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【第百四十七話】森の吟遊詩人と、蜂蜜酒《ミード》の唄
しおりを挟む斥候フィンが、希望とも絶望ともつかない複雑な表情で聖域を去ってから、一月(ひとつき)が過ぎた。
マルス子爵からの次の接触はなく、森はまるで嵐の前の静けさのように、ただ穏やかだった。だが、その静けさは、俺たちの心に油断ではなく、次なる創造への意欲を静かに掻き立てていた。リディアは丘の上の監視を日課としながらも、空いた時間には工房で機織り機の腕を磨き、その指は日に日にしなやかさを増していく。シラタマは聖域の警備隊員としての誇りを胸に、そのパトロールの範囲を広げ、森の小さな変化さえも見逃さない鋭さを身につけていた。
俺は、そんな頼もしい仲間たちに守られた平穏な時間を利用して、聖域の食文化に、新たな**『甘美』**という名のページを書き加える挑戦を始めていた。それは、自然の恵みを、彼らの営みを尊重しながら分けてもらう**『養蜂』**だった。
森の野生の蜂の軌跡を辛抱強く追い、彼らの巣の近くに、木の板を組み上げた手作りの巣箱を設置する。中には、蜂が好む花の蜜を少しだけ垂らし、歓迎の意を示した。
「ユキ殿、それは…蜂のための『家』、ですか?」
「ええ。無理に奪うのではなく、彼らが喜んで蜜を分けてくれるような、最高の家をプレゼントするんです。これも、俺たちの聖域の流儀ですよ」
自然と共存するための、どこまでも優しい発想。リディアは、その光景を、深い感慨と共に眺めていた。
そんな、どこまでも平和な午後のことだった。
森の奥から、それまで聖域で一度も聞いたことのない、陽気で、軽やかなリュートの音色が、春のそよ風に乗って聞こえてきたのだ。
「何者だ!?」
リディアが即座に剣の柄に手をかける。だが、その音色には、傭兵たちが持っていたような殺伐とした響きは一切なく、ただ、聞く者の心を浮き立たせるような、楽しい生命力だけが満ちていた。
俺たちが警戒しつつ音のする方へ向かうと、そこにいたのは、鳥の羽を飾った派手な帽子をかぶり、色とりどりの継ぎ接ぎだらけの服をまとった、一人の陽気な男だった。
男は、俺たちが設置した『見えざる城壁』のど真ん中で、まるで最高の舞台を見つけたかのように、楽しげに歌い上げていた。
「♪鬼火が揺れる呪いの森で~蛇の化け物が舌を出す~♪ なんて面白いんだ、この森は!詩の最高のスパイス《・・・・・》に満ちている!」
彼は、俺たちの心理トラップを、恐怖ではなく**『最高のエンターテイメント』**として、心の底から楽しんでいたのだ。
この、あまりにも規格外な来訪者――吟遊詩人のリュカと名乗った――を前に、俺とリディアは、完全に毒気を抜かれてしまった。
リュカを拠点に招き入れると、彼は、聖域の豊かな暮らし、特に、俺が振る舞った『燻製醤油の焼きおにぎり』の味に、文字通りひっくり返るほど驚嘆した。
「う…美味い!なんだこれは!?魂を根こそぎ鷲掴みにするような、香ばしさと旨味の洪水じゃないか!」
彼は、その礼にと、外の世界の物語や歌を、惜しみなく俺たちに披露してくれた。王都で流行しているという、少しだけ皮肉の効いた恋の歌。歴史に埋もれた、名もなき英雄の叙事詩。そして、王都で日に日にその悪評を高めているという、マルス子爵の滑稽な失敗談…。彼の歌は、俺たちに、外の世界と繋がる新しい『窓』を与えてくれた。
リュカの奏でる、どこか物悲しくも美しいリュートの音色に触発され、俺は、聖域初の本格的な『醸造酒』作りに挑むことを決意した。それは、古来より、詩人たちが最も愛したという、黄金色の液体…**『蜂蜜酒《ミード》』**だった。
幸運にも、俺たちが設置した巣箱に、蜂たちが少しずつ蜜を溜め始めてくれていた。その、採れたての新鮮な蜂蜜と、水道橋から引いた清らかな水、そして聖域の空気中に漂う天然酵母。最高の役者たちは揃っていた。
「最高の酒造りは、最高の『計量』から始まります。それは、詩を作る際に、言葉の一つ一つを吟味する作業と、全く同じなんですよ」
俺は、この神聖な儀式を成功させるため、専門的な道具を召喚した。
ポンッ!ポンッ!
**【創造力:19/150 → 13/150】**
Dランクの実験用品**『メスシリンダー』**と、Eランクの**『スポイト』**。コストは合わせて6。
蜂蜜と水の比率、酵母の量を、ミリリットル単位で正確に測っていく。その、あまりにも科学的で、錬金術師の秘儀のようでもある酒造りの光景に、リュカは「賢人殿…あんたのやることは、何もかもが一編の叙事詩《サーガ》になる!」と、目をキラキラさせて見入っていた。
発酵を管理するため、以前果実酒作りで習得した**『簡易エアロック』**を、大きなガラス瓶に取り付ける。聖域で一度生まれた技術が、こうして確実に蓄積され、応用されていく。その事実が、俺たちの確かな成長を物語っていた。
この、甘い香りに満ちた醸造作業を、シラタマが興味津々で見守っている。蜂蜜の、抗いがたい香りに誘われ、発酵中の瓶をぺろりと舐めようとしては、リディアに「こら、シラタマ!それは、詩の神様に捧げる聖なる蜜《ネクタル》だぞ!」と、優しく止められるのだった。
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数週間後。ガラス瓶の中の液体は、活発だった発酵を終え、静かに、美しい琥珀色の輝きを放っていた。
その夜、聖域で初めての『音楽会』が、暖炉の炎の前で開かれた。
リュカがリュートで陽気なメロディを奏で、リディアが、以前みんなで作った**キバいのししの皮を張った手作りの太鼓《ハンドドラム》**で、もはや手慣れた様子で、力強いリズムを刻む。そして、シラタマが、魂を込めて「あうー、あうー」と、どこか物悲しい、しかし見事なハーモニーの遠吠えを重ねる。
その、ちぐはぐで、しかしどこまでも温かい音楽の中、完成したばかりの蜂蜜酒が、俺の手で焼き上げた**手作りの陶器の杯**に注がれた。
杯を傾けると、ふわりと立ち上る、春の花々の蜜をそのまま閉じ込めたかのような、甘く、芳醇な香り。一口含んだリュカは、そのあまりの美味さに、持っていたリュートを取り落としそうになるほど、絶句した。
「こ、これは…!ただの酒じゃない…!この森の、春の陽光と、花々の魂そのものを飲んでいるかのようだ…!こんなにも詩的な酒は、生まれて初めてだ…!」
彼は、その感動のあまり、即興で一曲の詩を歌い始めた。
それは、『森の賢人と、聖域の仲間たちが織りなす、温かい暮らしの唄』。
厳しくも優しい金髪の女騎士、もふもふで食いしん坊の白銀の聖獣、そして、全てを優しく見守る、名もなき土の精霊…。
彼の、力強く、そして温かい歌声に乗って、俺たちの聖域の伝説は、もはや恐怖や畏怖の対象としてではない、一つの温かい『物語』として、初めて外の世界へと語られる準備が整った。
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その穏やかな音楽会の背後で、王都では、マルス子爵が、戻らない斥候たちにいら立ちを募らせていた。
「…使えん奴らめ。こうなれば、力で奪い取るまで。あの森そのものを、我が物とするための**『権利書』**を、今すぐ用意させよ。多少、古い地図を書き換えるだけでよかろう…」
物語は、聖域で生まれる温かい文化の光と、王都で燻る冷たい陰謀の影。その二つの対照的な流れをはらみながら、次なる、避けられぬ運命の交差点へと、静かに、しかし確実に、進んでいくのだった。
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