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第26話 幕間・老料理長の夜明け
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朝日が、静まり返った厨房に差し込んでくる。
わし、バスティアンは、一人、白木のカウンターの前に立っていた。
そこは、昨夜、あの日向耕介という若者が、わしらのためだけに、寿司を握ってくれた場所だ。
まだ、酢飯の、あの甘酸っぱくて、清らかな香りが、残っているような気がした。
(……完敗だ)
昨夜、あの『銀河鯉』の握りを口にした瞬間から、わしは、何度、心の中でこの言葉を繰り返しただろう。
料理長として生きてきた、この五十年。わしは、一度も、誰かに「負けた」と思ったことはなかった。
だが、昨夜のあれは、違った。
技術の優劣ではない。食材の貴賤でもない。
わしは、料理人としての、その「魂」の在り方において、彼に、完膚なきまでに、敗北したのだ。
ポトフを食べさせられた時、わしは、自分が忘れていた「料理の原点」を思い知らされた。
水餃子を食べさせられた時、わしは、自分が持ち得なかった「他者への敬意」を学んだ。
そして、昨夜。
あの、たった一貫の寿司に、わしは、料理という世界の、果てしない奥行きと、その先にある、遥かな高みを見せつけられたのだ。
『これは、職人と客との、一対一の、真剣な「対話」なんです』
彼は、そう言った。
そうだ。あれは、対話だった。
一貫、また一貫と、握られる寿司を通して、彼の声が、聞こえてきた。
エレオノーラ様への、感謝。
テオドア王子への、祈り。
そして、このわしへの、最大限の、敬意。
シャリの温度、ネタの切りつけ、握りの力加減。その全てが、完璧な言葉となって、わしらの魂を、直接揺さぶってきた。
わしが、生涯をかけて追い求めてきた「完璧な料理」の、さらにその先にある風景が、そこにはあった。
わしは、ゆっくりと、自分の調理台へと向かう。
壁には、わしが長年使い込んできた、見事な装飾の施された、一揃いのナイフがかけられている。
だが、今のわしの目には、それが、ひどく色褪せて見えた。
「……料理長」
厨房の入り口に、一番若い見習いの少年が、恐る恐る、立っていた。
「本日の、晩餐会のメニューは、いかがいたしましょうか」
いつも通りならば、わしは、こう答えるはずだった。
『昨夜の晩餐会の記録を調べ、最も評価の高かったものを、寸分の狂いもなく再現しろ』と。
だが。
わしの口から出たのは、全く違う言葉だった。
「……全て、白紙に戻す」
「……え?」
「今日の晩-餐会は、中止だ。代わりに、今から、お前たち全員で、最高のまかないを作る」
見習いの少年は、目を丸くしている。
わしは、壁にかけられた、一番大きな寸胴鍋を、手に取った。
そして、こう続けた。
「……今日は、皆で、ポトフを作る。あの若造が教えてくれた、全ての料理の『原点』を。わしも、お前たちも、もう一度、一から、学び直すのだ。料理とは、誰のために、そして、何のために作るのかを」
その日の王城の厨房は、歴史上、初めて、貴族のためではなく、自分たちの魂のために、料理を作ったという。
立ち上る湯気の向こうで、老料理長バスティアンの顔には、何十年ぶりかに、心の底からの、楽しそうな笑顔が、浮かんでいたそうだ。
日向耕介が、王都に残していった、最大の置き土産。
それは、一人の偉大な料理人の心に、再び灯された、情熱の炎だったのかもしれない。
◼️◼️◼️◼️◼️
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます!皆さんの感想や、フォロー・お気に入り登録が、何よりの励みになります。これからも、この物語を一緒に楽しんでいただけたら幸いです。
わし、バスティアンは、一人、白木のカウンターの前に立っていた。
そこは、昨夜、あの日向耕介という若者が、わしらのためだけに、寿司を握ってくれた場所だ。
まだ、酢飯の、あの甘酸っぱくて、清らかな香りが、残っているような気がした。
(……完敗だ)
昨夜、あの『銀河鯉』の握りを口にした瞬間から、わしは、何度、心の中でこの言葉を繰り返しただろう。
料理長として生きてきた、この五十年。わしは、一度も、誰かに「負けた」と思ったことはなかった。
だが、昨夜のあれは、違った。
技術の優劣ではない。食材の貴賤でもない。
わしは、料理人としての、その「魂」の在り方において、彼に、完膚なきまでに、敗北したのだ。
ポトフを食べさせられた時、わしは、自分が忘れていた「料理の原点」を思い知らされた。
水餃子を食べさせられた時、わしは、自分が持ち得なかった「他者への敬意」を学んだ。
そして、昨夜。
あの、たった一貫の寿司に、わしは、料理という世界の、果てしない奥行きと、その先にある、遥かな高みを見せつけられたのだ。
『これは、職人と客との、一対一の、真剣な「対話」なんです』
彼は、そう言った。
そうだ。あれは、対話だった。
一貫、また一貫と、握られる寿司を通して、彼の声が、聞こえてきた。
エレオノーラ様への、感謝。
テオドア王子への、祈り。
そして、このわしへの、最大限の、敬意。
シャリの温度、ネタの切りつけ、握りの力加減。その全てが、完璧な言葉となって、わしらの魂を、直接揺さぶってきた。
わしが、生涯をかけて追い求めてきた「完璧な料理」の、さらにその先にある風景が、そこにはあった。
わしは、ゆっくりと、自分の調理台へと向かう。
壁には、わしが長年使い込んできた、見事な装飾の施された、一揃いのナイフがかけられている。
だが、今のわしの目には、それが、ひどく色褪せて見えた。
「……料理長」
厨房の入り口に、一番若い見習いの少年が、恐る恐る、立っていた。
「本日の、晩餐会のメニューは、いかがいたしましょうか」
いつも通りならば、わしは、こう答えるはずだった。
『昨夜の晩餐会の記録を調べ、最も評価の高かったものを、寸分の狂いもなく再現しろ』と。
だが。
わしの口から出たのは、全く違う言葉だった。
「……全て、白紙に戻す」
「……え?」
「今日の晩-餐会は、中止だ。代わりに、今から、お前たち全員で、最高のまかないを作る」
見習いの少年は、目を丸くしている。
わしは、壁にかけられた、一番大きな寸胴鍋を、手に取った。
そして、こう続けた。
「……今日は、皆で、ポトフを作る。あの若造が教えてくれた、全ての料理の『原点』を。わしも、お前たちも、もう一度、一から、学び直すのだ。料理とは、誰のために、そして、何のために作るのかを」
その日の王城の厨房は、歴史上、初めて、貴族のためではなく、自分たちの魂のために、料理を作ったという。
立ち上る湯気の向こうで、老料理長バスティアンの顔には、何十年ぶりかに、心の底からの、楽しそうな笑顔が、浮かんでいたそうだ。
日向耕介が、王都に残していった、最大の置き土産。
それは、一人の偉大な料理人の心に、再び灯された、情熱の炎だったのかもしれない。
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*この作品は「カクヨム」様にも投稿しています。
**週1(土曜日午後9時)の投稿を予定しています。**
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