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【第百四十九話】 王都の天秤と、甘い毒薬
しおりを挟む『古地図』という名の、真実の剣を手にしてから数週間。
マルス子爵からの次の接触はなく、聖域には嵐の前の静けさが続いていた。だが、その静けさは、もはや無防備なものではない。俺たちの心には、どんな脅威も、俺たちらしいやり方で乗り越えられるという、静かな自信が満ちていた。
俺は、この穏やかな時間を利用して、聖域の暮らしに、新しい『文化』を根付かせることにした。それは、健康と、日々の活力を支える、最も基本的な習慣…**『歯磨き』**だった。
ポンッ!ポンッ!
**【創造力:124/150 → 118/150】**
俺が召喚したのは、Dランクの**『竹炭の粉』**と、Eランクの**『歯ブラシ』**のセット。コストは合わせて6。
「この黒い粉が、歯を驚くほど白く、そして息を爽やかにしてくれるんですよ」
俺がお手本を見せると、リディアは「歯を…磨く…?剣を磨くのとは違うのか?」と、未知の文化に戸惑いながらも、そのシャリシャリとした独特の感触と、磨き上げた後の驚くほどの爽快感に、すぐに夢中になった。
もちろん、この新しい遊びをシラタマが見逃すはずがない。俺が犬用の歯ブラシで彼の大きな牙を優しく磨いてやると、最初はくすぐったそうに身をよじっていたが、やがてその気持ちよさに、うっとりと目を細めるのだった。
そんな、どこまでも平和な日常が続いていた、ある日の午後。
キラリ、キラリ、キラリ。
丘の上のリディアから、約束の合図の光が届いた。それは、王都からの、複数の来訪者を告げる光だった。
聖域の入り口で俺たちを迎えたのは、以前バロンさんの紹介で一度顔を合わせたことのある、王都の騎士セラフィナと書記官トーマス。だが、今回は彼らだけではなかった。彼らの背後には、マルス子爵の代理人と名乗る、爬虫類のように冷たい目をした文官と、そして、その両者を監視するかのように、王家の紋章を胸につけた、厳格な面持ちの中年の男――中立であるはずの王家の監察官が控えていた。
聖域の存亡をかけた、非公式な『査問会』が、今、静かに始まろうとしていた。
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ダイニングテーブルを舞台に、静かなる戦いの火蓋が切って落とされる。
子爵の代理人が、勝ち誇ったように、王家の正式な印章が押された、完璧な『権利書』をテーブルの上に広げた。その紙切れ一枚が、この土地の所有権が子爵にあることを、法的に、そして絶対的に証明している、と彼は言外に語っていた。
リディアの表情が、鋼のように硬くなるのが分かった。
だが、俺は慌てない。静かに、あのインクの香りがする『古地図』を、その隣にそっと広げた。
監察官は、その古地図が放つ、圧倒的な古文書のオーラと、そこに刻まれた古代の紋章に、専門家として息をのんだ。彼の目は、もはやただの紙切れではなく、歴史の遺物そのものを見つめる鑑定家の目に変わっていた。
「この森は、所有されるべき土地ではありません。王家でさえ、古より敬ってきた、精霊の寝床です」
俺は、静かに、しかし、確かな重みを持って告げた。
代理人は「こけおどしだ!古の伝承より、今を支配する法が優先されるのが道理!」と一蹴するが、監察官の心の天秤が、わずかに、しかし確実に揺れ始めたのを、俺は見逃さなかった。
議論が平行線を辿る中、俺は「まあ、少し頭を冷やしましょう。お茶の時間です」と、この日のために用意しておいた、特別な『菓子』を運んできた。
それは、聖域の養蜂で採れた極上の蜂蜜と、森の木の実をふんだんに使った、究極の焼き菓子…**『フロランタン』**だった。
サクサクのクッキー生地の上に、黄金色のキャラメルでコーティングされた数種類のナッツが、宝石のようにぎっしりと乗っている。その、あまりにも手間暇のかかった、貴族の茶会でさえ滅多にお目にかかれない高貴な菓子の登場に、その場の空気が一変した。
この菓子を作るため、事前にCランクの**『オーブンシート』**と、Eランクの**『ケーキクーラー(網)』**を召喚していた。
**【創造力:118/150 → 102/150】** (コスト:16)
子爵の代理人は、その一口を味わった瞬間、その爬虫類のような瞳を大きく見開き、言葉を失った。サクッ、という軽やかな食感。ねっとりとしたキャラメルの濃厚な甘み。そして、鼻腔を突き抜ける、木の実とバターの芳醇な香り。
(ば、馬鹿な…!?こんなものが、辺境の森で、日常的に作られているというのか…!?我が主、マルス子爵が、金に糸目をつけずに王都中から集めさせている、どんな高価な菓子よりも、遥かに…美味い…!)
この圧倒的な『豊かさ』は、子爵が金で買えるレベルのものではない。その歴然たる事実が、彼の自信を、内側から静かに、しかし確実に蝕んでいく。
その張り詰めた空気を和ませたのは、やはり俺たちの平和大使だった。フロランタンの甘い香りに誘われたシラタマが、監察官の足元にすり寄り、そのもふもふの頭を膝に乗せ、つぶらな瞳でじっと見つめるという、無言の『おねだり』を始めたのだ。その、あまりの愛らしさに、鉄仮面だったはずの監察官の口元が、ふっと和らいだ。
監察官は、『古地図』という歴史の重みを持つ物的証拠と、この聖域が持つ、金では決して計ることのできない、圧倒的な『文化的豊かさ』を前に、ついに、重々しく口を開いた。
「…この件、王都に持ち帰り、賢人会議にて、正式に審議する必要がある、と判断する。それまで、マルス子爵による、一方的な権利の行使は、王家の名において、一時凍結とする」
それは、完全な勝利ではない。だが、子爵の横暴を食い止め、俺たちに、かけがえのない『時間』を与えてくれた、大きな、大きな一歩だった。
去り際に、騎士セラフィナが、俺にだけ聞こえる声で、悪戯っぽく囁いた。
「…ユキ殿。貴殿の菓子は、どんな賄賂よりも甘く、そしてどんな毒よりも効果的だな。あの監察官、完全に貴殿の『味』の虜になっていたぞ」
俺は、その言葉に、ただ苦笑いを浮かべるだけだった。
俺たちの聖域は、最大の危機を、またしても『食』と『知恵』で乗り越えた。
だが、戦いの舞台は、この静かな森から、権謀術数が渦巻く王都の『会議室』へと、静かに、しかし確実に移ろうとしていた。
俺たちの穏やかな日常を守るための、次なる、そして最大の戦いが、今、静かに始まろうとしていた。
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