、そのことに関係があるのだろうか?
「お前の母親は情に薄い人間だった」
 やっと父が重い口を開いた。
「私はお前のことがとても愛おしかった。だが、母親は違った。夜中に泣き出すお前を黙らせようと、何度もひどいことをして、そのたびに私は母親からお前を取り上げた」
 それは私にとって思いもよらない話だった。
「お前の母親はお前を虐待し続け、私は何度も止めさせようとした。しかしどうしても止めさせることができないと悟った私は、お前の母親と別れることにした。当然私はお前を引き取って育てるつもりだった。だが、お前の母親はそれを許さなかった。世間は母親の虐待のことを知らない。お前が母親に引き取られ、二人だけで暮らすようになったら。それはとても恐ろしいことだった。そんなことを話し合っていても、お前の母親はお前に対する虐待を止めなかった。そして、あの時もお前にひどいことをしていた。私はついに抑えきれなくなって包丁であいつの胸を刺した」
 ずっと下を向いたまま淡々と話していた父が顔を上げた。
「僕はあなたにあまり似ていないと思ったのですが」
 僕はさっき思ったことを尋ねた。
「そうかもしれない。でもお前は私の子だ。私は元々小さな子供が好きではなかった。だから結婚しても自分の子が欲しいとは思わなかった。だが、生まれてきたお前を始めて抱いた瞬間に、こんなにも愛おしいと思えるものがこの世に存在すると初めて知った。今お前が言ったように、私と似ていないと言う者もいた。しかし私には関係のないことだった。私に似ていようが似ていまいが、私のお前を愛おしいという気持ちは少しも変わらなかった」
「そうですか」
 今まで二十年以上も抱いてきた父に対する思いが間違いだったと、やっと知ることができた。これから僕はどうしたらいいのだろう。
「私はお前の母親を刺した時から、二度とお前に会うことはないと覚悟を決めていた。罪を犯した私がお前に関わることはできない。私はお前が一人ぼっちになってしまう、そのことだけが心配だった」
 そうだったのか。あの時、憐れむような目で僕を見た。それは僕の事を心配した目だったのだ。そしてあの時、僕は泣いていた。母の悲鳴を聞く前から泣いていた。その理由が今やっとわかった。
「父さん」
 僕は初めて、目の前にいる年老いた男を父と呼んだ。
 涙に目を潤ませた父が僕を見た。
「私は今日まで一日たりともお前のことを考えない日はなかった。今日、成長して立派になったお前を見ることができて良かった。そして今までずっと伝えたいと思っていたことを伝えることができてこんなに幸せなことはない」
 父の目から涙がこぼれた。
「これからどうしますか?」
 僕は父に尋ねた。僕自身も考えがまとまらなかった。父と一緒に暮らすべきだろうか?
「今日のことは忘れてくれ。私も忘れる。私は人殺しだ。本来ならば、私はお前に会ってはいけない人間なのだ。もう二度と会うこともあるまい。お前は私とは関わりを持ってはいけない。分かったら帰ってくれ」
「しかし」
「私のことは忘れてくれ」
 最後に父ははっきりとした口調で言った。
 僕はリュックを閉じて手に持ち、立ち上がった。
「わかりました。ありがとう。さようなら」
 僕は父にそう告げ、部屋を出た。

 僕がリュックに包丁を忍ばせて父に会いに行った日から三年が過ぎた。
 僕は一人ぼっちではなくなった。叔父から引き継いだ家で、新しい家族と暮らしている。
 大学を卒業してから付き合っていた彼女と結婚し、半年前に娘が生まれた。
 父と同じように、僕も自分の子供を抱いてみて、これほどまでに可愛く思えるものがあるのかと初めて知った。違うのはこの子の母親も僕と同じように子供のことを愛したということだ。
 そしてもう一人の家族。
 年老いた父はとても愛おしそうに自分の孫を抱く。その様子を見るたびに、幼い日の僕もそのように父に抱かれていたのだと思い、涙がこみ上げてきそうになる。



                            終わり
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