異世界ほのぼのクッキングロード ~元フードコーディネーター、不思議な食材で今日も一皿~

はぶさん

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第66話 氷壁を溶かす一皿 (66-2)

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混沌とする厨房。その絶望的な不協和音を、俺、日向 耕介は入口で数秒間、ただ黙って観察していた。自分の包丁の欠けた刃先を見つめ、唇を噛むレオ。あからさまな嫌悪感を隠そうともしないギルさん。言葉少なに、しかし、その全身から「我らのやり方を邪魔するな」という空気を放つ狩人たち……。全ての駒の位置を把握し、この膠着した戦況を打開する、ただ一点を見極める。
やがて、俺は静かに厨房の中心へと足を踏み入れた。そして、まるでオーケストラの指揮者のように、一度、大きく手を叩く。パンッ、と乾いた音が、張り詰めた空気を断ち切った。
「皆さん、一度、手を止めてください」
静かだが、有無を言わせぬ俺の声に、全ての視線が突き刺さる。
俺はまず、狩人たちが捌いたばかりの羊の内臓の前に立った。そして、その一部を、まるで宝石でも扱うかのように、敬意を込めて両手でそっと掬い上げる。
「この料理…『ハギス』は、ただ腹を満たすためのものではありません。これは、あなた方が母なる大山からいただいた、かけがえのない命の全てを、一滴たりとも無駄にせぬという、神聖な誓いの証。命への、最高の敬意の形なのです」
俺の言葉は、港町の人々に向けられていた。真摯な言葉に、ギルさんやクラウスさんの顔から、あからさまな嫌悪の色がわずかに薄らぐ。レオは、何かを己に問うように、深く俯いていた。
だが、ギルさんが腕を組み、まだ納得できぬと口を挟む。
「…旦那の言うことは分かる。わしらも、魚の骨まで出汁にしちまうからな。だがよ…こいつは…ゲテモノは、ゲテモノだろう」
その、あまりにも素直な、核心をついた問い。それに答えたのは、俺ではなかった。
厨房の反対側から、族長のビョルンが、岩のように重い声で応じたのだ。
「……それは、あんた達が、海の恵みを、その骨の髄まで使い切るのと同じことだ。我らにとって、山は海。羊は魚。ただ、それだけのこと」
ビョルンの言葉の後、厨房に、数秒間の重い沈黙が落ちた。それは、先程までの敵意に満ちた静けさとは違う、互いの言葉の意味を咀嚼するための、濃密な沈黙だった。ギルさんは、ぐっと言葉を詰まらせると、「…ふん。まあ、そう言われりゃ、そうかもしれねえな」と、照れ隠しのように頭を掻きながら、そっぽを向いた。
ほんの少しだけ、二つの国の間に、小さな橋が架かった瞬間だった。
だが、最大の問題が、牙を剥いた。狩人たちが、ハギスの味の決め手となる秘伝のスパイスを、石臼で挽き始めたのだ。途端に、厨房の空気が変質する。それはもはや「香り」ではなかった。鼻腔を殴りつけ、脳を直接揺さぶるような、暴力的なまでの匂いの“衝撃”。いくつもの乾燥させた根や木の実が混ざり合ったそれは、まるで嵐の後の手つかずの森の匂いを凝縮したかのような、圧倒的な自然の猛威そのものだった。
「うっ…!」「なんだ、この匂いは!」
街の人々が、次々に顔をしかめる。このままでは、融和の象徴は、断絶の決定打となるだろう。万事休すか、と思われた、その時だった。
「きゅぴ! きゅぴぃ!」
厨房の隅で様子を窺っていたモグモグが、甲高い声で俺のズボンの裾を必死に引っ張る。
「師匠、こんな時に構っている暇は…!」
レオが焦ったように声を上げるが、俺はそれを手で制した。相棒の目が、これまでにないほど真剣な光を宿している。
「どうしたんだ、モグモグ?」
彼が導く先は、波止場の隅にあるゴミ捨て場だった。そこには、荷揚げされた岩塩の中から、質の悪いものとして弾かれた黒っぽい塩の山が、雨に濡れて打ち捨てられている。忘れられた、小さな丘のように。
他の誰もが価値がないと見なすそれに、俺だけは、相棒の訴えを信じた。
「モグモグ。君が、そこまで言うのなら…」
俺はその黒い塩の塊を手に取った。まるで黒曜石のように鈍い光を放っている。一欠片を舌に乗せる。
……!
しょっぱい。だが、ただの塩味ではない。海の塩とは全く違う、山脈の鉱石を思わせる、複雑で、まろやかなミネラルの味。古代の地層が記憶する、大地の甘みとでも言うべきか。
確信した。
厨房に戻った俺に、全ての視線が集まる。俺はビョルンに深く頭を下げた。
「そのスパイスを、少量だけ、お貸しいただけますか」
訝しむ彼からスパイスを受け取ると、俺は皆の目の前で、黒い塩の塊を指で砕き、雪のように振りかけた。厨房の誰もが、固唾を飲んで見守っている。俺は、その一摘みを、静かに口に含んだ。
……そして、俺の世界から、音が消えた。
奇跡が、起きた。
あの、暴力的なまでに鋭かったスパイスの角が、まるで猛獣が主の前に跪くように、すうっと、その牙を収めていく。そして、その奥に隠されていた、森の奥深くで咲く一輪の花のような、清らかで芳醇な香りが、ゆっくりと、しかし圧倒的な存在感を持って、立ち上ってきたのだ!
「な…なんだと…!?」
信じられない変化に、ビョルンが目を見開く。レオは畏敬の念に打たれたように、俺の手元を凝視している。
「この塩は…我らのスパイスの、魂を、呼び覚ます…!」
俺は、街の皆に、そして、狩人たちに、宣言した。
「皆さん! この、あなた方が『価値がない』と捨てていた塩こそが、二つの文化を結びつける、最高の宝物だったんですよ!」
それは、厨房を分断していた分厚い氷の壁に、初めて刻まれた、決定的な亀裂の音だった。

【作者より】
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