ムスビ

Y.

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第3章 脱出

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 1. 狂気の招待状

 ユキが見つけた古い写真と戸籍の衝撃が冷めやらぬ中、村の空気が一変した。

 これまで村を覆っていた重苦しい静寂が消え、どこからともなく、地を這うような低い唸り声――お経とも、あるいは誰かの啜り泣きとも取れる「音」が、地面そのものから響き始めたのだ。

「……始まったわ」

 背後から声がした。振り返ると、そこにはサキが立っていた。彼女の眼鏡の奥の瞳は、もはや知的な探索者のそれではない。暗い洞窟の奥底を覗き込むような、底知れぬ深淵が広がっていた。

「サキ……あんたたちは、何者なんだ。昭和の記録に、なぜあんたたちの名前がある!」

 アサヒが声を荒らげて問い詰める。だが、サキは楽しげに小首を傾げただけだった。

「名前なんて、ただの結び目よ。私たちはこの村の記憶、この村の血。久遠村は死んだのではないわ。外の新しい『依代(よりしろ)』を待つために、眠っていただけ」

 彼女が指をパチンと鳴らすと、霧の中からリョウが姿を現した。その横には、虚ろな目でふらふらと歩くタケシが、まるで操り人形のように寄り添っている。

「タケシ! こっちへ来い!」

 アサヒの叫びは届かない。タケシの首筋には、あの祭壇にあった木像と同じ、螺旋状の赤い痣が浮かび上がっていた。

「さあ、カオリさんも。あなたには特別な役割があるの」

 サキが手を差し出すと、カオリが吸い寄せられるように歩き出す。

「ダメだ、カオリ!」

 アサヒが彼女の腕を掴む。だが、その肌は驚くほど冷たく、硬い。

「離して、アサヒくん……。私、やっとわかったの。私たちはバラバラだから苦しいんだって。ここで一つに『結ばれれば』、もう怖くないのよ」

 カオリの言葉は、陶酔しきった信者のそれだった。 


 2. 深淵の儀式場

 リョウの超人的な力によって、アサヒとユキは村の最深部にある洞窟へと追い詰められた。そこは、これまでの廃屋とは比べ物にならないほど禍々しい気が満ちていた。

 洞窟の奥には、巨大な天然の空洞があり、中央には巨大な岩の柱がそびえ立っている。その周囲には、何千、何万というあの「ねじれた木像」が壁を埋め尽くすように供えられていた。

「ここが『ムスビ』の完成される場所。外界と常世を繋ぐ、永遠の結び目」

 サキは岩柱の前に立ち、カオリとタケシをその両脇に跪かせた。リョウが抜き放ったナイフは、鈍く黒い光を放っている。儀式の生贄――それは命を奪うことではなく、その存在を村の「概念」の中に永遠に縛り付けることだった。

「ユキ、あれを!」

 アサヒが叫ぶ。ユキは震える手で、村長宅から持ち出していた「あるもの」をリュックから取り出した。

 それは、村の禁忌とされていた『逆結びの御札』。唯一、村の因習を恐れた末期の住人が、信仰を断ち切るために作ったとされる呪物だ。

「そんな紙切れで、何が変わると――」

 サキが冷笑した瞬間、アサヒはユキから受け取った御札を、中央の祭壇にある最も巨大な木像へと叩きつけた。

「論理的に説明できないなら、こっちもルールを壊させてもらう!」

 御札が木像に触れた瞬間、洞窟内に耳を裂くような絶叫が響き渡った。それはサキの声ではなく、壁に埋め込まれた数万の木像から発せられた、死者たちの怨嗟だった。

 木像に亀裂が走り、中から泥のような黒い液体が溢れ出す。それと同時に、村を縛っていた空間の歪みが、ガラスが割れるような音を立てて崩壊し始めた。


 3. 決死の逃走

「逃げるぞ! カオリ、タケシ!」

 崩れ落ちる洞窟の中で、アサヒは正気に戻りかけてうずくまっているカオリを強引に抱き上げた。ユキがタケシの腕を掴み、力任せに引っ張る。

「逃がさない……逃がさないわ!」

 サキの顔が、見るも無惨にねじれ始めた。彼女の皮膚が、まるで古びた紙のように剥がれ落ち、その下から「数十年分の腐敗」が顔を出す。リョウもまた、もはや人の形を維持できず、巨大なムカデのような影となって地面を這い寄ってくる。

「前だけ見ろ! 戻るな!」

 アサヒたちは無我夢中で走り出した。

 背後からは、崩落する岩の音と、人ならざる者の咆哮が迫る。

 霧が晴れていく。ループしていた道が、今度は一本の直線となって彼らを導く。

 遠くに、あの苔むした鳥居が見えた。

「あそこだ! あの外へ!」

 鳥居の注連縄が、生き物のようにのたうち回り、彼らの行く手を阻もうとする。アサヒはカオリを抱えたまま、肩でその縄を跳ね除けた。

 鳥居をくぐり抜けた瞬間。

 バチン、と耳の奥で何かが弾ける音がした。

「……はぁ、はぁ、はぁっ!」

 地面に倒れ込んだアサヒが振り返ると、そこには深い夜の山道があるだけだった。

 霧は消え、鳥の声さえ聞こえない不気味な静寂も、そこにはなかった。遠くで、夜鷹の声が聞こえる。カオリも、ユキも、そして茫然自失としたタケシも、そこにいた。

「助かった……のか?」

 タケシが弱々しく呟く。その首筋の赤い痣は、見る間に薄くなって消えていった。


 4. 消えた村、消えない影

 数時間後、麓の町に辿り着いた一行は、震える手で警察に通報した。

「友人が監禁され、カルト教団のような連中に襲われた。廃村に引きずり込まれたんだ!」

 アサヒの必死の訴えに、警察は大規模な捜索隊を組織した。

 翌朝。アサヒたちはパトカーに同乗し、現場へと向かった。

「あの鳥居が入り口です。そこを曲がれば、久遠村が――」

 しかし、パトカーが止まった場所に、鳥居はなかった。

 そこにあったのは、ただの切り立った崖と、人の立ち入りを拒むような深い藪だけだった。

「……そんなはずはない。昨日、俺たちは確かにここを」

「君、ここは二十年前の土砂崩れで道が完全に塞がっている。村があったとしても、もう物理的に辿り着ける場所じゃないんだよ」

 警察官の言葉に、アサヒは言葉を失った。

 昨日自分たちが歩いた道、触れた廃屋、戦ったサキとリョウ。それらは、最初からこの世に存在していなかったのか?

 捜索は打ち切られた。警察は「大学生の集団パニック、あるいは薬物による幻覚」を疑い始めたが、証拠がないため厳重注意で済まされた。

 だが、アサヒは知っていた。

 自分の服に付着した、あの洞窟の「湿った泥」の臭いが、現実だったことを。

 そして、隣で虚空を見つめているカオリの瞳の奥に、消えない小さな「螺旋」が、今も静かに渦巻いていることを。
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