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【第百四十八話】 古地図の謎と、インクの錬金術
しおりを挟む吟遊詩人リュカが、春風のように去ってから数日。彼の残していった陽気な歌の余韻と、蜂蜜酒の甘い香りが、まだ聖域の空気の中にふんわりと残っていた。
だが、俺の頭の中は、リュカがもたらしたもう一つの情報――マルス子爵の『権利書偽造』という、静かなる、そして何よりも厄介な脅威のことでいっぱいだった。
ダイニングテーブルに、以前**行商人バロンさんから譲ってもらったこの地方の古い資料**の写しを広げ、俺とリディアは思案に暮れていた。
「…ユキ殿。これまでの敵は、力で追い払うことができました。ですが、王国の『法』という盾を構えた相手は、訳が違います」
リディアが、硬い表情で呟く。その瞳には、これまで対峙したどんな魔獣よりも厄介な敵と向き合う、深い憂慮の色が浮かんでいた。
「どれだけ我らが正しくとも、王都が発行した一枚の公式な羊皮紙の前では、我らはただの不法占拠者とされてしまうやもしれません」
その、あまりにも現実的な懸念。俺は、静かに頷いた。
「ええ。だからこそ、俺たちは、彼らと同じ土俵で戦ってはいけないんです」
俺は、地図の上に、そっと指を置いた。
「俺たちは、この土地の『所有権』を主張しません。なぜなら、俺たちの本当の強さは、何かを**『所有しない』**ことにあるからです。その代わり、この森そのものが、『誰のものでもない、古より続く聖なる場所である』ことを、王国に認めさせるんです」
「ですが、その証拠が…」
「ええ、だから探しに行きましょう。マルス子爵が偽造するどんな地図よりも古く、そして権威のある『証拠』を。この森の、本当の歴史を探しに。俺たちの聖域の正当性を証明してくれる、古い、古い記憶を、です」
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俺たちは、バロンさんの資料の写しを頼りに、聖域の北側に位置するという、小さな洞窟遺跡へと調査に向かった。
洞窟の奥は、湿った空気と、悠久の時間が堆積したかのような、神聖ささえ感じる静寂に満ちていた。そして、最奥の壁に、俺たちはそれを見つけた。苔むした石の表面に、古代の文字か、あるいは何かの紋様のようなものが、無数に刻まれている。だが、長い年月の風化によって、そのほとんどは摩耗し、肉眼ではもはや判読できない状態だった。
「これでは、何が書かれているのか…」
リディアが諦めかけた、その時。俺は、静かにスキルを発動させた。
ポンッ!ポンッ!
**【創造力:150/150 → 144/150】**
※創造力は睡眠により全回復
俺が召喚したのは、Dランクの画材**『木炭(デッサン用)』**と、Eランクの**『和紙』**。コストは合わせて6。
「これは『拓本』という、古代の知恵です。見えないものを、見えるようにする魔法ですよ」
俺は、湿らせた和紙を壁にそっと当て、その上から、木炭で優しく、均一に擦っていく。
すると、どうだ。
風化して肉眼では見えなかったはずの、微かな凹凸が、黒い濃淡となって、白い和紙の上に、まるで亡霊がその姿を現すかのように、ふわり、と浮かび上がってきたのだ。
そこに現れたのは、複雑な幾何学模様と、鹿に似た角を持つ神々しい動物の姿を組み合わせたような、荘厳な紋章。そして、その周りには、古代の文字で、こう刻まれていた。
『――陽の光届かぬ深き森、星屑の岩眠る地は、大地の精霊の寝床なり。王家とて、その安寧を乱すことなかれ――』
「…ユキ殿、これは…!」
「ええ。この森が、古代から王家でさえ手出しのできない、『精霊の森』として敬われてきた、何よりの証拠です」
俺たちは、ついに、マルス子爵の偽りの正義を打ち破るための、真実の剣を手に入れたのだ。
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拠点に戻り、俺は、この歴史的な発見を、王国が無視できない『公式な証拠』へと昇華させるための、最後の仕上げに取り掛かった。
ただ拓本を提出するだけでは、証拠として弱い。俺は、この紋章と古文書を、まるで数百年前に作られたかのような、完璧な『古地図』として再現することを決意した。
ポンッ!ポンッ!
**【創造力:144/150 → 124/150】**
俺が召喚したのは、Dランクの文房具**『つけペンセット』**と、Cランクの画材**『製図用のインク(セピア色)』**。コストは合わせて20。
「ただ写すだけでは、偽造だと見破られる可能性があります。だから、このインクそのものに、『時間』という名の魔法をかけるんです」
俺は、工房の隅で静かに発酵を続けていた、あの漆黒の宝物…甕に入った**『燻製醤油』**のもろみを、ほんの数滴だけ、セピア色のインクに混ぜ合わせた。
すると、インクは、ただの茶色ではない、驚くほど深く、複雑な色合いへと変化し、そして、工房中に、まるで数百年を経た古文書だけが放つ、あの独特の、香ばしくて、どこか懐かしい『古の香り』を放ち始めたのだ。
醤油に含まれるアミノ酸と、燻製の香りが、インクに、偽造不可能なほどの『歴史の重み』を与える。その、あまりにも高度で、化学的な錬金術。リディアは、「ユキ殿…あなたは、ついに、時間そのものさえも、この手で作り出してしまうのか…」と、畏敬の念を込めて、戦慄していた。
その横で、醤油の香ばしい匂いに誘われたシラタマが、インク壺にその大きな鼻先を近づけ、リディアに「こら!それは聖域の歴史を記す、聖なるインクだぞ!」と、本気で叱られている。最高の癒やしだ。
数時間後、ついに完成した『古地図』は、もはやただの写しではなかった。
古代の紋章が、力強く、しかしどこか風化したようなタッチで描かれ、セピア色のインクは深い歴史の香りを放ち、まるで本物の古代遺物のような、圧倒的なオーラをまとっている。
その夜の食卓は、この歴史的な発見と、静かなる勝利を祝う、質素だが心温まる饗宴となった。
メニューは、発酵を終えたばかりの、最初の醤油の恵みを存分に味わう**『森のきのこの炊き込みご飯』**だった。
醤油の豊かな香りが、聖域で採れた米の一粒一粒にまで染み渡り、森のきのこの滋味深い味わいと共に、俺たちの勝利を、優しく祝福してくれた。
リディアは、食事が終わった後も、完成した古地図を、感慨深げに眺めていた。
そして、暖炉の炎に照らされたその紙片を、愛おしそうに指でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「…マルス子爵は、偽りの権利書で、この土地を**『所有』**しようとしている。ですが、ユキ殿は、真実の歴史で、この土地を**『解放』**しようとしているのですね」
俺たちの武器は、剣でもなければ、法でもない。この土地が、悠久の時から紡いできた、本当の『物語』そのものだ。
その、何よりも雄弁で、何よりも力強い証拠を手に、俺たちは、いずれ来るであろう王都からの使者を、静かに、そして確かな自信を持って待ち受けるのだった。
聖域の存亡をかけた、静かなる知恵の戦いは、今、俺たちの勝利を確信させる、香ばしい醤油の香りと共に、その幕を開けたのだった。
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