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season2
第5話:記憶の断絶
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1.
『最果ての図書館』の静寂は、死の宣告に似ていた。
無限に続く書架の奥、リアンの手元にある古文書には、あまりに過酷な真実が刻まれていた。
『聖女は、世界を修復した後に消滅し、法則の一部となる』
「消滅……? そんなこと、させるわけがない」
リアンの声は震えていた。
これまで、どれほどの逆境も一張りの弓で射抜いてきた。神のような存在さえ、その精密な演算で地に伏せさせてきた。だが、目の前にあるのは敵ではない。この世界そのものが定義した「救済の仕様書」なのだ。
「リアンさん、いいの……。分かっていたような気がするから」
マリナが悲しげに微笑む。彼女の首筋にある聖痕は、古文書の言葉に呼応するように、より深く、より黄金に輝きを増していた。
「よくない! そんなの、図書館が勝手に決めたバグだ! 先生、撃ち抜こうよ、こんな呪いみたいな記録!」
アルトが怒りに任せて本を床に投げ捨てる。その衝撃が静まり返った館内に響いた、その時だった。
「……意味のない怒りだね。記録とは、確定した過去。君たちがいくら足掻いても、白紙に書き換えることはできない」
唐突に、全ての音が消失した。
書架に並ぶ無数の本から、文字が滝のように溢れ出し、虚空へと吸い込まれていく。一瞬にして図書館は、色彩を失った「無」の空間へと変貌した。
2.
通路の奥から、一人の少女が歩いてきた。
十歳ほどの幼い容姿に、夜の闇を溶かしたような漆黒のドレス。だが、その瞳に宿っているのは子供の純粋さではなく、万物を無に帰す「忘却」の深淵だった。
「『忘却の特異点(レテ・コア)』……序列二位、忘却の魔女レネ」
リアンがストーム・ウィスパーを構える。だが、指先が弦を引こうとした瞬間、脳裏に激しい閃光が走った。
「リアン・アークライト。君が君である理由は、君が積み上げた『経験』と『記憶』にある。それを消せば……君という存在は、中身のないただの殻になる」
レネが小さく指を振った。
「――忘却(デリート)」
「……っ、が、あぁぁぁぁっ!?」
リアンは絶叫し、その場に膝をついた。
頭を万力で締め付けられるような激痛。脳裏から、大切な何かが無理やり引き剥がされていく感覚。
(叔父さんの……顔が、思い出せない)
最初に消えたのは、弓の師であるアルスとの記憶だった。彼と交わした厳しい訓練の断片、彼が遺した弓の設計図の意味、その全てが霧のように消えていく。
(俺は……どうやって、弓を引いていたんだっけ……?)
次に消えたのは、技術の記憶だった。
ナノ・サイトの起動方法、空気抵抗の計算式、弦の超振動の制御。リアンを最強たらしめていた「全距離支配」の知識が、指の間からこぼれ落ちる砂のように失われていく。
「先生!? どうしたの、先生!」
アルトが駆け寄るが、リアンの瞳からは焦点が消えつつあった。
魔女レネの能力は、魔力を媒介にして対象の「脳内記録(ログ)」を消去する権能。魔力を持たないアルトには通用しないが、この世界の極致に達したリアンにとっては、これ以上ない天敵だった。
3.
「ふふ、もう自分が誰かも分からないかな? その弓は、ただの重い木の棒だよ」
レネが冷酷に告げる。
リアンは地面に這いつくばり、手にしたストーム・ウィスパーを呆然と見つめた。
何のために、この道具を持っているのか。
なぜ、隣にいる女性がこんなにも悲しそうな顔で自分を呼んでいるのか。
「……リ、アン……さん……」
マリナが震える手で、リアンの頬に触れる。
その瞬間、彼女の聖痕が暴走した。黄金の魔力が図書館の一部を無理やり「再定義」し、レネの忘却の領域を押し留める不変の結界を作り出す。
「リアンさん、思い出して! あなたの弓は、私を守るためのものだったはずよ!」
マリナの叫び。そして、彼女の聖痕から流れ込む膨大な「想い」の奔流。
リアンの空白になった脳に、一つの感情だけが鮮烈に刻まれた。
(記憶なんて、いらない)
叔父の顔を忘れても。技術の理屈を忘れても。
今、目の前で泣いているこの女性を助けたいという「衝動」だけは、脳ではなく魂に刻まれていた。
「……ああ、そうだ。理由は……後でいい」
リアンが、立ち上がる。
その構えは、洗練された「最強」のそれではない。ただ、獲物を殺そうとする獣のような、剥き出しの殺意。
「俺が誰かなんて……どうでもいい。今、こいつを守りたいという意志に、記憶(りゆう)なんて必要ない!!」
4.
リアンは、記憶から消えたはずのストーム・ウィスパーの弦を、本能だけで限界まで引き絞った。
失われた技術。失われた演算。
だが、その代わりに溢れ出したのは、純粋な「存在の証明」としてのエネルギーだった。
「――『零式・虚無貫通(ヌル・バスター)』!!」
放たれたのは、光り輝く矢ではない。
虚無を虚無で塗りつぶすような、黒い閃光。
それは魔女レネが展開する「忘却の領域」を、物理的な質量と意志の力だけで強引に貫通した。
「なっ……!? 記憶を失った人間が、なぜこれほどの意志を……!」
レネが驚愕し、防御壁を展開するが、リアンの放った「理由なき一矢」は、彼女の魔導障壁を紙のように引き裂き、その片翼を根元から射抜いた。
「が……ぁぁっ! 面白い、面白いねリアン・アークライト! 過去を捨ててまで、今を掴もうとするか!」
レネは苦悶の表情を浮かべながらも、不気味な笑みを残して霧となって消えていった。
「……だが、忘れないで。君が忘却を受け入れるほど、マリナ・クレルの消滅(しょうめつ)は加速するのだよ」
5.
静寂が戻った図書館。
リアンは荒い息をつきながら、弓を杖にして辛うじて立っていた。
「……リアンさん! 大丈夫!?」
マリナが駆け寄る。リアンは彼女を抱きしめたが、その時、彼は自分の記憶に「空白」があることに改めて気づいた。
マリナと初めて出会った時の、あの胸の高鳴りのディテール。
叔父が最後に自分にかけた言葉の響き。
それらが、いくら思い出そうとしても、真っ白な霧の向こう側にあった。
「……ああ。大丈夫だ、マリナさん。君のことは、覚えている」
それは、嘘ではなかった。
だが、かつて共有していた思い出の数々は、確実に欠落してしまっていた。
マリナを救うたびに、リアンは彼女との大切な「時間」を失っていく。
魔女が残した呪いのような事実は、二人の絆を、以前よりもずっと脆く、そして切ないものに変えてしまった。
「……先生」
アルトが、二人の姿を影から見つめていた。
最強の師匠が、自分たちを守るために何を失ったのか。それを理解した少年の拳は、白くなるほどに握りしめられていた。
「僕が……もっと強くなって、先生の代わりに全部背負う。……絶対だ」
黄金の光に包まれた図書館の奥で、リアンはマリナを抱きしめ続ける。
彼女が消滅する運命。自分が忘れていく呪い。
残酷な世界の仕様(ルール)に対し、最弱から最強へと昇り詰めた弓術士の、真の反逆がここから始まろうとしていた。
『最果ての図書館』の静寂は、死の宣告に似ていた。
無限に続く書架の奥、リアンの手元にある古文書には、あまりに過酷な真実が刻まれていた。
『聖女は、世界を修復した後に消滅し、法則の一部となる』
「消滅……? そんなこと、させるわけがない」
リアンの声は震えていた。
これまで、どれほどの逆境も一張りの弓で射抜いてきた。神のような存在さえ、その精密な演算で地に伏せさせてきた。だが、目の前にあるのは敵ではない。この世界そのものが定義した「救済の仕様書」なのだ。
「リアンさん、いいの……。分かっていたような気がするから」
マリナが悲しげに微笑む。彼女の首筋にある聖痕は、古文書の言葉に呼応するように、より深く、より黄金に輝きを増していた。
「よくない! そんなの、図書館が勝手に決めたバグだ! 先生、撃ち抜こうよ、こんな呪いみたいな記録!」
アルトが怒りに任せて本を床に投げ捨てる。その衝撃が静まり返った館内に響いた、その時だった。
「……意味のない怒りだね。記録とは、確定した過去。君たちがいくら足掻いても、白紙に書き換えることはできない」
唐突に、全ての音が消失した。
書架に並ぶ無数の本から、文字が滝のように溢れ出し、虚空へと吸い込まれていく。一瞬にして図書館は、色彩を失った「無」の空間へと変貌した。
2.
通路の奥から、一人の少女が歩いてきた。
十歳ほどの幼い容姿に、夜の闇を溶かしたような漆黒のドレス。だが、その瞳に宿っているのは子供の純粋さではなく、万物を無に帰す「忘却」の深淵だった。
「『忘却の特異点(レテ・コア)』……序列二位、忘却の魔女レネ」
リアンがストーム・ウィスパーを構える。だが、指先が弦を引こうとした瞬間、脳裏に激しい閃光が走った。
「リアン・アークライト。君が君である理由は、君が積み上げた『経験』と『記憶』にある。それを消せば……君という存在は、中身のないただの殻になる」
レネが小さく指を振った。
「――忘却(デリート)」
「……っ、が、あぁぁぁぁっ!?」
リアンは絶叫し、その場に膝をついた。
頭を万力で締め付けられるような激痛。脳裏から、大切な何かが無理やり引き剥がされていく感覚。
(叔父さんの……顔が、思い出せない)
最初に消えたのは、弓の師であるアルスとの記憶だった。彼と交わした厳しい訓練の断片、彼が遺した弓の設計図の意味、その全てが霧のように消えていく。
(俺は……どうやって、弓を引いていたんだっけ……?)
次に消えたのは、技術の記憶だった。
ナノ・サイトの起動方法、空気抵抗の計算式、弦の超振動の制御。リアンを最強たらしめていた「全距離支配」の知識が、指の間からこぼれ落ちる砂のように失われていく。
「先生!? どうしたの、先生!」
アルトが駆け寄るが、リアンの瞳からは焦点が消えつつあった。
魔女レネの能力は、魔力を媒介にして対象の「脳内記録(ログ)」を消去する権能。魔力を持たないアルトには通用しないが、この世界の極致に達したリアンにとっては、これ以上ない天敵だった。
3.
「ふふ、もう自分が誰かも分からないかな? その弓は、ただの重い木の棒だよ」
レネが冷酷に告げる。
リアンは地面に這いつくばり、手にしたストーム・ウィスパーを呆然と見つめた。
何のために、この道具を持っているのか。
なぜ、隣にいる女性がこんなにも悲しそうな顔で自分を呼んでいるのか。
「……リ、アン……さん……」
マリナが震える手で、リアンの頬に触れる。
その瞬間、彼女の聖痕が暴走した。黄金の魔力が図書館の一部を無理やり「再定義」し、レネの忘却の領域を押し留める不変の結界を作り出す。
「リアンさん、思い出して! あなたの弓は、私を守るためのものだったはずよ!」
マリナの叫び。そして、彼女の聖痕から流れ込む膨大な「想い」の奔流。
リアンの空白になった脳に、一つの感情だけが鮮烈に刻まれた。
(記憶なんて、いらない)
叔父の顔を忘れても。技術の理屈を忘れても。
今、目の前で泣いているこの女性を助けたいという「衝動」だけは、脳ではなく魂に刻まれていた。
「……ああ、そうだ。理由は……後でいい」
リアンが、立ち上がる。
その構えは、洗練された「最強」のそれではない。ただ、獲物を殺そうとする獣のような、剥き出しの殺意。
「俺が誰かなんて……どうでもいい。今、こいつを守りたいという意志に、記憶(りゆう)なんて必要ない!!」
4.
リアンは、記憶から消えたはずのストーム・ウィスパーの弦を、本能だけで限界まで引き絞った。
失われた技術。失われた演算。
だが、その代わりに溢れ出したのは、純粋な「存在の証明」としてのエネルギーだった。
「――『零式・虚無貫通(ヌル・バスター)』!!」
放たれたのは、光り輝く矢ではない。
虚無を虚無で塗りつぶすような、黒い閃光。
それは魔女レネが展開する「忘却の領域」を、物理的な質量と意志の力だけで強引に貫通した。
「なっ……!? 記憶を失った人間が、なぜこれほどの意志を……!」
レネが驚愕し、防御壁を展開するが、リアンの放った「理由なき一矢」は、彼女の魔導障壁を紙のように引き裂き、その片翼を根元から射抜いた。
「が……ぁぁっ! 面白い、面白いねリアン・アークライト! 過去を捨ててまで、今を掴もうとするか!」
レネは苦悶の表情を浮かべながらも、不気味な笑みを残して霧となって消えていった。
「……だが、忘れないで。君が忘却を受け入れるほど、マリナ・クレルの消滅(しょうめつ)は加速するのだよ」
5.
静寂が戻った図書館。
リアンは荒い息をつきながら、弓を杖にして辛うじて立っていた。
「……リアンさん! 大丈夫!?」
マリナが駆け寄る。リアンは彼女を抱きしめたが、その時、彼は自分の記憶に「空白」があることに改めて気づいた。
マリナと初めて出会った時の、あの胸の高鳴りのディテール。
叔父が最後に自分にかけた言葉の響き。
それらが、いくら思い出そうとしても、真っ白な霧の向こう側にあった。
「……ああ。大丈夫だ、マリナさん。君のことは、覚えている」
それは、嘘ではなかった。
だが、かつて共有していた思い出の数々は、確実に欠落してしまっていた。
マリナを救うたびに、リアンは彼女との大切な「時間」を失っていく。
魔女が残した呪いのような事実は、二人の絆を、以前よりもずっと脆く、そして切ないものに変えてしまった。
「……先生」
アルトが、二人の姿を影から見つめていた。
最強の師匠が、自分たちを守るために何を失ったのか。それを理解した少年の拳は、白くなるほどに握りしめられていた。
「僕が……もっと強くなって、先生の代わりに全部背負う。……絶対だ」
黄金の光に包まれた図書館の奥で、リアンはマリナを抱きしめ続ける。
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