【完結】親友を選んだ貴方へ、さようなら。「愛していた」は過去形ですので。

曽根原ツタ

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「あなたは記憶を失っている可能性があります」

 エミリーが医師からそう告げられたのは、今朝のことだった。どうやらエミリーは三ヶ月前、自宅のバルコニーから落ちて頭を打ち、意識不明のまま実家で療養していたらしい。
 しかし、転落時のことを全く覚えていないのだ。エミリーは額を手で抑え、呻いた。

(それ以外のことなら思い出せるのに)

 伯爵令嬢エミリー・ブラウン。医学院を卒業し、王国魔術師団附属の特異医療院で医療魔術師として勤務している。順風満帆なキャリアを歩んでいるはずだ。

 この世界では、全ての人間が生命を維持するためのエネルギー源として『魔力』を持っている。この魔力に起因する病――魔病まびょうの治療を担うのが、医療魔術師である。
 医学の知識だけではなく高度な魔術も求められるため、人数がとても少ない。

 両親は健在、兄と姉がそれぞれふたりずついる。医学院を卒業後に実家を出てひとり暮らしをしていた。趣味は珍しい植物の種を集めること、好きな食べ物は職場近くのカフェで食べる三段パンケーキ。恋人はいない。

 自分について思い出しながら、エミリーははぁと深く息を吐く。そのとき、額を抑えていた左手を下ろすと、左手の薬指に光るものを見つけた。

「指輪?」

 ダイヤが中央にあしらわれた、綺麗な指輪だ。

「しかも、薬指……」

 恋人なんていないし、いたこともない。勉強ばかりしてきて恋愛に疎いエミリーでも、左手の薬指につける意味くらいは知っている。恋人や夫婦の、愛の証だ。

(こんな指輪、いつ買ったっけ)

 不思議に思って首をかしげながら、かざした指輪を眺めていると、部屋の扉がノックされ、侍女が入ってきた。

 彼女は嬉しそうに告げる。

「オリビア様とグエン先生がお見舞いにいらしてます。今は奥様とお話し中なので、もうすぐこちらにいらっしゃるはず――」
「グエン先生って誰?」

 エミリーはいぶかしげに眉を寄せる。オリビアは医学院時代からの親友だが、もうひとりの『グエン先生』なる人には全く心当たりがない。

「ふふっ。冗談はやめてくださいませお嬢様」

 しかし、次第に顔から血の気が引いていった侍女が、恐る恐る言う。

「まさか……婚約者のことまで忘れたのですか?」 
「う、うそ、私、婚約者がいるの!?」
「は…………?」

 婚約者、だなんてエミリーにとって縁のない響きだ。
 エミリーが首を捻ると、侍女は凍りついたように青ざめる。

「天才医療魔術師のアステラ・グエン様ですよ!? お嬢様が特異医療院に入ってからベタ惚れして、猛アタックの末に婚約がなさったじゃないですか……!」
「べたぼれ、もうあたっく……?」

 言っている意味が理解できず、侍女の言葉を復唱した。頭の中に疑問符が大量に浮かんでいく。そのような記憶が、一切ないからだ。
 エミリーは自分の指輪を侍女に見せて、「じゃあ、これは?」と尋ねる。

「婚約指輪です。グエン先生にプロポーズされたたとき、お嬢様はとてもお喜びでしたよ」

 どうやらエミリーは、アステラという全く知らない相手と、結婚を誓っていた――らしい。アステラに関する記憶が、ごっそり抜け落ちている。

 ただ唖然としているエミリーに、侍女はもう一度確認してきた。

「本当に……グエン先生のことも?」
「うん、さっぱり」

 そう言ってエミリーは首を横に振った。

 ――コンコン。

 侍女の問いかけに答えた直後、再び扉がノックされた。エミリーが「どうぞ」と促すと、ゆっくりと扉が開き、その人が部屋に入ってきた。

 現れたのは、後ろでまとめた銀髪に紫の瞳を持つ男性だった。
 顔立ちは整っているが、無表情で冷めた雰囲気をしていた。その人は、エミリーに言った。

「やっと目が覚めたんですね」
「あ……はい」

 口調も淡々としていて、とっつきにくい印象を受けた。

(この人が……私の愛する人?)
「あなたが、グエン先生……ですか?」

 彼はつかつかと無表情でこちらに近づいてきて、じっとエミリーの顔を覗き込んだ。

「自分の婚約者の顔を忘れたんですか?」
「……はい。実は、あなたのことを何も思い出せなくて……。すみません」

 やはり彼が、アステラのようだ。エミリーは申し訳なさげにそう打ち明けるが、アステラは眉ひとつ動かさず、平気そうな表情をして言い放つ。

「それなら好都合です。今日は婚約を――解消しに来たので」
「…………はい?」

 告げられた予想外の言葉に、目を見開く。
 扉の前に立っていたオリビアが、アステラにそっと寄り添う。アステラは彼女の腰に手を回した。

「僕はオリビアさんを愛しています。彼女と結婚したいので、僕と別れてください」
「エミリー、ごめんね……」

 オリビアは口先では謝罪の言葉を言っているが、どこか優越感を含んだ笑みを浮かべていた。


「……分かり、ました」


 そう答えるしかなかった。だって、エミリーはアステラのことを何も知らないのだ。
 彼を引き止める理由が、見つからない。

 三ヶ月ぶりに目覚めたその日、見知らぬ婚約者に別れを告げられ、すっかり感情が迷子になってしまったエミリー。

 何も分からないまま、気づくと愛する人は、人になっていた。
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