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【第百六十六話】降伏のスープと、傭兵の夜明け
しおりを挟む剣でも魔法でもない。一杯の温かいスープの香りが、この奇妙な戦場における、最も雄弁で、そして最も残酷な、降伏勧告の始まりを告げていた。
泥の中でもがき、俺たちが作り上げた不可視の罠に心身ともに打ちのめされ、完全に戦意を喪失したマルス子爵の私兵団。彼らは、これから始まるであろう過酷な尋問や、勝者による容赦のない裁きを覚悟し、恐怖と絶望で土気色になった顔をうなだれていた。情報を吐かせるための拷問、見せしめのための処刑、あるいは奴隷として売り払われるか。死ぬよりも辛い屈辱が、この先待っているのだと、誰もが確信していた。
だが、彼らの前に現れた俺が手にしていたのは、血に濡れた拷-問具ではなかった。
湯気の立つ温かいおしぼりと、水道橋から引いたばかりの、清冽な冷たい水。俺はそれを、捕虜となった兵士一人一人に、まるで大切な客人をもてなすかのように、丁寧に手渡していく。あまりにも予想外の、場違いな『もてなし』に、傭兵たちは毒でも盛られているのかと、狼のように鋭い警戒心で顔をこわばらせた。だが、温かいタオルの柔らかな感触と、乾ききった喉を潤す、体の芯まで染み渡るような水の美味しさに、彼らの強張っていた心の鎧が、ほんの少しだけ、しかし確実に軋む音がした。
「さて、と。いくつか、お話を聞かせてもらいましょうか」
俺は、泥だらけの隊長――バルガスと名乗った――の前に、静かに腰を下ろした。
彼は、地面に唾を吐きかけるようにして、傭兵としての最後の虚勢を張った。
「…殺せ。俺たちの口から、雇い主の名が出ることなど万に一つもない。裏切りは死を意味する。それが、俺たち傭兵の流儀だ」
「流儀、ですか。それは立派なものですね」
俺は、心から感心したように頷くと、静かに立ち上がった。そして、俺たちの聖域が生み出した、最高の『宝物』を、彼らの前に披露した。
俺は、完成した熱々のスープを、先日俺たちの手で焼き上げたばかりの、翡翠色の陶器の器によそい、手作りの木の匙を添えて、バルガスの前に、そっと置いた。
それは、もはや尋問ではなかった。
ただ、空腹の者に、温かい食事を差し出すという、人間として、あまりにも根源的で、純粋な行為。
バルガスは、その湯気の立つ器と、俺の顔を、信じられないものを見るように、何度も、何度も見比べた。彼の脳裏に、これまでの人生で味わってきた、全ての食事が蘇る。戦場でかじった、血の味のする堅パン。酒場で食らった、脂っこいだけの肉の塊。そして、遠い昔、故郷の母が作ってくれた、もう二度と味わうことのできない、温かいシチューの記憶。
だが、目の前のこれは、そのどれとも違う。これは、ただの食料ではない。人の心を、内側から、抵抗の術もなく優しく溶かすための、温かい『魔法』だ。
彼は、震える手で木製の匙を握り、その一口を、ゆっくりと口に運んだ。
次の瞬間、彼の、傭兵として、男としての全ての虚勢が、音を立てて崩れ落ちた。
米の優しい甘み、燻製にしたキバいのししの骨の髄から溶け出したコラーゲンの深い旨味、そして、つちのこが祝福してくれた薬草の、体の芯まで染み渡るような、清涼感のある聖なる香り。その、あまりにも温かく、慈愛に満ちた味が、彼の、長年の戦いで凍てついていた魂を、根元から、優しく、そして暴力的に揺さぶった。
彼の、乾ききっていたはずの瞳から、一筋、また一筋と、熱い雫がこぼれ落ちる。
それは、悔し涙ではない。生まれて初めて、本当の意味での『優しさ』に触れた、魂の、浄化の涙だった。
食事の後、俺は、この尋問の、第二幕を開始した。
「さて、体も温まったところで、少しだけ、手当てをしましょうか」
ポンッ!ポンッ!ポンッ!
【創造力:83/150 → 74/150】
俺は、Dランクの**『使い捨てカイロ』、Eランクの『ピンセット』と『絆創膏』**を召喚。コストは合わせて9。
俺は、硝子の鉄菱の罠で足を怪我した兵士の元へ歩み寄ると、有無を言わさず、その手当てを始めた。抵抗しようとする彼らの体を、リディアがその人間離れした怪力で、しかし決して傷つけないように、柳の枝のようにしなやかに押さえつける。俺は、汚れた傷口を消毒し、ピンセットで土や木の棘を、フードコーディネーターとして培った精密さで丁寧に取り除いていく。
そして、仕上げに、泥で冷え切った兵士の腰や肩に、温かいカイロを貼ってあげた。触れるだけでじんわりと熱を発する、魔法の石。敵であるはずの自分たちを、まるで大切な仲間のように手当てする、あまりにも不可解で、常軌を逸した行動。傭兵たちの心は、死の恐怖よりも、遥かに深い、底なしの『混乱』と、そして、生まれて初めて感じる温かい『感謝』に支配されていった。
「あなたたちの雇い主は、あなたたちがこうして傷を負って帰った時、これと全く同じように、親身になって手当てをしてくれますか?治療費を惜しむことなく、温かい言葉の一つでもかけてくれますかね?」
俺の、あまりにも静かで、そしてあまりにも残酷な問い。
バルガスの、鋼のようだった表情が、初めて、ぐらりと揺れた。彼らの世界では、失敗した駒は、壊れた道具のように捨てられるだけだ。
その夜、バルガスは、全てを話した。
雇い主は、王都でも悪名高い、富と力の亡者、『マルス子爵』。彼は、森の賢人の噂を利用し、この聖域の富と技術を独占することで、王国内でのさらなる権力拡大を狙っているのだという。
そして、バルガスは、震える声で、俺たちの聖域にとって、最も恐るべき情報を口にした。
「子爵様は、もし俺たちが失敗したら、次の手を考えている、と。『この森の木々が乾燥する夏の終わりを狙い、森ごと焼き払ってしまえば、隠れている賢者も、その富も、灰の中から拾い出せる』って…」
『火攻め』。聖域の最大の弱点。そして、『夏の終わり』という明確なタイムリimit。
その夜の作戦会議で、リディアは即座に迎撃計画を立案しようとした。だが、俺は、それを静かに制した。
翌朝、俺は、捕虜たちを解放することを決めた。
リディアは、最後までそれに反対したが、俺の、ある一言で、静かに頷いた。
「最高の復讐は、許すことでも、殺すことでもありません。相手に、二度と自分たちには敵わないと、心の底から『理解』させることです。そして、彼らの心を、俺たちの側に引き寄せるんですよ」
俺は、去りゆく傭兵たちに、一つだけ『手土産』を持たせた。聖域で採れた、ありふれたジャガイモと玉ねぎがぎっしり詰まった重い麻袋と、石窯で焼いたばかりの、まだ温かいパンが一斤。
「マルス子爵に、こう伝えてください。『これが、我々の富です』と。そして、『二度と我々の仲間に手を出すな』とも」
俺は、そこで一度言葉を切ると、最高の笑顔で、しかし、その瞳の奥に、絶対零度の光を宿して、言った。
「もし次があるなら、今度はパンではなく、石を食わせることになる、とね」
力ではなく、圧倒的な『豊かさ』と『生活の質』を見せつけることで、相手の戦意を根こそぎ奪い去る。傭兵たちは、その言葉の本当の意味を理解し、青ざめた顔で、何度も、何度も頭を下げながら、森の奥へと逃げるように去っていった。
だが、彼らが選んだのは、子爵の元へ戻り、この屈辱を報告する道ではなかった。この温かい食料を元手に、血生臭い傭兵稼業から足を洗い、どこか遠くの村で、畑でも耕して生きていこうという、夜明けの道だった。
彼らの背中を見送りながら、リディアは、どこか呆れたような、しかし、心の底から感服したような顔で、俺に言った。
「…ユキ殿。あなたは、血生臭い戦場でさえも、温かい食卓に変え、敵兵の魂さえも、救済してしまうのですね」
聖域は、新たなる、そしてより大きな敵の存在を、確かに認識した。だが、俺たちの心に、もはや恐怖はなかった。
俺は、青々と茂る、初夏の森を見上げた。
「マルス子爵…あなたの土俵では戦わないと言ったはずだ。火で来るなら、水で迎え撃つ。ならば、今度は、俺が最高の『水遊び』の舞台を用意してあげましょう」
火という絶対的な脅威に対し、俺は、この聖域の全てを懸けた、壮大な『水』のインフラ整備を決意する。
次なる戦いの火蓋は、もう、切って落とされているのだ。
***
いつもお読みいただきありがとうございます!
敵兵さえも改心させてしまったユキの『もてなし』。しかし、マルス子爵の悪意は、聖域に『火』という最大の脅威を突きつけます。ユキは、この絶望的な危機に対し、一体どんな100均グッズで立ち向かうのか?聖域の未来を懸けた、最大のインフラ整備が、今、始まります!
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