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第72話 偽りの奇跡と、真実の揚げ出し豆腐 (72-1)
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北の山から一番弟子レオが確かな自信と誇りを胸に帰還してから、港町には本当の意味での豊かで成熟した平和が訪れていた。『木漏れ日の食卓亭』は、もはやただの宿屋ではなく、この街の温かい心臓そのものとして日々の営みを刻んでいた。
そんな完璧なまでの日常が永遠に続くかのように思われた、ある秋晴れの日のことだった。
事件は、陽気な歌声と共にやってきた。
街の中央広場に、一台の奇妙で派手な装飾の馬車が停まったのだ。現れたのは、胡散臭いが人の心を掴むのが絶妙に上手い、謎の行商人だった。
「さあさあ、寄ってらっしゃい!
その名も**『奇跡の香辛料』**!
これ一振りで、極上のご馳走に早変わり!」
男は、噴水の水を一杯すくうと粉末を一つまみ振りかけ、街の男に飲ませてみせた。
「な…なんだ、こりゃあ!?
ただの水が、極上のスープの味がするぞ!」
その一言が狼煙だった。街の人々は我先にとその「魔法の粉」に殺到し、誰もがその強烈で分かりやすい「旨味」の虜になっていった。
その日を境に、港町の食文化は静かに、しかし確実に変わり始めた。主婦たちは出汁を引くのをやめ、漁師たちは獲れたての魚の繊細な味を味わうのではなく、その切り身に直接粉を振りかけてかぶりつくようになった。街全体が、一つの単純で強烈な味に支配されていったのだ。
その静かなる異変の最初の犠牲者となったのは、街の裏通りで実直な豆腐だけを作り続けてきた、老豆腐職人のゲンさんだった。彼の作る豆腐は、派手さはないが、彼の職人としての魂だけで作られた「引き算の美学」の結晶だった。
だが、今の街の人々には、そのか細い声はもう届かない。
「ゲンさん、すまねえな。あんたの豆腐も、あの粉をかけた方が、正直、美味いんだよ」
かつての常連客に悪気なくそう告げられた日、彼の店の客足は完全に途絶えた。店先にぽつんと置かれた「本日、休業」の札。それは、彼の砕け-散った心の、声なき悲鳴のようだった。
やがて、その異変の波は、ついに俺たちの『木漏れ日の食卓亭』にまで押し寄せてきた。
「旦那!
美味いが、何か物足りねえな!
あの、魔法の粉、使ってねえのか?」
常連客からの、無邪気で残酷な一言。厨房でその言葉を聞いていた若い弟子たちの顔が怒りと悔しさに赤く染まる。俺は何も言わなかった。ただ、胸の奥が静かに痛んだ。それは、自分の料理が侮辱されたことへの怒りではない。俺がこの街で皆と共に育んできたはずの「本物の味」を、いともたやすく見失ってしまう、その人の心の脆さに対する、深い、深い悲しみだった。
一番弟子のレオだけが、静かにその香辛料のかけらを舌の上に乗せ、その味を分析していた。(…なんだ、この味は。確かに強い旨味を感じる。だが、後味が不自然だ。それに、舌がほんの少しだけ痺れるような感覚がある。これは、美味いんじゃない。美味いと、錯覚させているだけだ…)
その日の夜。店の営業を終え、重い空気が支配する厨房に、一人の老人が静かに訪れた。豆腐職人のゲンさんだった。その手には桐の箱が大切そうに抱えられている。
「…日向殿。わしは、もう、店を畳むことにしたよ」
その、あまりにも静かな諦めの言葉。
「…最後に、あんたにだけは食ってもらいてえ。わしが、今朝、生涯で最高の出来だと信じて作った、最後の一丁だ」
彼が差し出したその最後の豆腐。ひんやりとしたその塊を、俺はまるで壊れ物の宝物でも受け取るかのように、両手でそっと受け取った。ずしり、と。その重みは、ただの豆腐の重みではなかった。一人の実直な職人が、その人生の全てをかけて守り抜いてきた、誇りと、魂と、そして諦めの重さ、その全てだった。
【作者より】
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます!皆さんの感想や、フォロー・お気に入り登録が、何よりの励みになっています。これからも、この物語を一緒に楽しんでいただけたら幸いです。
そんな完璧なまでの日常が永遠に続くかのように思われた、ある秋晴れの日のことだった。
事件は、陽気な歌声と共にやってきた。
街の中央広場に、一台の奇妙で派手な装飾の馬車が停まったのだ。現れたのは、胡散臭いが人の心を掴むのが絶妙に上手い、謎の行商人だった。
「さあさあ、寄ってらっしゃい!
その名も**『奇跡の香辛料』**!
これ一振りで、極上のご馳走に早変わり!」
男は、噴水の水を一杯すくうと粉末を一つまみ振りかけ、街の男に飲ませてみせた。
「な…なんだ、こりゃあ!?
ただの水が、極上のスープの味がするぞ!」
その一言が狼煙だった。街の人々は我先にとその「魔法の粉」に殺到し、誰もがその強烈で分かりやすい「旨味」の虜になっていった。
その日を境に、港町の食文化は静かに、しかし確実に変わり始めた。主婦たちは出汁を引くのをやめ、漁師たちは獲れたての魚の繊細な味を味わうのではなく、その切り身に直接粉を振りかけてかぶりつくようになった。街全体が、一つの単純で強烈な味に支配されていったのだ。
その静かなる異変の最初の犠牲者となったのは、街の裏通りで実直な豆腐だけを作り続けてきた、老豆腐職人のゲンさんだった。彼の作る豆腐は、派手さはないが、彼の職人としての魂だけで作られた「引き算の美学」の結晶だった。
だが、今の街の人々には、そのか細い声はもう届かない。
「ゲンさん、すまねえな。あんたの豆腐も、あの粉をかけた方が、正直、美味いんだよ」
かつての常連客に悪気なくそう告げられた日、彼の店の客足は完全に途絶えた。店先にぽつんと置かれた「本日、休業」の札。それは、彼の砕け-散った心の、声なき悲鳴のようだった。
やがて、その異変の波は、ついに俺たちの『木漏れ日の食卓亭』にまで押し寄せてきた。
「旦那!
美味いが、何か物足りねえな!
あの、魔法の粉、使ってねえのか?」
常連客からの、無邪気で残酷な一言。厨房でその言葉を聞いていた若い弟子たちの顔が怒りと悔しさに赤く染まる。俺は何も言わなかった。ただ、胸の奥が静かに痛んだ。それは、自分の料理が侮辱されたことへの怒りではない。俺がこの街で皆と共に育んできたはずの「本物の味」を、いともたやすく見失ってしまう、その人の心の脆さに対する、深い、深い悲しみだった。
一番弟子のレオだけが、静かにその香辛料のかけらを舌の上に乗せ、その味を分析していた。(…なんだ、この味は。確かに強い旨味を感じる。だが、後味が不自然だ。それに、舌がほんの少しだけ痺れるような感覚がある。これは、美味いんじゃない。美味いと、錯覚させているだけだ…)
その日の夜。店の営業を終え、重い空気が支配する厨房に、一人の老人が静かに訪れた。豆腐職人のゲンさんだった。その手には桐の箱が大切そうに抱えられている。
「…日向殿。わしは、もう、店を畳むことにしたよ」
その、あまりにも静かな諦めの言葉。
「…最後に、あんたにだけは食ってもらいてえ。わしが、今朝、生涯で最高の出来だと信じて作った、最後の一丁だ」
彼が差し出したその最後の豆腐。ひんやりとしたその塊を、俺はまるで壊れ物の宝物でも受け取るかのように、両手でそっと受け取った。ずしり、と。その重みは、ただの豆腐の重みではなかった。一人の実直な職人が、その人生の全てをかけて守り抜いてきた、誇りと、魂と、そして諦めの重さ、その全てだった。
【作者より】
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます!皆さんの感想や、フォロー・お気に入り登録が、何よりの励みになっています。これからも、この物語を一緒に楽しんでいただけたら幸いです。
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*この作品は「カクヨム」様にも投稿しています。
**週1(土曜日午後9時)の投稿を予定しています。**
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