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 孫雁はひとり、部屋に残った。
 操魂の術のための祭壇の裏に、本物の樹蘭の遺体が安置してある。本来ならこの遺体に、樹蘭の魂が戻り生き返るはずだった。
 彼女は横たわっていて、その死に顔は驚くほど安らかだった。遺体の発見が早かったため、眺めていても、ただ眠っているだけのように見える。
 いつも眉間に皺を寄せて周りの人々を睨めつけ、叱責していたが、今は優しげな表情をしている。

(二日前までは生きていたというのに……。なぜだ、樹蘭)

 彼女の死を知るのは、自分の側近の文英、樹蘭の侍女である凛凛、そして――異世界人の宮瀬らんかだけだ。
 彼女の生家である周家にも伝えるつもりはない。

 樹蘭を殺したのは、皇后の座や権力を狙った者かもしれない。そして、殺害現場に落ちていた簪の持ち主の誰かてもある可能性がある。
 皇后が死ねば、次の皇后を誰にするかという話をしなければならない。
 だから、犯人が確定していない今は、らんかを使って樹蘭の死を隠しておくのだ。誰の思惑通りにもしない。樹蘭の地位を犯人に奪われるなどもっての外だ。

 樹蘭の首には、痛々しい圧迫の痕が全周に残っている。女の手で手前から首を絞めたと思われる痣の上に、くるりと一周する布の圧迫痕が重なっている。
 眼球には溢血点が見られ、顔面にはうっ血があった。そして、首が締まっているときに抵抗したことで、首に引っ掻き傷がつき、爪の間には布の繊維が挟まっていた。
 縄ではなく、布のような太いものを使っているようだか、首を絞めた凶器は発見されていない。これらは全て他殺の特徴である。

(無体な。痛く、苦しかっただろう。私が代わってやれたら、どんなによかったか……)

 孫雁はそっと手を伸ばして、樹蘭の頬を撫でた。彼女が生きているとき、陶器のように白く滑らかな肌だと思って見ていたが、今は本物の陶器のように冷たくなってしまった。

「――樹蘭」

 愛おしいその名を口にしてみても、反応は帰って来ない。

 孫雁は、彼女のことを愛していた。周家は李家と親戚関係に当たるため、幼いころから交流があった。言ってみれば、幼馴染のようなものだ。
 純粋で、素直で、いつもにこにこと笑っている。そんな樹蘭のことをいつしか恋い慕うようになっていた。そして彼女も、自分のことを想ってくれていると――自惚れていた。

 樹蘭は成長とともに誰もが息を飲むほど美しくなっていった。清廉潔白な性格で多くの人に好かれ、皇后の有力候補として後宮に入ることが決まった。しかし、そのころから、無垢だった樹蘭の笑顔が曇り始めた。
 彼女を悪女と呼ばれるほどに変貌させるほどの何があったのかは、分からないままだ。

 そして、樹蘭は輿入れの日を迎え、貴妃として後宮にやって来た。

(樹蘭は入宮してからの五年間、ただの一度も私に笑いかけてくれることはなかった)

 入宮した日、貴妃になった樹蘭の寝所へ渡った孫雁。昔から今もずっと好きだと伝えたが、幼いころに親しくしていた彼女の面影はなく、氷のような表情を向けられ、「私はあなたを愛しておりません」と冷たく跳ね除けられた。

 それから彼女は、孫雁からの寵愛を拒み、周囲へも冷たく当たり、悪女などと言われるようになった。
 彼女がどんなに嫌われ者になっても、孫雁の心は彼女に捕らえられたままだった。ただ彼女のことが好きだった。

 孤立していった樹蘭だが、唯一、凛凛にだけは心を許しているようで、いつも傍に置き頼っているようだった。

(きっとお前は、私の妃になどなりたくなったんだな。それなのに私は……お前にいつか振り向いてもらうことを――期待していた。手放してやれていたら、こんな結末にはならなかったのかもしれない)

 ひたむきに想い続けていれば、いつか心を通わせることができるのではないかと願ってしまったのだ。
 きっと樹蘭は、後宮という狭い檻に自分を縛り付けた孫雁が恨めしくて仕方がなかっただろう。だから、心も荒んでいったに違いない。

「すまない、樹蘭。私が憎いだろう。好きなだけ私を憎め」

 彼女の白い頬に雫がぽたりと一滴落ちる。
 孫雁は彼女の顔を見下ろしながら囁いた。

「――お前を殺した犯人を必ず見つけ出し、その首を墓に捧げよう」

 そのために、呼び戻しの術を使って現れた、樹蘭そっくりのらんかを利用するつもりだ。彼女は、顔の造形、体格、声、爪の形に至るまでの全てが気味が悪いほど樹蘭と同じだった。
 時折見せる柔らかな表情は、悪女へと変貌する前の樹蘭を彷彿とさせた。

 操魂の術は、先代たちが何度も実践しているが、失敗したことはほとんどなかった。
 今回も孫雁は手順通りに行い、確かに成功したはずだった。なのにどうして、樹蘭ではなくらんかが現れたのかは分からない。

 孫雁はすっと立ち上がり、名残惜しげに彼女のことを一瞥してから、部屋を出る。
 部屋の外で、文英が待機していた。

「彼女を誰にも知られずに、ひっそりと葬ってやれ」
「……仰せのままに」

 彼は両手を重ねて前に掲げ、敬意を示した。
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