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【第百二十話】労働者の賛歌と、煉瓦の革命
しおりを挟む店の入り口に立つ、顔に煤をつけた大男。そのたくましい体躯と、長年の重労働で刻まれたであろう眉間の深い皺が、彼がこの町の屋台骨を支えるレンガ職人であることを物語っていた。
男は、テーブルの上に並べられた、黄金色の、見たこともないパンを指さし、ゴクリと喉を鳴らして、言った。
「…嬢ちゃん。そいつは…一体、なんてぇパンなんだ…?」
その声に、アニカはびくりと肩を震わせた。だが、彼女は、俺の顔を一度だけ見て、そして、意を決したように、胸を張った。
「これは、クロワッサン!この町で、一番美味しいパンだよ!」
男――バッカスと名乗った――は、その自信満々の言葉に、ふん、と鼻を鳴らした。
「見かけ倒しじゃねえだろうな。腹にたまらねえもんは、パンとは呼ばねえんだ」
彼は、いつもの、ずしりと重い黒パンを一つ注文する。だが、アニカは、焼きたてのクロワッサンを一つ、そっと彼の前に差し出した。
「これは、お代はいらないよ。一口だけでいいから、食べてみて」
その、あまりにも純粋で、ひたむきな瞳。バッカスは、少しだけ面食らったように、その小さなパンと、アニカの顔を交互に見比べた。
その、張り詰めた空気を和ませたのは、俺たちの平和大使だった。
シラタマが、この大きな男に興味を持ったのか、のそりと近づき、その煤けたズボンの裾を、くんくんと嗅ぎ始める。そして、まるで長年の友に挨拶するかのように、そのもふもふの体を、ぐり、と一度だけ擦りつけた。
「なっ…おい…」
バッカスの、厳つい顔が、ふっと和らぐ。彼は、その大きな、節くれだった手で、恐る恐る、シラタマの頭を撫でた。その、雲のような手触りに、彼の表情は、完全に武装解除されていた。
「…一口だけだぞ」
バッカスは、ぶっきらぼうにそう言うと、クロワッサンを無造作に掴み、大きな口で、がぶりと一口。
次の瞬間、彼の時間が、止まった。
サク…!ハラハラハラ…!
(な…なんだ、この…歯応えは…!?まるで、枯れ葉の鎧を踏み砕いたかのような…!)
そして、口の中に広がる、バターの、暴力的なまでの洪水。鼻腔を突き抜ける、小麦の甘い香り。それは、彼が知る、ただ腹を満たすためだけの、無骨なパンとは、全く違う。疲れた体に、魂の芯まで染み渡る、優しくて、力強い『ご馳走』だった。
彼は、何も言わず、ただ夢中で、あっという間にクロワッサンを平らげてしまった。そして、深々と、深く、深く、ため息をつくと、財布から銀貨を数枚取り出し、カウンターに叩きつけるように置いた。
「…嬢ちゃん。残りのそいつ、全部くれ」
その日の昼。バッカスが持ち帰ったクロワッサンの噂は、レンガ工房中に、野火のように広がった。
昼休みになると、店の前には、顔や腕を煤で真っ黒にした、屈強な男たちの行列ができていた。
「嬢ちゃん!あの天国のパン、まだあるか!」
「俺にも一つくれ!」
『陽だまりのパン屋』は、創業以来の、熱狂的な活気に包まれた。アニカは、涙ぐみながら、俺とリディアと共に、次々とパンを売り捌いていく。その日の午後には、店の棚は、空っぽになってしまった。
翌朝、俺たちの元を、昨日のバッガスが、数人の仲間を連れて訪ねてきた。
「賢人様…いや、ユキ殿。あんたのパンは、すげえ。だが、問題は、俺たちの側にある」
彼は、自分の、石のように硬く、ひび割れた手のひらを見せた。
「俺たちの仕事は、日がな一日、土をこね、型に入れ、窯で焼くことの繰り返しだ。非効率で、怪我も絶えねえ。あんたのパンを食うと、力が湧いてくる。だが、その力を、俺たちは、無駄な苦労で使い果たしちまってるんだ」
その、労働者の切実な嘆きに、俺は静かに頷いた。
俺は、彼らに連れられ、町のレンガ工房へと向かった。
そこでは、男たちが、一つ一つ手作業で、木型に粘土を詰め、天日で乾かしている。非効率で、天候にも左右される、あまりにも原始的な光景。
「…分かりました。この町のレンга作りに、革命を起こしましょう」
俺は、工房の隅で、一つの『実演』を始めた。
俺が、この問題を解決するために召喚したのは、誰もが目を疑う、台所の道具だった。
ポンッ!
【創造力:150/150 → 135/150】
Cランクの製菓用品、『シリコン製のマフィン型』。コストは15。
「こいつを使います」
「ユキ殿…?それは、甘い菓子を作るための型では…?」
リディアでさえ、俺の意図を測りかねている。
俺は、その柔らかく、しかし丈夫なシリコンの型に、粘土を素早く詰め、そして、型を裏返して、ぽん、と軽く押してみせた。
すると、どうだ。
完璧な形をした、寸分の狂いもない、美しいミニチュアのレンガが、いとも簡単に、次々と生みされていく。手作業とは比較にならない、圧倒的なスピードと、品質。
その、あまりにも常識外れな光景を前に、工房の職人たちは、自分たちの十年、二十年の仕事が、根底から覆される瞬間に立ち会い、ただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
工房の親方が、震える声で、俺に尋ねた。
「…あんた…一体、何者なんだ…?」
俺たちの、ほんのささやかなお節介が、今、この町の歴史そのものを、根底から変えようとしていた。
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