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第3話 幕間・頑固親父の誓い
しおりを挟む夜。
とっくに日の落ちた街大路に、ギンジの店の窓からだけ、温かい光が漏れていた。
客が全て帰った後も、ギンジは一人、黙々と厨房を磨き続けていた。こんな時間まで仕事をするのは、もう何年ぶりになるだろう。体は正直に悲鳴を上げている。だが、不思議と心は、驚くほど軽かった。
片付けを終えたギンジは、カウンターの席にどっかりと腰を下ろす。目の前には、昼間の喧騒が嘘のように静まり返った客席が広がっていた。
しかし、その光景は、昨日までの寂しい「がらんどう」とは全く違って見えた。一つ一つの椅子に、今日ここで麺をすすり、満足そうに笑っていた客たちの残像が見えるようだった。
「……ふん」
ギンジはぶっきらぼうに鼻を鳴らすと、厨房の寸胴鍋に目をやった。
中には、あの白濁したスープがまだ残っている。
おもむろに立ち上がると、お椀に少量だけスープを注ぎ、ゆっくりと一口すすった。
「……馬鹿げてる。ただ骨を強火で煮込んだだけだというのに……。なぜ、こんなにも深い味が出る……」
口の中に広がる、濃厚な旨味と香り。父に教わった丁寧なスープの作り方とは、何もかもが正反対だ。常識外れ。無作法。型破り。
だが、その味は、自分の麺が今までで一番輝いていたことを、何より雄弁に物語っていた。
(最高の役者には、最高の舞台が必要、か……)
あの小僧――日向耕介の言葉が、脳裏に蘇る。
ギンジは、ずっと自分の麺に絶対の自信を持っていた。父から受け継いだこの麺こそが至高であり、これさえあればいいと信じて疑わなかった。スープは、ただ麺の味を邪魔しない、控えめなものであればいい。そう思っていた。
だが、違ったのだ。
あの小僧が作ったスープは、麺の味を殺すどころか、そのポテンシャルを何倍にも引き上げていた。まるで、孤独な歌い手だった自分の麺が、最高のオーケストラを得て、魂の歌を歌い上げたかのように。
ギ-、と椅子を鳴らして、ギンジは天を仰いだ。
瞼の裏に、今は亡き親父の姿が浮かぶ。
『いいか、ギンジ。麺は生き物だ。日々の気温や湿度で、その日のご機嫌が変わる。その声を聞き、最高の状態で客に出してやることこそが、俺たちの仕事だ』
厳格だった親父の言葉を、ギンジはずっと守り続けてきた。だが、今なら分かる。親父は、ただ「製法」を守れと言いたかったのではあるまい。
本当に伝えたかったのは、麺を通じて、客と向き合う**「心」**だったのではないか。
いつからだろう。客の顔を見なくなったのは。ただひたすらに、過去の味を守ることだけが目的になって、一番大切なものを見失っていたのは。
「……親父。あんたが食いたかったのは、きっと、こっちの麺だったんだろうな……」
ぽつりと呟いた言葉は、誰に聞かれるでもなく、静かな店内に溶けていった。
ギンジはゆっくりと立ち上がると、厨房の棚から、古びた手帳を取り出した。それは、彼が若い頃から書き溜めてきた、麺作りの記録だ。
最後のページを書きつけてから、もう十年以上が経っていた。
ギンジは、その手帳の新しいページを開き、震える手で、ペンを握る。
そして、こう書き記した。
**『日向耕介より教わったこと。』**
ペンのインクが、乾いた紙にじわりと染み込んでいく。
それは、頑固な職人が、新たな一歩を踏み出した、確かな証だった。
翌朝、麺料理店の前には、開店を待つ人々の長い行列ができていた。
その光景を、ギンジは、少しだけ照れくさそうに、しかし、満更でもない顔で眺めていた。
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