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(36)砕かれた絆

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「…………」

 答えがない代わりに、開け放たれた窓から吹き込む風が揺らすアッシュグレイの髪が揺れる。

「よくも、この人殺しが」

 加速装置ブースターを使って床を蹴ろうとした瞬間、雲の晴れ間から差し込むヌセの光が男の顔を照らす。

「……な、んで」

 リルカは力なく踏み出した一歩の膝から崩れ落ち、ヌセの光を浴びる男を見上げる。

 見慣れない黒地に赤と銀の刺繍が施された軍服に身を包み、踵まで垂れたマントが風で飜ると、アッシュグレイの髪には、リルカの手首に巻かれた組紐と対になる組紐が結ばれている。

「そ……んな、どうして」

「お前こそ、なぜここに居る」

 聞き慣れたはずの声は恐ろしいほどに冷ややかで、リルカを見下ろす眼差しも驚くほどに冷め切っている。

「イジュナル!」

「問題ない。お前は外を片付けて状況を確認して来い」

 部屋に踏み込もうとしたウェイロンを片手で制すると、イジュナルはその場から動かずに腕だけを組み直す。

「さて、もう一度問う。お前はなぜここに居る」

 イジュナルの感情すら読めない冷酷な声に、リルカは自分の思い違いなのではないかと、ヌセの明かりに馴染んできた目を凝らして目の前に立つ男を見つめる。

 風に揺れるアッシュグレイの髪や、見たこともない軍服姿に、何度も見間違いだと己に思い込ませようと、リルカは目を閉じる。

「答える、義理はない」

 そして心を奮い立たせて双剣を抜くと、それと同時に床を蹴り、男の背後に回るために間合いを詰めるが、想像だに出来ない鋭く強い力に跳ね除けられて、部屋の壁に叩き付けられる。

「ぐはぁあっ」

 リルカは打ち付けられた衝撃で血を吐くが、咄嗟に床を蹴って追撃を回避すると、加速装置ブースターを起動して天井を蹴り、再び間合いを取る。

「なぜここに居るのかと聞いている」

「お前に親を殺されたからだ」

 一瞬、剣が交わり閃光が走るが、リルカはまた圧倒的な力に跳ね除けられて、なんとか防御姿勢をとりながら、押し除けられるように後退する。

「……名は」

「マーベル・レインホルンの娘、リルカ・レインホルン。それが私の本当の名前」

「お前が、レインホルンの娘」

 動揺したイジュナルは口元を押さえると、しかし剣を下ろすことなくリルカと対峙する。

 リルカは間合いを取って改めてイジュナルを見つめる。たとえ髪の色が違っていたとしても、その目元、鼻筋、口元やそこに添えられた長い指、そしてその体や声音の全てが物語っている。 

 心奪われ、その身も捧げ、生涯の愛を誓った男を見間違うはずはない。

「貴方が隠していた秘密はこれなの」

 双剣を構えたまま、リルカは務めて冷静に呟くと、口端を汚す血を拭ってイジュナルを睨む。

「ルーシャ・バルハラット、いや、イジュナル・ブランフィッシュ」

「…………」

「答えてよ!」

 リルカはサマルから受け取ったユグシアル鉱石を目の前に掲げると、警戒するようにイジュナルとの間合いを取り直す。

「なぜそんな物をお前が持っている」

「貴方を殺すためだとしたら」

「やはり、やはりお前は、マーベル・レインホルンが差し向けた刺客という訳か」

 イジュナルは呟くと、まるで道化だなと可笑しそうに肩を揺らす。

「見事だ。娘を手駒に俺を懐柔させようなどと、とんでもないことを企てる男だな、マーベル・レインホルンという男は」

 イジュナルは戦意が削がれたように剣を下ろすと、対峙するリルカを鋭い目で射抜きながら饒舌に話し始める。

「違う、そんなことはしてない」

「知っているかリルカ。アチューダリアには骸獣フリークを飼い慣らす部隊がある」

「飼い慣らすなんてそんな」

「いいや、それはお前が父親に抱く幻想だ。その部隊を率い、暗躍していたのがお前の父親、剣聖の再来などと持て囃されたマーベル・レインホルンの正体だ」

「違う! 父さんは魔術なんか使わない」

「ならばお前が手にしているそれはなんだ」

「これは違う」

「お前の言葉の真意など、何処にあろうとどうでも良いことだ。俺は母を殺せと命じた父親をこの手で殺した。そして奴の今際の声を恐ろしいほどに覚えている、そそのかされたと」

 イジュナルはそこまで話すと、もう分かるだろうと狂ったように笑う。

「母を嬲り殺しにしたのはお前の父親か、或いはお前の父親の息が掛かった人間だ」

「父さんはそんな非道なことはしない」

「そうだろうか。妻が死んだだけで使い物にならなくなるような狭量な男だ。愛する家族を人質に取られたのなら、或いは非道なことにも手を染めるだろうな」

 イジュナルは吐き捨てるが、リルカはイジュナルの言葉に違和感を覚える。
 今この短いイジュナルとのやり取りで、やはりマーベルは陥れられただけで、イジュナルと潰し合うように仕向けられたのだと心がざわつく。

「イジュナル。母さんが死んだだけで、そう言ったね」

「なにが言いたい」

「分からないなら、少なくとも私が殺したいのは貴方じゃない」

 リルカはようやく構えていた双剣を下ろし、ユグシアル鉱石を懐に戻す。

「帝国とアチューダリアの戦争を起こすのが目的か、詳細は分からないけど、裏で糸を引いてるヤツが居る」

「お前の父親が関わってないと言える根拠はなんだ。そんな人じゃない、それだけか」

「今は証拠がない。だけど耳を傾けてくれるなら、母さんはルーシャのお母さんと同じように、無惨に殺されたことが分かるはず」

 リルカを見つめたまま無言を貫くイジュナルから、目を離さずに信じてくれるならとリルカは話を続ける。

「母さんのことは、両親の古い友人が調べてくれた。もちろん父さんも知ってる。だから父さんは母さんを殺した犯人を探すために、私の前から居なくなった」

「その状況で娘を捨て置いてか」
「捨てられた訳じゃない」

 都合の良い思い込みだと言われたとしても、あの時ムゥダルと出会ったことすら、なにかしらマーベルの思惑が働いていたとリルカの直感が騒ぐ。

「俺をお前の母親殺しだと信じて疑わない男が、娘を帝国に向かわせると思うか」

「別の意図があったはず」

「随分と都合の良い解釈だ。母親の死以外は確証がないことに変わりはないな」

「だけど私に貴方を殺す理由はなくなった。父さんが既に殺されているなら、貴方が私に刃を向ける理由がない」

 リルカはそこまで言い切ると、手首に巻いた組紐の上にそっと手を重ね、自分を鼓舞するように力を込める。

「父さんの無実の証明と、貴方の本当の仇の正体を炙り出してみせる」

「お前」

「生きて父さんを見付け出せれば、それが必ず貴方に報いる結果になるから」

 リルカが精一杯の笑顔を浮かべると、その頬を溢れ出した涙が伝って落ちていく。

 堪らず腕を伸ばしたイジュナルに、小さく首を振ってそれを拒むと、リルカは開け放たれた窓から外に出て、ヌセの明かりが頼りなく照らすバルコニーに立ってイジュナルを振り返る。

「必ず、約束する」
「リルカ!」

 駆け寄って来たイジュナルを拒めずにその腕の中に閉じ込められると、リルカは声を押し殺して身を震わせる。

「……お前を失いたくない」

 イジュナルは吐露するように呟くと、リルカの細く小さな背中を掻き抱く。

「失わせないよ」
「リルカ」
「失わせない」

 リルカは顔を上げて笑顔を浮かべると、イジュナルに口付けて、懐から取り出したユグシアル鉱石を手渡す。

「〈オーチャル〉を焚き付けたヤツは魔術を使う」
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