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第66話 氷壁を溶かす一皿 (66-3)
しおりを挟む『黒曜石の塩』がもたらした奇跡によって、厨房を分断していた氷の壁は、完全に溶け去った。いや、溶け合った、と言うべきか。
街の人々と狩人たちは、もう、別々の国の民ではなかった。ただ、一つの最高の料理を完成させるという、共通の目的を持った「仲間」だった。狩人の一人が、街の繊細な調理器具の扱いに手こずっていると、パン職人のクラウスが、ぶっきらぼうに、しかし的確に、そのコツを教える。返礼とばかりに、その狩人は、街の者が苦戦していたハギスの胃袋を縛るための特殊な結び方を、黙って手本で見せてやった。言葉は少なくとも、そこには確かな敬意と、職人同士の共感が生まれていた。
羊の内臓とオートミール、そして調和のスパイスが、丁寧に羊の胃袋に詰め込まれ、大鍋で何時間もじっくりと茹で上げられていく。厨房に満ちる香りは、もはや、あの暴力的なまでの匂いではない。塩が、猛々しいスパイスと滋味深い内臓との完璧な橋渡し役となり、全てを調和させているのだ。スパイシーで、滋味深く、そして、不思議と心が安らぐような温かい香りへと、生まれ変わっていた。
夕暮れ時。街の広場の中央に、ついに完成した巨大な『ハギス』が、湯気を立てながら鎮座した。
だが、集まった街の人々は、まだ遠巻きに、その異様な姿を眺めているだけだった。厨房の奇跡を知らない彼らにとっては、それはまだ得体の知れない「ゲテモノ」にしか見えない。囁き声と、疑念の視線。再び、広場を冷たい沈黙が支配しかける。
その時だった。
「道を開けな!」
人垣をかき分けて、前に進み出たのは、昼間、誰よりもハギスを嫌悪していたはずの、漁師のギルさんだった。隣にはパン職人のクラウスさんもいる。二人の顔には、この一皿を完成させた者としての、誇りが浮かんでいた。
ギルさんは、ビョルン族長から儀式用のナイフを受け取ると、集まった皆に聞こえるように高らかに宣言した。
「いいか、おめえら! 食わず嫌いで、人生損するんじゃねえぞ!」
ギルさんがナイフを入れると、パンパンに張った胃袋から、ぶわっと、凝縮された旨味の湯気が立ち上った。その豊かな香りに、広場の人々から、思わず、ごくりと喉が鳴る音が聞こえる。彼は、その一番大きな塊を、ためらうことなく、自分の口へと放り込んだ。
一瞬の沈黙の後。彼の、日に焼けた武骨な顔が、驚愕にカッと見開かれた。
「なんだこりゃあ! 海の幸の繊細さとは違う…! 荒々しい山の魂が、ガツンと腹の底から湧き上がってくるようだ! こいつは…温けえ…!」
続けて、クラウスさんも、その一口を、まるでワインをテイスティングするかのように、じっくりと味わう。
「おお…! なんて複雑な香りだ! 幾種類ものスパイスが、まるで釜の中で様々な生地が膨らんでいくように、時間差で鼻腔をくすぐる…。こんな味の組み立て方は、考えたこともなかった…!」
街の顔役である二人の、魂の叫び。その熱意に、人々はごくりと喉を鳴らすが、まだ最後の一歩を踏み出せないでいた。
その、凍りついた空気を完全に溶かしたのは、リリィアの、一点の曇りもない笑顔だった。
彼女は、小さなハギスのかけらを、狩人の一番小さな男の子に「はい、あーん」と差し出した。その子の母親であろう狩人の女性が、一瞬、警戒に体を強張らせるのが見えた。だが、リリィアの純粋な笑顔を見て、その肩の力を、そっと抜いた。男の子が、それをにこにこと頬張る。そして、「おいしい!」と母親に駆け寄った。その光景に、街の母親たちも、狩人の母親たちも、同じ、優しい笑みを浮かべていた。
「さあ、皆さんも!」
その機を逃さず、レオが皿を手に人々の間を駆け回った。
「見た目は驚くかもしれませんが、本当に、本当に、美味しいんです! どうか、信じてください!」
その、かつての彼からは想像もできない、必死で謙虚な姿。(そうだ、師匠は、いつだってこうだったじゃないか。最高の技術を、最高の知識を、ひけらかすためではなく、ただ、目の前の人を笑顔にするためだけに、使ってきたんだ…!)
心からの想いが、人々にも伝わったのだろう。昼間、彼と衝突した狩人の若者が、フッと笑い、彼の肩をポンと叩いた。言葉はなくとも、二人の間には、確かに職人としての友情が芽生えていた。
一口、また一口と、ハギスが人々の口へと運ばれていく。その輪は、波紋のように広場全体へと広がっていった。
「本当だ…うめえ!」「なんだか、体がぽかぽかしてきたぞ!」
最後まで腕を組んで遠巻きに見ていた街の長老が、ついにその一切れを口にすると、無言でビョルンに酒の盃を差し出した。ビョルンもまた、無言でその盃を受け、一気に煽る。
言葉は、もう、必要なかった。
胃袋で交わされた誓いは、どんな雄弁な言葉よりも固く、そして温かく、二つの民の魂を一つに結びつけていた。
広場は、陽気な祝宴の場と化していた。港町の漁師たちが歌う、荒々しい海の歌。それに合わせ、狩人たちが、大地を踏み鳴らし、力強いステップで踊り始める。リズムも、旋律も、まるで違う。だが、不思議と、その魂は、完璧に調和していた。
それは、北の山と南の海が、この小さな街の、一つの胃袋の中で、ようやく出会えたことを祝福する、奇跡の歌と踊りだった。
***
**【作者より】**
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