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【第百四十六話】 森の斥候と、燻製醤油の香り
しおりを挟む『見えざる城壁』を設置してから、数週間が過ぎた。
初夏の風が聖域の木々を揺らし、俺たちの日常は、表面上は完璧なほどの穏やかさを取り戻していた。だが、その静かな水面下では、確かな変化が生まれていた。
リディアは、丘の上に新設した監視所で、バロンさんから譲ってもらった古い遠眼鏡を覗くのが日課となっていた。その瞳は、以前よりも遥かに遠く、広く、俺たちの聖域を取り巻く世界そのものを見据えている。
シラタマも、森のパTPトロールから帰ると、必ず俺の元へやってきては、異常がなかったことを報告するように「キュイ!」と一声、力強く鳴くようになった。その小さな胸には、この聖域の警備隊員であるという、確かな誇りが芽生えているようだった。
それは、俺たちが一つの『チーム』として、まだ見ぬ脅威に立ち向かっている、何よりの証だった。
俺は、そんな頼もしい仲間たちに守られた平穏な時間を利用して、聖域の食文化を、さらなる深みへと導くための、新しい挑戦を始めていた。
それは、おそらくこの世界の誰もがまだ知らない、究極の万能調味料…**『醤油』**作りだった。
つちのこが祝福してくれた、生命力そのものが結晶したかのような**『黄金の豆』**。それを丁寧に蒸し上げ、炒って砕いた小麦と、この森の空気中から採取した野生の麹菌を混ぜて『醤油麹』を作る。それを、岩塩を溶かした清らかな水と共に大きな甕に入れ、工房の隅で、静かに、ゆっくりと発酵させていく。
数日に一度、櫂(かい)を入れてゆっくりと混ぜると、ふわりと立ち上る、味噌にも似た、しかしもっと複雑で、芳醇な香り。それは、時間が、微生物という見えざる職人の働きによって、旨味という名の宝石へと変わっていく、生命の醸造の香りそのものだった。
その、どこまでも平和な作業が行われていた、ある日の午後。
キラリ。
丘の上のリディアから、約束の合図の光が届いた。一度だけの、短い閃光。
――**『敵意なき、単独の来訪者』**。
俺とリディアが、警戒しつつも武器は構えず、森の入り口へと向かうと、そこにいたのは、俺たちの想像を遥かに超えるほど、哀れな姿の男だった。
年の頃は二十歳前後だろうか。斥候らしい軽装に身を包んでいるが、その服は泥と植物の破片で汚れ、顔には数日分の無精髭が伸び、その瞳は、恐怖と疲労で完全に理性の光を失っている。
彼は、俺たちの姿を認めると、武器を構えるどころか、その場にへたり込み、まるで本物の亡霊でも見たかのように、震える指先で森のあちこちを指さした。
「…で、出たんだ…!昨日の夜、森の木々が、まるで無数の人魂みたいに、瞬いて…!風に揺れる木の枝には、巨大な蛇が何匹も潜んでやがった…!ここは、ダメだ…この森は、悪霊に呪われている…!」
彼は、その心を完全に折られていた。『見えざる城壁』の効果は、俺の想像以上に絶大だったようだ。
男は、やがて俺たちの足元に泣きつくように這い寄ってきた。
「…あ、悪霊でも、森の化け物でもいい…!頼む、温かいものが食いたい…!もう、三日も、木の実しか口にしていないんだ…!」
---
拠点に連れ帰った斥候――フィンと名乗った――に、俺はまず、昨日の残りのキバいのししカツレツを温め直して出した。彼は、それを獣のように貪り食うと、緊張の糸が切れたのか、ぽつり、ぽつりと全てを話し始めた。
マルス子爵は、最初の傭兵団が持ち帰った、ありふれているはずなのに、異常なまでに美味い野菜とパンに、病的なまでの執着を強めているという。そして、聖域の『生産技術』そのものを根こそぎ奪い取るため、第二陣として、隠密行動に長けた斥候部隊を数名、森に放ったのだと。フィンは、そのうちの一人だった。
「…だが、仲間は、みんな一日で逃げちまった。『こんな呪われた森で、まともな精神でいられるか』ってな…。俺だけが、手柄を立てたくて、意地になって残ったんだが…」
そして、フィンは、震える声で、俺たちの聖域にとって、最も恐るべき情報を口にした。
「子爵様は、もし俺たちが失敗したら、次の手も考えてる、と。…**『この森ごと、焼き払ってしまえば、隠れている賢者も、その富も、灰の中から拾い出せる』**って…」
『火攻め』。
聖域の建物は、Aフレームハウスも、工房も、燻製小屋も、そのほとんどが木造だ。まさに、俺たちの最大の弱点だった。
その夜、俺たちの食卓は、重い沈黙に包まれていた。
だが、俺は、絶望してはいなかった。問題があるなら、解決すればいい。いつだって、そうやってきたのだから。
翌日から、俺たちの聖域に、新しいインフラ整備が始まった。聖域の未来を守るための**『防火・消火システム』**の構築だ。
ポンッ!ポンッ!
**【創造力:49/150 → 19/150】**
俺が召喚したのは、Dランクの園芸用品**『霧吹きノズル(ミストシャワー)』**を数個セットと、Cランクの**『散水ホース』**、そして同じくCランクの**『大型のプランター』**を複数個。コストは合わせて30。
俺たちは、水道橋の貯水槽からホースを引き、母屋や工房、燻製小屋の屋根の軒先に、ミストシャワーのノズルを等間隔で設置していく。万が一の際は、貯水槽のバルブを捻るだけで、屋根全体に水のカーテンを作り出し、延焼を食い止める仕組みだ。
さらに、拠点内の各所に大型のプランターを設置し、常に砂や水で満たしておく。即席の『消火サンド(ウォーター)ボックス』だ。
この、聖域の未来を守るための作業を、俺はフィンにも手伝わせた。
「あなたも、この家を守る一員になってもらいます。ここにいる間は、ですがね」
彼は、最初は戸惑いながらも、リディアの厳しい(しかし、その動きには一切の無駄がなく、どこか優しい)指導の下、黙々と作業を手伝い始めた。労働を通して、彼は、この聖域が、ただ奪うだけの対象ではなく、人々が日々、懸命に知恵と汗を流して築き上げている『暮らし』そのものであることを、その肌で感じていった。
---
防火システムが完成した夜。俺は、フィンのための、聖域での最後の晩餐を用意した。
甕の中で、静かに熟成を終えた、漆黒の液体。俺たちの手で生み出された、最初の**『自家製燻製醤油』**。俺は、その醤油を、炊きたてのご飯で握ったおにぎりの表面に、刷毛で丁寧に塗り、暖炉の熾火でじっくりと炙る。
ジュウウウゥゥ…という音と共に、工房中に、これまで誰も経験したことのない、香ばしさと、塩気と、そして『黄金の豆』が持つ深い旨味が凝縮された、理性を麻痺させるような香りが立ち込めた。
その、あまりにも温かく、そして魂の故郷を思わせるほどに懐かしい『焼きおにぎり』の味。フィンは、一粒の米も残さず食べ終えると、その器を抱きしめるようにして、静かに、涙を流した。
「俺は…こんな味を守るために、剣を握りたかったのかもしれない…」
翌朝、フィンは子爵の元へは戻らず、「もう二度と、誰かの道具として剣を握るのはやめだ」と言い、別の道を生きることを決意して、聖域を去っていった。
俺は、彼に餞別として水と少しの食料、そして、最後にこう告げた。
「もし、本当に生きる道に困ったら、いつでもここへ来なさい。ただし、その時は、剣の握り方ではなく、**鍬の握り方**から覚えてもらうことになりますけどね」
敵として現れた斥候さえも、その運命を変えてしまう、聖域の温かさ。
リディアは、完成した防火システムと、広がり続ける農園を眺めながら、静かに、しかし、確かな重みを持って呟いた。
「…ユキ殿。この聖域は、もはやただの家ではない。どんな脅威からも自らを守り、豊かな恵みを生み出し、そして訪れる者の運命さえも変えてしまう…ここは、小さな、しかし完璧な『国』そのものです」
聖域は、また一つ、その守りを固め、豊かさを深めた。だが、マルス子爵という火種は、まだ王都で燻り続けている。
次なる一手は、いつ、どのような形で放られるのか。物語は、新たな緊張感をはらみながら、続いていくのだった。
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