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【第百六十八話】恵みの雨と、大地の病
しおりを挟む聖域に、まるで城の望楼のごとき巨大な貯水塔が完成してから、数週間が過ぎた。
俺たちが作り上げた『聖域防火・灌漑システム』は、もはやただの防火設備ではなかった。それは、俺たちの暮らしそのものを、根底から、そして永遠に変える、静かなる革命の始まりだったのだ。
これまで、リディアがその騎士の膂力(りょりょく)を削ってまで行っていた、川と農園を往復する水汲みという名の重労働は、完全に過去のものとなった。貯水塔から伸びるプールヌードル製の水道管が、大地を巡る龍脈のように、聖域の隅々にまで絶え間なく命の水を運び続けてくれる。
リディアは、その浮いた時間を、工房で機織り機の腕を磨いたり、あるいは、ただカフェテラスの椅子に腰掛けて、穏やかな風に吹かれながら、中断していた英雄譚の続きを読むことに使えるようになった。その横顔から、常に張り詰めていた守護騎士としての緊張がふっと抜け、ただ日々の暮らしそのものを心から楽しむ、一人の穏やかな女性の表情が、見られるようになった。
『シラタマ農園』では、スプリンクラーから降り注ぐ恵みの雨を浴びて、夏野菜たちが、まるで歓声を上げるかのように、生き生きと育っている。その光景は、俺たちの努力が、確実に未来の恵みへと繋がっていることを教えてくれる、何よりも雄弁な絵画だった。
全てが満ち足りていた。あまりにも、完璧に。
だが、その完璧な日常がもたらした、豊かさという名の『光』は、必ず、その裏側に新しい『影』を生み出すものなのだ。
その日、農園の見回りをしていたリディアが、血相を変えて俺の元へと駆け込んできた。
「ユキ殿、大変だ!農園の野菜たちが…!何者かの、邪悪な呪いにかかっている!」
彼女が指さす先、あれほど瑞々しかったキュウリの葉の表面に、まるで悪戯に小麦粉をまぶしたかのような、不気味な白い斑点が、まだらに広がっていた。それだけではない。ナスやトマトの、希望に満ちていたはずの若葉の裏には、アブラムシのような小さな害虫がびっしりと群がり、植物の生命力を、静かに、しかし確実に吸い尽くそうとしていたのだ。
豊かすぎる水と、初夏の暖かさ。その、植物にとって最高の環境は、同時に、目に見えない病原菌や、小さな害虫にとっても、最高の楽園を生み出してしまっていたのだ。
「このままでは、我らが丹精込めて育てた作物が全滅してしまう…!私が、この呪いをかけた病魔と害虫を、一匹残らず叩き潰してくれる!」
リディアが本気で息巻くが、俺は穏やかに首を横に振った。
「力で戦えば、俺たちの畑も、そしてそこに住む小さな仲間たちも傷つけてしまいます。今回は、畑に『味方』を増やすことで、目に見えぬ敵を、戦わずして退けるんですよ」
俺は、この新しい、そしてより専門的な課題に対し、農薬などという無粋なものではなく、自然の摂理と科学の知恵で立ち向かう。
まず、うどんこ病の原因であるカビ菌への対策だ。
ポンッ!ポンッ!
【創造力:150/150 → 143/150】
※創造力は睡眠により全回復
俺が召喚したのは、Eランクの**『重曹』と、Dランクの『食酢』**。コストは合わせて7。
「病気の原因はカビ、つまり菌です。彼らは、極端な環境の変化を嫌います。アルカリ性の重曹水や、酸性の食酢は、菌が繁殖しにくい環境を作ってくれるんですよ。これを、数日おきに交互に散布することで、菌に耐性をつけさせる隙を与えず、優しく、しかし確実に退治するんです」
その、あまりにも科学的で、しかし台所にあるもので完結する、錬金術のような処方箋。リディアは「ただの粉と、酸っぱい水が、邪悪な呪いを解く聖水になると…?」と、半信半疑ながらも、俺の指示通り、加圧式の噴霧器で散布作業を開始した。
次に、ナメクジやカタツムリといった、湿気を好む害虫対策だ。
ポンッ!
【創造力:143/150 → 138/150】
俺が召喚したのは、Dランクの健康食品**『ビール酵母(サプリメント)』**。コストは5。
「彼らは、この発酵した、魅惑的な香りが大好きなんです。この酵母を水に溶かして皿に入れておけば、面白いように、自分からそのご馳走の海に飛び込んできてくれますよ」
その、敵の抗いがたい欲望を利用するという、あまりにも平和で、しかし狡猾な罠の理論に、リディアは感心しきりだった。
もちろん、その魅惑的な香りに、俺たちの聖域で一番の食いしん坊が惹かれないはずがない。俺が仕掛けたビール酵母の罠の隣で、シラタマが、自分もそのご馳走にあずかろうと、その大きな鼻先を皿に突っ込もうとして、リディアに「こら、シラタマ!それは害虫をおびき寄せるための、聖なる盃だぞ!お前の口に入るものではない!」と、本気で叱られていた。
数日後。リディアは、信じられないという顔で、農園の奇跡を報告に来た。
「ユキ殿…!白い呪いが、まるで朝霧のように、綺麗に晴れ始めている…!野菜たちが、再び元気を取り戻しているぞ…!」
俺の処方箋は、完璧だった。病気の広がりは止まり、害虫の数も劇的に減少していた。
つちのこも、自分の子供たちである野菜たちが元気を取り戻したのが嬉しいのか、病み上がりだったキュウリの株元で、楽しそうにでんぐり返しを繰り返している。その神聖な舞が、大地の治癒力を、さらに高めてくれているようだった。
この、見えざる敵との戦いに勝利し、完璧な状態で収穫期を迎えた夏野菜たち。その祝宴として、俺は最高の料理を用意した。
夏の労働で火照った体を、内側から燃え上がらせ、明日への活力を与える、究E極のスタミナ飯…**『特製夏野菜カレー』**だ。
鉄の大鍋で、玉ねぎを、焦がさないように、辛抱強く、完璧な飴色になるまで炒めていく。そこに、アニカが友情の証としてくれたスパイスと、聖域のハーブをブレンドした自家製カレールーを投入すると、工房中に、理性を麻痺させるような、官能的な香りが爆発した。
大きくゴロゴロに切ったナス、ズッキーニ、パプリカ、そして、太陽の味そのものである完熟トマトを加え、コトコトと煮込んでいく。隠し味に、先日作った干しトマトの凝縮された旨味と、燻製醤油の深いコクをほんの少し。聖域の歴史そのものが、この一鍋に溶け込んでいく。
炊きたての白米と共に、そのカレーを翡翠の器に盛り付ける。ルビー、エメラルド、トパーズ…まるで、夏野菜の宝石箱のような、あまりにも鮮やかな色彩。
一同は、スプーンを手に、無心で、夢中で、その一皿をかき込んだ。
「う…うまい…!この、体に染み渡るようなスパイスの鮮烈な刺激と、野菜の、暴力的なまでの甘みが…!失われた活力が、体の底から、炎のように蘇ってくる…!」
リディアは、額に玉の汗を浮かべながら、至福の表情でスプーンを動かし続けていた。
その、どこまでも温かく、そして少しだけスパイシーな祝宴の最中だった。
リディアが、ふと、丘の上に続く道の先を、鋭い目で見つめた。
「…ユキ殿。お客様のようだ」
彼女の視線の先。街道整備の測量隊とは明らかに違う、一台の、質素だが速度の出そうな馬車が、森の入り口で停まっているのが見えた。
馬車から降りてきたのは、王都の文官の服を着た、見知らぬ一人の男。彼は、聖域には入らず、手にした羊皮紙と、この森の地形を、何かを熱心に比較・調査しているようだった。
その動きには、測量隊が持っていたような、開拓への希望や、職人としての誠実さはない。ただ、冷徹に、そして正確に、この聖域の『戦略的価値』と『弱点』を値踏みしているかのような、無機質な空気が漂っていた。
「…斥候、か。だが、これまでのチンピラ共とは、明らかに種類が違うな」
リディアが、静かに呟く。
マルス子爵の影か。あるいは、王都の、まだ見ぬ誰かの、新しい思惑か。
俺たちの聖域が持つ、あまりにも大きな力が、今、また新しい、そしてこれまでとは質の違う『世界のうねり』を、この穏やかな森へと、引き寄せようとしていた。
夏の風が、カレーの香ばしい匂いと、その見知らぬ来訪者がもたらす、未知の脅威の匂いを、同時に運んでくるのだった。
***
いつもお読みいただきありがとうございます!
聖域の農業は、新たなステージへ。しかし、その豊かさは、新たな敵をも呼び寄せてしまうようです。謎の文官の正体は?そして、彼の目的とは?物語は、聖域の外の、より大きな権謀術数と、交差を始めます。次回の展開に、どうぞご期待ください!
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